腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
五条が高専と色々話し合っている中、近くのホテルに泊まった櫻はそのまま眠った。
翌日、五条が置きっぱなしにしていたサングラスに「ナナミン、黒くなったね?」という精神状態に戻った彼女は、問答無用で精神病院に連れて行かれた。呪術界から一旦彼女を離したかった五条としてはちょうどよかったかもしれない。ゴリゴリに彼のSAN値は削られているけども。
一か月ほど彼女は入院して、高専からも「戦える状態ではない」ということで正式に休職申請が通った。
退院後、『ナナミン』を頭につけた彼女は五条に連れられ、アパートに訪れた。ちなみに、一時的に人を傷つけないよう“縛り”はしてある。
まだ十歳にも満たない子供が二人。少年の方は姉の服をつかみ後ろに隠れていて、五条は座ると手を広げて「久しぶりだね、恵ぃ〜」と笑った。その腕の中には誰も突撃して来ない。オホン、と彼は立ち上がり咳をする。
「二人に話してたでしょ? こちらが例の二人の家族になってくれるお姉さん。このお姉さんは本当は忙しいからずっと家族で…ってのは難しいけど、仲良くしてあげてほしいんだ」
「わ、わたしは伏黒津美紀です!」
「……めぐみ」
「そしてこの僕が
「………」
お姉さんは虚空を眺めるのに忙しいようだ。五条は仕方なく代わりにお姉さんの後ろに立って、裏声で「あたしぃ、あべのさくらちゃんっていうのぉ!」と言った。恵くんがドン引きした。
「……このお姉さんはさ、色々あって疲れちゃったんだ」
「だれかにいじめられたの?」
「お姉さんをいじめる人がいたら、僕がやっつけるから大丈夫だよ」
「…わかった! お姉さん、いっしょに晩ごはん食べよう!」
津美紀はお姉さんの手を小さな両手でギュッと握った。その手はひどく冷たくて、目を丸くした津美紀は擦る。あったかくなるように、そうして何度か繰り返した。「こっちにはね、キッチンがあってね!」と連れられて櫻は廊下を歩いて行く。恵は一瞬五条を見て、姉の後をついて行った。
「………」
かすかに聞こえた声。太陽のにおい、と櫻は言っていた。
その言葉を耳にした五条は、唇を噛みしめる。
ここには確かに、陽だまりがある。
朝イチで起きるのは津美紀で、幼いながら家事を一生懸命にこなす。恵も起きたらその手伝いをした。
伏黒家は両親が蒸発し、二人が残された。姉弟に血の繋がりはない。二人ともそれぞれ連れ子だ。五条がなぜ彼らと関わりがあるかと言えば恵の父親と因縁があったからで、少年の血統を遡れば御三家の一つ『禪院家』にたどり着く。
この家の相伝を継いだ恵は父親に売られそうになった経緯があり、それに五条が待ったをかけて高専の金銭援助を得た。ただしこの金銭援助の裏には「恵が将来呪術師になる」ことを前提に確約された。
子供二人が服を干すには台が必要だし、流しも台が必要だ。お風呂も全身を使って上下左右に踊るみたいにスポンジで擦らなければならない。買い物も袋が重くて大変だ。それでも津美紀と恵は血がつながらなくてもお互いしか家族がいないから、身を寄せ合って暮らすしかなかった。そして二人だけでも、幸せはある。
そんな中に「櫻」という女が加わった。津美紀はすぐに打ち解けたが、恵はなかなか心を開かなかった。
だってあのゴジョーのように背が高いのだ。顔だって冷たい感じがするし、何もない場所を見ていることもある。そこには黒い奴らだっていないのに。話もしないし、とにかく不気味だった。
そんな彼女に姉は優しく接していて、それがまた少年は気に食わなかった。姉を取られたように感じたからだ。
ある日の朝。布団から一歩出たら雪だるまになってしまいそうな、そんな寒い日。恵はもぞもぞと動いて、なんとか顔だけ布団から出した。冷気がチクチクと意地悪をしてくる。また布団に潜りたかったけれど我慢して、いつものように姉を手伝おうとした。
「……あれ?」
津美紀がまだ、隣で寝ている。しかし襖の先には電気がついている。「あっ!」と言おうとした口を恵は慌てて押さえた。津美紀のさらに奥の布団が畳まれている。もしや金目のものを盗んで、逃げようとしているのかもしれない!
