腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
一人だけの教室に、二つの席がある。亡くなってしまったから灰原の席は残しておかない方がいいのかもしれない。だが七海は担任に残してもらうよう頼んだ。席まで無くなったら、友人の痕跡が消えてしまう。そこで座ってご飯粒を頬につけていた横顔は、もう二度と見れない。
「………」
食事時は一人だった。少し前までは三人で、時折六人だった。胸の中はがらんとしていて、その中にあったはずのものがない。大切な人間を失う衝撃たるや、世界最大の
灰原の死を七海は海外に渡航中の安倍にも話そうと思った。それこそあの日の夜、眠ることができず電話をしようとした。いつもはお互いの時差を考えてメールでやり取りしているけれど、そんな事すべて忘れて携帯を握りしめた。
しかしどうにもボタンを押す手が震えてできなかった。声を、今すぐにでも聞きたかったのに。灰原の最後の声が耳から離れない。結局携帯を枕の上に投げ出して、長い長い夜の後に朝を迎えた。
友人の死の事実をまだ処理できていない。それにこれを知った後の恋人の反応が怖い。間違いなく急いで日本に戻って来るだろう。相手にまで過剰な心労はかけたくない。だから話すなら自分からさせて欲しい、と七海は五条や夏油たちに頼んでいる。
メールは定期的に来ている。最近変わったのは七海から送ることが極端に少なくなったことだろう。相手は心配していたが、「任務が忙しく…」などと返している。
「ナーナミくんっ、あーそーぼ!」
昼食時、無表情でパンを口に入れる作業を繰り返していた七海の元に、五条と夏油がやってきた。七海は三年の教室に誘拐されてしまった。
五条は相変わらずふざけていて、灰原の死に様をただじっと見つめていた夏油は七海を元気づけようとしてくれている。「何かあったら私を頼ってくれ」と。以前と比べて夏油と話す機会は格段に増えた。一方家入は交ざったり、交ざらなかったりする。
「七海は毎日パンを食べているイメージがあるけど、栄養が偏らないのかい?」
「そこはきちんと考えているので問題ありません」
「一口もらっても?」
「…………構いませんよ」
最初からいかにも大口を開いて構える夏油は人の心とかないんか? そう思わざるを得ない七海は、それでも渋々差し出した。案の定多くの領土を奪われてしまった。ジロッと略奪者を睨んだが、どこ吹く風だ。幸いスパチャしていた名残でパンはまだある。
愚かなスグル・ゲトーめ。このパンは七海の本命ではない。この勝負、ケント・ナナミの勝利だ。
「じゃあ俺はこのパンも〜らい」
「五条さん!!」
ルパンと銭形警部の如き追いかけっこが始まった。教室から消えた二人はしばらくしてから戻って来る。七海の手には一口分だけかじられたパンがあった。「男子って元気ねぇー」と携帯をいじりながら家入が呟く。
温かな雰囲気の中で、凍土の中で固まっていた七海の氷がゆっくり溶けていく。この氷が溶け切るにはどれだけの時間がかかるだろう。それは彼にもわからない。灰原の死を受け入れて安倍に連絡をするには、まだ難しい。
「私はざる蕎麦が好きだよ。今度私のおすすめの店に行ってみるかい?」
「……まぁ、機会がありましたら」
七海の横で椅子の背を前にして長い足を投げ出す夏油の様子を、五条は少し離れた場所で見ていた。その表情は安堵に似た色だった。
七海は夏油と蕎麦屋に行った。任務帰りで夏油は安倍とも行ったことがあるらしく、そこでわんこ蕎麦の記録に彼女が挑戦したという話を聞いた。制限時間三十分でどれだけ食べれるか、というもの。
