腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
二十二話 コドク心中
過去を打ち明けなければならない日が来ることは、櫻もわかっていた。それで七海に拒絶されても、話が上層部に伝わり秘匿死刑になったとしても、彼女は腹を決めた。
年上の威厳など捨てて親に叱られた子供のように泣きながら話した。二人だけの部屋はシンとして、時計の針がチクタクと鳴る。顔を手で覆い隠して震える彼女の頭に、七海の手が触れた。ぎゅうと抱きしめられる。
「………」
七海は何も言わなかった。櫻が落ち着くまでただ静かに待った。
ようやく顔を上げた櫻は七海の顔を見た。崖から身を投じた女を包み込むような海がそこにある。綺麗な目だった。それに耐えられなくて、「私が怖くないの?」「嫌いにならないの?」と櫻は話す。
「……正直まだ色々と衝撃が大き過ぎて、何と言ったらいいかわかりませんが…」
七海の両の手が、それぞれ彼女の手を握る。
「私はこの手を離したくない。……二度と」
紅い目が丸くなった。七海は随分と幼い彼女の表情にふんわりと笑って、口付けた。
ある日、五条に元後輩から連絡が入った。これが上層部の、しかも厄介な話だったら舌打ち一つこぼしたい気分になったが、画面に表示された久しい名前にテンションが上がった。ウザ絡みすると案の定ため息を吐かれ、「相変わらずですね、あなたは…」と返される。
「それで急にどうしたのよ、七海」
電話の内容は「呪術師に復帰したい」というものだった。七海の高専にいた頃に起こった出来事を考えれば、五条はなぜ今戻ろうと考えたのか疑問に思った。それは彼が親友から最後に会った時に聞いた言葉が関係している。
────七海には悪かった…と、伝えておいてくれ。
その言葉の真意が何だったのか、その時の五条はわからなかった。しかし安倍が呪術師に復帰して「そう言えば…」と夏油がトルコ版メリーさんになって連絡してきた、という一瞬「ハ?」となった話を聞いてから、はじめてわかった。
当時七海は灰原の死で精神的に不安定になっていた。夏油が櫻を引き込みたいと考えていたなら、もっとも手っ取り早いのは彼女が執心する七海を呪詛師に引き込んでしまうことだ。
その行動に対して、夏油は謝っていたのだろう。
つい過去を思い出してしまった五条は七海の訝しむ声で我に戻る。「メンゴメンゴ〜、聞いてなかった」とすぐに取り繕った。
可能性としては全くない、とは言えない。夏油が七海と繋がっているかもしれないという可能性が。何せ五条は「呪術師はクソだ」と言ったあの七海が、この世界に復帰する理由がわからないからだ。
『ですから、呪術師に復帰しようとは考えていますが、その前に結婚式と新婚旅行が控えているので、復帰自体はその後にしてもらいたいと…』
「へぇー、結婚式と新婚旅行……………えっ、誰の?」
『私ですが』
「お前が?」
『だからそうだと言っているでしょう』
「そっかぁ、七海が」
さっきまであったワンチャン呪詛師との繋がり云々は、五条の中で人魚姫のあぶくのように消え去った。モヤの消えた五条の心は台風明けの空の如く澄みわたっている。だがその上でスズメがプリティーなオケツを向けていることに彼は気づかず、被弾した。
「ハァァァ!!? お前が結婚!?」
櫻が過去を打ち明け、本当に結婚を前提にしたお付き合いが始まった。ついでにプロポーズもこのリハクの目をもってしても見えなかった電光石火の早業で終わり、彼女の頭は一面のお花畑状態。七海が呪術師に戻るのも「あなたを守るため」というものだったので、殊更にお花畑が進行する。
そんなニヤニヤの止まらない彼女に補助監督の
「あっ…そう言えば伊地知くんは七海くんの後輩だったっけ?」
「え? あ、あぁ……はい」
五条とはまた毛色の違う美人。血が通わない日本人形の冷たさを感じる顔がこれでもかと幸せオーラをアピールする。内心伊地知は「可愛らしいな…」と思ってしまった。いけない。今は仕事中。
「エヘン、オホンッ! ………実はわたくし、最近七海くんとよりを戻しました!!」
「…え、以前に付き合っていらしたんですか!?」
「おっと、伊地知くんは私が旅立った後に高専に入ったから知らなかったか。それで、まだ予定を立ててる段階だけど、結婚式が終わったら新婚旅行に行ってくるね。ちゃんと君らの分もお土産買ってくるから!」
