腹凹毒蟲【Q】   作:アンディライリーのうさぎ

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十七話 こんにちは、お月さま

 七海の様子が最近おかしい。メールで尋ねても「任務が忙しくて」やら「五条さんにパンを盗まれまして」やら、詳しいことはわからなかった。

 

 櫻はもしや、七海が五条や夏油から彼女の過去を聞いたのではないかと思った。だから自分を気味悪がって、距離を置こうとしているのではないかと。ただもし二人が彼女の過去を話したなら、きちんと連絡してくれるだろう。

 

 なら、そんないや、まさか……。

 

 

「硝子ちゃんか、それともメーメーさん? 歌姫ちゃんは………ないか」

 

 

 七海が高専で接触しそうな女性は概ねこの三人で、補助監督も含めたらさらに候補が増える。もちろん七海を信じてはいるけれど、恋の麻薬中毒者な櫻はこの疑念を捨て切ることができない。真相を確かめようにも、本当に他に好きな女性ができていたらと思うと聞けなかった。

 

 ホットドッグマン、君の塗装は少しはげてしまったね。

 

 

 そんなある日、アイスを中々くれない屋台のおじさんと格闘していた最中、連絡が来た。高専からである。内容は夏油傑が呪詛師に堕ちたという話だった。

 

 あぁ、と彼女は思った。呪術師の存在意義について夏油は疑問を抱いていた。彼は善人だった。けれど深淵をのぞいてしまって、どうにか踏ん張っていたけどそこに落ちてしまった。

 

 五条は今ヤムチャのようになっているかもしれない。夏油の離反を知らせる連絡がないのだ。それをする事すらできない状態なんだろう。精神が落ち込んでいる夏油を気にかけるよう話しておいたが、ダメだったようだ。

 

「ということは特級呪詛師の誕生か。夏油くんは踏みとどまれなかったのか…」

 

 櫻は本当にギリギリのところでブレーキをかけられた。見下ろせば断崖絶壁の場所で。いや、殺人履歴はあるから半分呪詛師っちゃあ呪詛師だ。まぁ生きるためだったから仕方ない。こういう時にNO倫理は必要だ。

 

 

 夏油の闇堕ちに思ったより感情が揺さぶられなかった櫻は、「そういうものなのか?」とようやくもらえたアイスを食べる。おっちゃんは一級呪術師の身体能力をもってしても最後までアイスを守りきった。恐るべき影の実力者である。

 

「……ナナミンくんは、大丈夫かな」

 

 今の時間、向こうは夜だろう。夏油を慕っていた灰原は五条の次に落ち込んでいるだろう。なら今はその灰原を七海が慰めているかもしれない。

 

 途中まで番号を打って、発信ボタンは押さなかった。

 

 櫻は瞳を閉じ、空を見上げてアイスを頬張る。一瞬でスコーンごとこの世からアイスは消えた。

 

 遠くに浮かぶ雲。あれはきっとくじらぐもだ。空の海を泳いでいる。あのくじらはしかしせこい奴で、誰も乗せない。我がもの顔で地上にいる人間たちに「この海はわたしのものだ」と自慢する。

 

 

「まだ、ヘンテコ眼鏡も見つかってないんだけどな」

 

 

 

 

 


 

 

 数日後、夜中に非通知で電話があった。井戸から出た貞子の姿で櫻は電話をとる。半分夢うつつで不機嫌さを露わにし、電波に呪いを込めてやろうとさえ思った。

 

 だが意識は一気に一本釣りされた巨大マグロの如く地上へジャンプする。君はゲトー、ゲトーじゃないか! 