一定数を食べたら挑戦料が無料になるというシステムで、安倍は人外の記録を出して歴代一位を勝ち取った。夏油はこの時「宇宙人だ…」と改めて思ったらしい。妊婦のように膨れた腹はバ鹿食いしているウマ娘のような、特殊な獄門疆を開きかねないアレなアレだった。
そんな話をしながら七海は天ぷらそばを食べた。夏油はざる蕎麦を食べる。変…長い前髪が邪魔なのか耳にかけていた。夏油のそれは福耳と呼ばれる耳だ。その「福」どおり縁起がいいとされる。大仏も大体この耳だ。
そういえば安倍は夏油のこの耳を「ピアスで拡張してるのかな?」と言っていた。普通に失礼な発言だった。
「安倍先輩とはちょくちょく連絡してるのかい?」
「え? あぁ…はい」
「相変わらず仲が良いんだね」
「……あまり、私の方からは連絡できていません」
「…そうか」
先輩たちに気を遣われているのは肌で感じた。五条は元来のおちゃらけ変人だけれど、最近は意図的にお道化を演じている。
七海は、と夏油が口を開いた。一度口を閉じた彼は、「今が辛いかい?」と続けた。今日の夏油は少し雰囲気が違かった。それを言葉で表すのは難しい。でも靴の左右を間違えて歩いた時のような、チグハグさがある。七海は相手の問いに小さく頷いた。
「身近の人間が死ぬ。呪術師なら当たり前の考えなのかもしれない。でも私はその認識が甘かった。五条さんも夏油さんも強い人だ。安倍さんも強くて、灰原も私も死なないと心のどこかでそれを“普通”に思っていた。でも、灰原は……!!」
「七海」
「私が………死んだ方が…」
「七海、それは言ってはいけない」
自分の涙は枯れたなんて七海は他人事に思っていた。だがまったく枯れていないじゃないか。天ぷら蕎麦の中にポタポタと雨が降ってしまう。こんな弱さ、彼女にはとてもじゃないが見せられない。ただ一人で抱え込むには友人の十字架は、あまりにも重すぎる。
「七海、私も灰原の遺体を見た時、辛かったよ。けれどお前のようには泣いてやれなかった。……私の心は醜くなってしまったのかもしれないな」
「………」
「どうすれば灰原は死なずに済んだのかと考えたんだ。呪霊の等級を見誤った高専側にはもちろん過失があった。だがもっと根本的な話、呪霊がいなければ灰原はおろか、これまで殉死した術師たちは死ななかったはずだ」
「そんなの、無理な話でしょう」
「そうだ、無理だ。無理だからこそ、私は──」
真っ白くなった手に耐えきれず、二本の被害者が出た。折れた箸がテーブルに落ちる。表面はギザギザとしていて、夏油の手からは血が流れていた。
この後気づいた店員がやって来て、軽いいざこざになった。
結局話は中途半端に終わり、二人は店を出た。七海は夏油が何を言いかけたのか聞こうとする。でも何も言えなかった。前は広いと感じていたその背中が小さく見える。「なぁ、七海」と夏油が言葉を発した。
「トロッコ問題ってあるだろう? お前ならその問題に直面した時、一人のために複数を犠牲にするか、複数のために一人を犠牲にするか、どちらを選ぶ? その一人がお前の大切な人間だったらという前提で」
「……私は」
その一人を犠牲にする。頭ではそう思った。それを答えにすることは彼にはできなかった。
「………いや、答えなくていい。すまなかったね、変な質問をして」
「……大丈夫ですか、夏油さん?」
「私かい? 私は大丈夫だよ。本当に……悪かった」
何だか夏油のその姿は、底なし沼から首だけ出しているようだった。手を出してあげるべき七海も底なし沼に入っているから、二人で仲良く地獄の中を泳いでいるみたいだ。
夏油は「次の任務があるから、じゃあね」と途中で別れた。七海はぼんやりとその後ろ姿を見ていた。
呪術高専三年、特級術師の夏油傑が集落にいた百名以上の人間を殺害。高専から脱走した。
以降彼を特級呪詛師として認定する。
七海建人は思った。「呪術師はクソだ」と。