情報量が多すぎる。伊地知はそう思った。まぁ本人が幸せそうだからいいだろう。
特級術師がしばらく休むとなっては上層部との間でいざこざが起きそうだが、その緩衝役に立たされるのは彼のような中間管理職。未来に起こるであろう積み重なる書類が想像できて、伊地知は静かに涙を流した。
結婚式が終わり、そのまま二人は海外へハネムーンに行った。デンマークでは七海の祖父母に会い、流暢にデンマーク語を話す嫁に七海は「え…?」となった。何なら少しかじった程度の彼よりイントネーションも何もかも完璧だった。櫻は秒で彼らと打ち解け一週間ほど滞在した。
他に行った国で印象深いのはマレーシア。七海の“小さな”幸せをそこで聞いた櫻は、「いつか一緒に暮らそうよ」と話す。
今すぐには無理かもしれない。でも新たな芽は今この時も芽吹いて、大樹になろうと陽の光をめいいっぱいに浴びている。その時が来たら次世代へバトンを渡せばいい────。
櫻は浜辺で旦那の上に覆い被さって、そんなふうに言う。
二人の横で白い砂浜に夕陽に照らされた波が押し寄せる。背中に感じる冷たさに一瞬七海は身震いした。こちらはサーフパンツのみだ。向こうは純白のワンピースで、上に七海が着ていたパーカーを羽織らせている。色々と周囲の視線が釘付けだったので、不機嫌を露わにした彼が着せたのだ。
「……一緒に、ですか」
「そう、一緒に。第一よ、一般社会には定年退職があるわ! だったら私もやめたって問題ない! ……って、思うようになれたの」
「七海くんのおかげかな?」と櫻は続けて、旦那の体の上に寝そべった。ピクッ、と七海の手が動く。ヒトデの形の指の跡が砂浜にできた。理性の糸がこんなところで切れるほど、彼は柔くない。
ちゅっ、と無意識に寄っていた眉間の場所にキスが落とされる。甘い匂いはもはやボツリヌストキシンAのそれ。猛毒で、七海を殺しに来ている。
「だぁいすき、建人くん」
理性の糸は、案外脆かったよ。
ベッドシートの上に長い黒髪が散らばっている。ホテルのカーテンから差し込む薄明かりに目覚めた七海は、隣の頭を撫でた。人形のような肌は彼女の名前のように桜色になっている。目尻に口付けてから七海はカーテンを開けた。
窓を開けると潮の匂いとともに波の音が聞こえてくる。ザザァ、ザザァ。押しては引いて、押しては引いての土俵際。そこで小さなカニが貸切の砂浜を謳歌している。海鳥の鳴き声も聞こえた。
こんな場所に家を建てられたら、きっと幸せだろう。そこに彼女もいたとしたら、七海はこの世界のすべての幸福というものを奪ってしまう気持ちになるに違いない。
「…強く、ならなければ」
目を閉じれば朝焼けの空が消えて、友人の死に顔が蘇る。何年経ってもその姿は色褪せる事がない。夏油と蕎麦屋に行った時、相手が見せた表情もフォルダに保存された写真を見返すように思い出せる。
七海は逃げた。灰原の死から逃げた。呪術師そのものから逃げた。逃げた先で彼は淡々と日常を繰り返した。中途半端な時期に高校へ編入して、大学に行って、就職して。約半年味わっただけの社会人生活はまぁ「クソ」だった。そんな生活の中で残業を終えてから家に帰って、疲れ切ったまま眠る。だというのに眠れない。そんな生活が続いた。
そして限界をとうに過ぎた頃に、七海は出会ったのだ。血まみれの天使に。
「あなたは絶対に、私が守ります」
朝日が七海を照らした。夕陽とは違う紅い色。夜の到来を告げるものではない、朝の始まりを知らせるもの。吹き込んだ風に短い髪がさらわれた時、後ろから「七海くん?」と声がした。
朝焼けの色でも敵わない真っ赤な目が七海をとらえている。子供が眠気と戦うような感じでぼんやりしていた彼女は、そこで自分の装備品が毛布しかないことに気づいたようだ。どんな反応をするかちょっと気になった七海(自分は下着を着ている)は、櫻の様子を見つめた。
「………」
やけに真剣な表情で櫻は自分の体を確かめる。一、二…とまず虫刺されのような痕を数えて、最後に腹に手を添えた。
「私って、孕めるのかな……?」
七海は笑顔でベッドに戻った。どうして年上のこの可愛らしい彼女は、買い物に行く感覚で旦那の理性を奪うのだろう。本当に困ったものである。
そして、いよいよ始まる。
──────七海建人の、ゴリラ廻戦が。