 

「聞いたよ。集落の人間を殺したんだって? 何があったの?」

 

『……呪力を持った罪なき少女たちが虐待され、監禁されていた。村人の奴らに』

 

「夏油くんは、人間が嫌いになっちゃったの?」

 

『私が嫌いなのは非術師の猿どもですよ、安倍先輩』

 

「あなたも嫌いでしょう?」と夏油は続ける。櫻は確かに人間が心底嫌いだし、それを向こうは知っている。その理由も夏油は知っている。散々と人間に食い潰されて来たから、櫻は人間が嫌いだ。だからそんな彼女に夏油がわざわざ連絡して来た理由もわかる。

 

「私は呪詛師にならないよ。なったら悟の坊ちゃんに殺されてしまうからね」

 

『あなたの“誰かの小さな幸せ”を願うその気持ちを、猿どもに虐げられる子らには向けてもらえないのですか?』

 

「私の小さな幸せルーレットは平等なんだ。術師だろうが非術師だろうが関係ない」

 

『………』

 

「君はその猿どもを殺し、どうしたいの?」

 

『非術師を殲滅し、術師だけの世界を作ります。そうすれば呪霊も生まれることはなくなる』

 

「すごいなぁ、何十億人も殺すの? 大変そうだね」

 

『……私はあなたに力を貸して欲しい』

 

「だから言ったじゃないか。人を殺したら私は悟の坊ちゃんに殺されるんだ。最強に勝てるわけがないと、君だって分かっているはずだ」

 

『先輩は私を止めようとしているんですか?』

 

「いいや、薄情だが君の選択にはさほど驚いていないし、離反についても「そっか」くらいにしか思ってないよ」

 

『……私は先輩にとって、その程度の人間だったというわけですか』

 

「待て待てい! 君のことは大事な後輩だと思っているよ。でも、人が堕ちるなんて当たり前の話でしょう? 人間の汚いものばかり見ていたら心が壊れていくのは当然のことで、だから、夏油くんの選択も間違っているとは思わない」

 

 それに櫻が呪詛師になれば七海が傷つく。だからその道は絶対に選ばない。

 

『………ハァ、無理そうですね』

 

「安心しなよ。今私は呪術師をお休み中だから上に報告する義務もない。君が電話をかけて来たのはトルコ版メリーさんのイタズラだと思っておくね」

 

『いずれはメリーさんも欲しいですよ』

 

「……あっ!! 私が呪霊を食べれるって知ったなら、君の作ったあの黒い球を一回食べさせてくれない!?」

 

『すみません、これ以上宇宙人の方と話したくないので切ります』

 

「そんなっ、夏油くん!!!」

 

 

 さようなら、安倍()()。そう言って夏油は電話を切った。本当にメリーさんみたいな唐突さで来た、後輩だった男からの電話だった。

 

 ツーツーと、彼女の耳元で音が鳴る。

 櫻は携帯を持ったままベッドに横になり、ため息をついた。

 

 そう言えばイマジナリーフレンドナナミンは、随分長いこと出張から帰って来ていない。

 

 

 

 

 


 

 

 一人の教室。五条は任務が増え高専にいないことが多い。家入は感情にスモークのシャッターをかけて、心を暗闇にして治療する。七海は一人だ。後輩に頼れる先輩だと慕われているけど、どこまで行っても一人だ。

 

 

 家の鏡を見たら目にくまがあった。頬が少し痩けていた。こうして見ると実年齢より一回りは老けて見える。ブラック勤めで終電を逃したようなサラリーマンの顔だ。触れて見ると鏡の男は自分の顔に触れる。この顔は七海の顔なのだ。亡霊のようだ。

 

 ペタペタと歩いて、テーブルにあった携帯を取った。チョココロネのしっぽの方が少しはげている。七海はベッドに座り、番号を押した。こちらは今夜で、向こうの時間はわからない。相手のメールを読めていない。未読のメールは増えるばかりだ。

 

 電話は一コールもしないうちに繋がった。

 

 

「安倍さん」

 

 

 七海の心は、がらんどうだった。

 

 

 

 

 


 

 

 七海からの電話に「………トルコ版メリーさんの再襲来か?」と思った櫻は、寝ぼけ眼で表示された名前を見て一瞬で出た。メールの返信がなく、いよいよ日本に戻ろうと思っていた頃だった。

 

 ピッタリと鼓膜がのりでくっ付けられたように携帯に耳を寄せる彼女は、七海の声を必死に聞いた。電波のせいで生とは少し違うが、七海の声だ。七海の、ナナミンの声。声色は疲れ切っていて、彼女の名前を呼んだ後、静寂が訪れた。櫻は思い出したように「七海くん?」と返す。