なるべく足を立てないよう、恵は忍者の足取りで明かりが差し込む隙間に目を近づけた。
先にはキッチンがある。テーブルの先に女は立っていて、五条が色々と揃えてきたものの中にあったピンクのエプロンを付けていた。何か音がする。トントントンと、一定のリズム。なんだ、何か怪しい匂いもする。恵は口元を拭い、女の後ろ姿を睨み続けた。腹に手を当て、気力をふり絞って腹の虫が鳴かないようにする。決して気を許さないと彼は決めているのだ。
「!」
気づけば津美紀も起きていて、恵の後ろで笑っていた。小さな声で「おはよう」と言う。恵の顔はたちまち真っ赤になった。
「二人とも、起きたんだね」
開いた襖には、デカデカと中央に桜の刺繍が入ったエプロンをつけた女が立っている。少しずつ、本当に少しずつ瞳の光を取り戻していった女は、その日はじめて二人に笑いかけた。作り物みたいな笑顔だけれど、優しい笑顔だった。
「朝ごはんを食べる人は、手をあげてください」
「はーい!」
「………」
「ほら、恵も!」
下を向いてブスくれていた恵に、櫻はかがみ込んで「正直な子にはウインナーがもう一本ついてくるのに…」と言った。
「ん!!」
半ばやけっぱちで、恵の手が上がった。綺麗に、頭上めがけて一直線に。
桜の季節がやってきた。お花見をしようという話になって、櫻は学生時代に使っていた七重弁当を持ってきた。
早速タクシーに乗って、花見を独占できる山へときた。あたり一面満開で、桃色のじゅうたんが敷き詰められている。レジャーシートを櫻が敷く間、二人は花吹雪の中を駆け回っていた。
彼女の味覚はだんだんと戻り、その大食いを披露するようになった頃には恵も津美紀もその食い意地に慣れていた。
朝から驚きの速度で作られた七重の塔の中身は色とりどりで、紙の小皿を持った恵がそわそわしている。割り箸とは別に取り箸も持ってきた。津美紀は弟の分を先によそってあげ、次は自分の分をよそう。櫻は残った分を吸収する役割だ。
「じゃあ僕はこの卵や…」
「なんでいるんだよ、あんた」
「何でいるの、五条さん?」
子供たちの純真無垢な目が、いつの間にかいた男に注がれる。櫻に至っては取り箸を持ったまま、長包丁を持った寿司職人のような顔で五条を凝視していた。完全に
五条のハートはしかしダイヤモンドでできている。耳に向かって飛んできた取り箸を無下限で止める。気のせいかな。この箸、鼓膜を破って脳を狙おうとしていなかっただろうか?
一人増えたでかい子供は受け入れられ、卵焼きや手巻き寿司を頬張った。
昼食をいっぱい食べて、遊んで、子供二人はおやすみモードに入った。恵は櫻の胸に顔を突っ込むようにして寝ている。津美紀はシートの上で器用に座ったまま寝ていた。
「子供は不思議ですよね。温かくて、ミルクの匂いがして、柔らかくて美味しそう」
「おい」
「ははっ、冗談ですよ。半分」
この小さな子供たちは父親が星漿体の少女を殺し、そして呑気に卵焼きを食べていた男に殺されたことなど知らないのだ。幸せそうな顔で、二人は寝ていた。
「悟の坊ちゃん、私そろそろ呪術師に復帰しようと思うんです。もう随分と休んでますから」
「あと一年くらいは休んどけ。またぶっ壊れるぞ」
「でも坊ちゃんに任せっきりですし。九十九さんは高専の依頼を引き受けないですし」
「大丈夫、僕は最強だから」
花吹雪が舞う。少年を抱く女の姿は、そのまま風に乗って溶けてしまいそうだ。五条は思わず目をぱちぱちとさせた。真っ赤な目がどこか遠くを見ている。虚空を見つめているわけじゃない。彼女が彼女自身の心をのぞいているようだ。
「坊ちゃんが伏黒姉弟と私を合わせた理由はわかりました。私は、私一人じゃ立ち直れない」
前はイマジナリーフレンドナナミンがいたけれど、もう現れなくなってしまった。あれはただの彼女の妄想だった。不可思議が混じった幻想だった。
「ここには小さな幸せがある。でもやっぱりこの“小さな”幸せは、私のものじゃないんですよ」
どこかの誰かの、小さな幸せ。その一つがこの箱庭。一匹のウグイスはここに迷い込んで、二匹の子犬たちが遊んでいるのを見つけた。そこにウグイスも混ざって、二匹と一羽で遊んだ。けれど子犬とウグイスは同じじゃない。犬は飛べないし、ウグイスは「わん!」と鳴かない。違うのだ。
「守ってあげたい。こんな、小さな幸せを」
恵のウニ頭に顔を寄せ、櫻は目を閉じる。子供の匂いがする。側から見たら、眠る子供をあやす母親のようだ。
五条も目を瞑って、花の雪を降らす桜の木を見上げた。
「そろそろ帰りましょうか。津美紀ちゃんを持ってもらっていいですか、サトゥルヌス」
「は?」
五条は「悟の坊ちゃん」から、「サトゥルヌス」と呼ばれるようになった。