腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
遮るもののない夜は満月の独壇場。見てごらん、下へ伸びる淡い光が格子窓に差し込む。遠くで狼の遠吠えがした。一方から聞こえれば、またもう一方から聞こえる。
部屋の中には二人の影がある。一方は椅子に座り机に大量の書物を広げ、もう一方はニコニコとしながら片方へ視線を送っている。書物を漁っている男はその視線を鬱陶しげに手で払った。
「君は勉強熱心だな、羂索」
羂索。それが額に縫い痕がある男の名前だった。一方で紅い目を持つこの人間は『
羂索が毒蟲とはじめて会ったのは果たしていつの頃だったか。確か人気のない道端で倒れ、「はらへっ……」と言っていた気もする。そのまま放って置いて、獣の餌にしておいた方がよかったかもしれない。何せうざいのだ。
「君も愛を勉強しているのかい?」
こんな感じでうざいのだ。人の肩に手を回し、もう片方の手は聴衆に雄弁な演説を聞かせるように前へ向かう。羂索は確かに勉強している。しかし彼が興味があるのは人間であって、“愛”といった抽象的なものではない。
「理解しかねるよ。そのアイとか、何とか」
「なに、君が識ろうとしている人間たちにも愛はある。むしろ愛こそ人間の原動力だ」
へぇー、と形だけ微笑んで羂索は紙をめくり進めた。
毒蟲は唐の方からどんぶらこっこと渡って来たらしい。比較的若い羂索と比べ、おそらくかなりの年数を歩んでいる。その正体は人間に取り憑く呪霊……に近い何かだ。元は人間の信仰心から作られた云々と、本人は語っていた。
四肢もなく耳も聞こえず、赤子は白髪に紅目を持って生まれた。この世から
赤子は髪をむしり取られ、目をくり抜かれ、舌を引きずり出され、皮を丁寧に剥ぎ取られ、血を取られ、骨を抜かれ、頭蓋骨を割って脳みそを抉り出され、腹を割いて内臓を取り出された。
捨てられた残りカスを見つけた信奉者たちは涙を流しながら遺体に包帯を巻き、祀った。これが百虫毒蟲────つまり、この『毒蟲』の始まりだった。
「愛だよ羂索、愛だ」
羂索も毒蟲も似たタイプだ。羂索は脳みその部分に収まってその人間の体を乗っ取る。毒蟲は人間の体に寄生してその人間と融合する。まぁだから、死んで「はい
またもや毒蟲と会うことになった羂索は苦虫を噛み潰したような顔をした。その時の羂索は女で、相手は性別:毒蟲だった。紅い目がいつだって変わらずそこにある。
羂索は人間探究を続けた。毒蟲も愛の探究を続けた。なぜそこまで愛に固執するのか羂索が尋ねれば、毒蟲は首を傾げ、しばらく悩んだ。まさかコイツ、理由もなく愛だなんだと語っていたというのか?
「君が人間の文化や思想を学ぶように、私が愛を知ろうとすることに理由がいるのかね?」
「少なくとも私と違って自分の思考を押し付けようとしてくるのだから、納得のいく理由は欲しいだろう」
「フム…納得がいったら君も愛について知りたくなるかい?」
「其方の演説次第じゃないかな」
あくまで白けた態度をとり続ける羂索に毒蟲は苦笑いする。顎に手を当て羽ばたくスズメの姿を見つめていた毒蟲は、「私自身が愛を欲しいのかもしれない」と語った。
「世界に愛されなかったからこそ、欲しいものに手を伸ばす……なんだか人間みたいな事を言っているな?」
確かに人間のようだと、羂索は思った。その姿が彼──もしくは彼女にとってのこの呪霊か人か、曖昧な存在に対して抱いた好奇心の始まりだったのかもしれない。
毒蟲に対して抱いた羂索の好奇心は、「一緒に愛を学んでみようぜ!」という話を呑むくらいには強かった。愛の学び方はさまざまで、夜這いの様子を観察したり、女の腹から子供を取り出してどのような反応をするか観察したり、子を作ったりと、熱心に研究した。
だが愛がなんたるかは羂索にはわからなかった。一方で毒蟲は着実に理解を深めているようだった。
「アイなんてやはりないだろう。仮にあったとしても、毒蟲が望むような…それこそ世界すら変えてしまうような巨大な何かがあるとは到底思えない」
「私はそれでも愛の可能性を信じ肯定し続けるつもりだよ、羂索」
最初は羂索の「うぜぇ…」から始まった関係も、不思議なことに年月が経つうちに友情のようなものが芽生えていた。こんな感情が自分にもあるのかと羂索は思った。同時に毒蟲へ向く知的好奇心のレベルもワンランクアップした。
毒蟲は死した後、遺体から黒い幼虫となって生まれる。これが毒蟲本来の姿だ。そして毒蟲の術式は『百虫毒蟲』。呪霊を食らった分だけ強くなり、その力は死した際にリセットされる。
この食べた分の力がどこへ行ったのか、羂索は疑問に感じていた。それが毒蟲自身の生得領域の説明を受け、「なるほど」と納得した。
力は消えたのではなく、蓄えられている。何のために? そりゃあ当然、芋虫が変身するためだ。
人間でも呪霊でも信仰物でもあって、どれにも当てはまらない存在。そんな毒蟲は果たしてさなぎからどんな姿に変わるのだろう。知的好奇心のあまり額の縫い目からドロリと液体をこぼす羂索。それ以上にドロリとした声が聞こえる。虫の粘液みたいな声だ。
「それもまた愛だよ、羂索」
そうか、これが愛か──と、羂索は思った。
しかしすぐ冷静になり、「いや違うだろ?」とも思った。
後に呪術の黄金時代において、百虫毒蟲は人間が行った蠱毒の壺に巻き込まれ、大きくその存在を変質していくことになる。
元の毒蟲の人格を無くしたそれはきっともう、羂索が友人だと思ったものではなかった。