 

 

『灰原が、死にました。二級の任務が一級相当で、私は灰原とそこに向かい、私が逃げて、灰原が死んでいて──』

 

「なな………七海くん、一旦落ち着いて」

 

『アイツがいない教室は広くて、静かで、夏油さんまでいなくなった』

 

「お願い、聞いて。一度深呼吸して」

 

『五条さんも家入さんも変わった。ここの空気はひどく重い』

 

 七海の声は震えていた。電話越しに櫻は相手が泣いていることに気づいた。なぜ彼女は今七海の側にいないのだろう。今彼の側にいられたら、抱きしめて震えが収まるまで一緒にいるのに。

 

『呪術師はクソだ。灰原は死んだ。夏油さんは呪詛師になった。本当に、本当に………』

 

「すぐっ、すぐに行くから! だから待ってて!!」

 

『想像したんです。あなたが死んでしまったらと。もしその時が来たら、私は耐えられない』

 

「私も……同じ気持ちだよ」

 

『………すみません、こんな弱い自分を見せたくなかった。子供(ガキ)みたいに喚き散らして…』

 

「…大丈夫。七海くんの気持ち、全部聞くから」

 

『私は弱くて、灰原を救えなかった。夏油さんの違和感に気づいたのに、何もできなかった。こんな中途半端な自分が呪術師になんて、なれるわけがない……』

 

「違う、七海くんは強いよ」

 

『強く、ない。五条さん(あの人)のように圧倒的な力があれば良かった。そう思ったところで意味のないことはわかってます。………安倍さん、私は高専を辞めます』

 

 

 あなたに呪術師にならないで欲しい。七海は櫻にそう言った。一方的な押し付け(と言っても場合による)を嫌う七海の発言に、櫻は改めて彼がどれだけ思い悩み、苦しんだかを知る。

 

『あなたは五条さんじゃない。死んで欲しくない』

 

「………七海くん」

 

 櫻は人間であって、呪霊でもある。人間じゃなくて、呪霊でもない。そこに存在するのに触れない透明人間のような存在で、クソみたいな人生の連続で今更普通の幸せを掴めることがないともわかっていた。だってすでに人を殺している。呪霊寄りになった彼女が「櫻」であり続けるためには、呪霊を祓う側でいなければならない。

 

 それに一度逃げてしまえば、彼女はその味を覚えて毒虫に変身してしまうだろう。弱い心ができて、美味しい肉に誘惑されて。

 

 まるでカフカの芋虫のようだと、櫻は思った。

 

 

「ごめんね、七海くん」

 

 

 

 

 

 電話が終わった後、彼女はその場で崩れ落ちた。洪水を起こすように床に大粒の涙を落とす。携帯を握りしめて何度もそこにいない人に謝って、頭を床に擦り付けた。自分が普通の人間だったらよかったのに。彼女は化け物だ。忘れてはいけない。人間も呪霊も食らう化け物で、人の心を学んだのに肝心な部分で共感することができない。どこか人とズレている。それはお前が人間の皮を被っているに過ぎないから、ズレているのだ。

 

 知れ、お前は化け物だ。

 

 

 櫻の前にはもう、イマジナリーフレンドナナミンは現れなかった。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 日本に戻った櫻は、数か月ほど家の名義で借りているマンションの一室に引きこもっていた。風呂に入ったり知人にメールを返したりしていたが、その間の記憶がない。

 

 お友達は家に入り込んだハエトリグモで、彼女は『ナナミン』と名付け可愛がった。もちろんその記憶もない。

 

「ナナミンどうしたの? 小さくなったね」「その体じゃ私のこと持てないじゃん」と話しかける彼女の側で、ハエトリグモは百虫たちが獲ってきた虫をもきゅもきゅ食べていた。ハエトリグモに人間の言葉は分からないのだ。対し新入りのアシダカグモくんはナナミンを捕食する可能性があったので、百虫たちに殺された。

 

 当然家に食料はないわけで、櫻が食べていたのは呪霊だ。子分が持ってきた栄養で点滴を受けていた。経口摂取しなくても維持されるこの肉体。

 

 かすかに正気に戻ったのは、ろくに見ていなかった鏡の自分が()()()()だったからだ。やっぱり異常だ。私はおかしいね。自嘲気味に笑って、引きこもり生活は幕を閉じた。

 

 ナナミンはそのすぐ後、途方もない飢えに襲われた彼女の腹に収まった。

 

 

 

 それから高専に行き夏油傑や灰原雄の件を聞いたのち、一通の手紙をもらった。すでに高専を去った七海からだった。内容は「社会に長年揉まれたサラリーマンが書いたんか?」と思うほどの丁寧さで、謝罪の言葉が並べられていた。七海くんらしいな、と櫻は思った。

 

 正気に戻った時に携帯を見たら七海の番号が消されていて、設定も着信拒否にしていたから、色々と心配をかけてしまっただろう。でももう別れたんだ。七海は一般社会を選んで、櫻は呪術師を選んだ。それだけだ。

 

 手紙には高専を辞めることを『逃げた』と書いてあったけれど、七海がそう思うのだとしても、彼女はそれを“逃げ”だとは思わない。櫻はお土産に大量のパーティーメガネを渡し、高専を去った。

 

 

 

 まだ、一年のモラトリアムの時間が残っている。

 

 虚無感が王座を占める彼女の心は、遠い太陽の光を求めていた。ふと、久しぶりに院長に会いたいと思った櫻は児童養護施設を訪れた。

 

 しかし出て来たのは知らない「院長」を名乗る人物で、元の院長は年齢から辞めたのだと聞いた。その人物は彼女がこの養護施設の出身だと知ると、一旦席を立ってから戻って来る。

 

 院長はここから遠い場所で家族と暮らしているらしい。かつて関わった子供たちと手紙のやり取りをすることも多く、櫻は現在元院長が住む住所の書かれた紙をもらった。

 

 彼女はその日のうちに手紙を書き、ポストに投函した。願わくば返ってきた手紙に太陽の匂いが残っていればいい、と思いながら。

 

 

 

 太陽が眩しく光っている。その日の天気は晴れだった。櫻は布団を干し、鬼叩きの刑に処した。手紙を出してからソワソワしながら待っている。お目当てのものはその夕方にやってきた。帰って来たら手紙が来ていて、住所は院長が住む場所だ。

 

 はやる気持ちを抑え、大量のレジ袋をテーブルに置く。手紙を鼻につけて匂いを嗅いでみたけど、彼女は警察犬じゃないからよくは分からなかった。

 

 手紙には丁寧な文で色々と書かれていた。櫻は知った。

 

 

 

『母は先月、胃癌で亡くなりました』

 

 

 

 ビリビリに破かれた手紙がゴミ箱に捨てられる。はは、と部屋にいる人物は泣きながら笑った。太陽が沈まないなんて、どうして櫻は勘違いしていたんだろうね。太陽はやがて沈む。人はいつか死に、そして終わる。当たり前のことを彼女は忘れていた。灰原の死を前にした七海もこんな気持ちだったのかもしれないと、顔を覆いながら思った。

 

 死ぬんだ、死。櫻もいつか死ぬ。七海もいつか死ぬ。天上天下唯我独尊(ノーデリカシー)の五条悟もいつか死ぬ。これが世の無常? 命は儚いものなんだ。櫻はまた一つ学んだね。

 

 

「七海くん、七海くんは言ってたね。私が死んだら嫌だって」

 

 子供たちに強制帰還命令を知らせる五時のメロディーが流れた。それに合わせてカラスが舞台に立ち、すばらしい歌声を披露する。

 

「五条悟のような無二の強さは確かに、あなたにも私にもないね」

 

 帰ろう帰ろう。公園にいた子供たちが汚れた手のまま走って行く。

 

「だったら、私が死なないくらい強くなればいいんだね?」

 

 

 櫻はうっそりと笑った。涙はもう乾いていた。ベランダから差し込む光が消えて行き、星の時代を迎える。

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