腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
櫻が伏黒姉弟と同居し始めてから早一年近く。彼女は徐々に本業へ戻っていった。その分だんだんと姉弟と暮らす時間も減り、今はたまに遊びに来る親戚の人──のような立ち位置になっている。そんな彼女にある日、帰宅した津美紀が最初はチラチラと彼女の顔色をうかがって、一枚のプリントを差し出した。紙には『授業参観の案内』と書かれている。
「……あのね。もし、櫻お姉さんが見に来てくれたらうれしいな…って」
津美紀はおずおずとそう言う。彼女はこれまで親というものが学校に来たことがなかった。本当の父親の顔はすでに覚えていないし、義父も滅多に家に帰って来なかった。その義父が行方知れずになると、母親も実の娘の彼女まで捨てて消えてしまった。
「ダメ……かな?」
上目遣いで津美紀は尋ねる。プリントを読んでいた櫻は、視線を彼女に向けると柔らかく微笑んだ。
「もちろん、いいよ」
それに顔を綻ばせた津美紀は思わず櫻に抱きついた。包容力のカンストしている胸が、小さな少女を押しつぶさないようにギュッと包んでくれる。本当の母親のようだった。
「でも、恵くんはこのプリント持って来なかったな…」
姉とひとつ違いの恵は、下校時間が彼女より早い時もある。今日も津美紀より一時間早く帰ってきて、アパートで洗濯物を取り込んでいた櫻を見るなり、「……どうも」と頭を下げた。
「恵はきっと、お姉さんに迷惑をかけたくないから黙ってたんだよ」
「そっか……。遠慮なんてしなくていいのになぁ」
櫻は親の愛を、今は亡き院長から学んだ。子は慈しみ……ただ、そればかりではなく、時には厳しく叱らなければならない。その教えを活かし、伏黒姉弟に接している。「母親代わり」は傲慢な言い方かもしれないが、本当の母のように思ってくれたら嬉しい。
「………おかえり、津美紀」
ちょうど自室から出てきた恵が、姉の存在に気づいた。櫻は「恵くん、ちょっとこっちに来て」と、手で『来い来い』と呼び寄せる。胡乱な表情で恵はトトト、と駆け寄った。
「何ス……」
「捕まえたぁ!!」
不意を食らう形で恵は櫻に抱きしめられた。もうすぐ三年生になる
「もう、二人ともすーぐに大きくなっちゃうんだから」
「私、お姉さんよりは大きくなれないと思うな…」
「離せってば!!」
「恵くんはどのくらい大きくなるんだろうね」
「お父さんがとっても高かったから、恵もすごく大きくなると思うよ」
「俺の話聞いてんのか!?」
恵はその後も、新鮮なままピチピチと抵抗を続けて、最後はすっかり借りてきた猫のようになっていた。
「遠慮なんてしなくていいんだからね、恵くん」
授業参観の件を話し終えた櫻は、津美紀に続いて恵の額にちゅっとキスをする。院長直伝、『あなたを愛してるわ』のサインである。きゃあ、と嬉しそうに笑った津美紀に対し、そのキスで新鮮さを取り戻した恵はモヤモヤとした感情が胸の中に溜まったのを感じながら、「ヘンタイ!」と叫んだ。顔は真っ赤だった。
「変……態……!?」
ショックを受けた櫻の腕の中から抜け出した恵は、そのまま自室に逃げて勢いよく扉を閉めた。
◇
「小学校の授業参観って、何を着ていけばいいんだ?」
櫻もまた、親がいる授業参観を体験したことがない。小学校は一応在籍はしていたが、ほとんど行かなかったし、中学も蟲人間な義父母を来させるわけがなかった。
「他の親はどんな服装だったっけ…」
悩んだ彼女は一般家庭の出な呪術師に話を聞くことにした。そしてスーツが無難だろうということを知り、ビジネススーツを買うことにした。スーツを取り扱う衣料品店に早速行き、女性用からサイズの大きいものを探す。180センチを超える彼女に合うものは何とか見つかったが、胸と尻がキツかった。意図せずアダルトな装いになってしまっている。だが特注でスーツを作る時間もなく、「まぁこれでいいか」と、櫻はそれで授業参観に臨んだ。
「恵くぅーん!」
そして、当日。まだ幼い少年たちの性癖をバキバキに崩したお姉さんは、恵を見つけると笑顔で手を振った。恵は彼女の格好を見て「!!!??」な顔をする。何だあの、少しでも動いたらビリッと破けてしまいそうなスーツは? この中で一番心頭を滅却する必要があったのは、担任の男だった。
櫻はそのあと津美紀の教室にも行き、同じように少年たちの性癖をバキバキにした。この日だけでどれだけのバキバキが生まれたことだろう。彼女は知る由もない。
謎のお姉さんに心を盗まれてしまった少年たちは、もれなく恵に誰なのか問いただした。恵は言葉を濁すように「親戚の人……」と話した。親戚にあんなものすごいお姉さんがいると知られた恵は、しばらく崇められることになる。あのお姉さんと一緒に風呂に入ったこともあるとバレてからは、揶揄われることもあった。
こうして、恵の思春期メーターがさらに上がった。
同時に、モヤモヤとした感情が育っていった。
◇
その日は津美紀の小学校の卒業式だった。4月から彼女は中学生になる。卒業証書の入った筒を握りしめる津美紀と渋る恵を並ばせ、櫻は写真を撮った。表情の固い恵に櫻は最初、定番の「1+1は〜?」の作戦をとった。しかし、何枚撮っても少年の顔はブアイソなままだ。最終的に津美紀と櫻が結託し、姉に腹をくすぐられた恵が涙目になったところで、笑った二人の表情が撮れた。
血のつながらない、だが本当の兄弟のようにじゃれついているひと場面。最近はとんと大人ぶって澄ました顔の少年が、年相応に笑っているとことを見た櫻は安堵にも似た感情を抱いた。と、同時に、この少年がいずれ進む遠くない未来のことを思った。
(恵くんが呪術師……か)
恵は現状、将来自分が呪術師になること、ひいては高専に通うことに消極的だ。ただそれ以外の道を進むことは伏黒恵には許されていない。これはすでに彼と津美紀が平穏に暮らすことと引き換えに決められたものなのだ。そのうえ恵は禪院家の相伝の、強い術式を持っている。力を持つ者はそれを活かすべき責任がある。五条のように。なぜなら力を持たざる者は、どれだけ切に人のために為そうとも、救うことさえできないのだから。
そして、力があっても理不尽な現実に堕ちてしまう人間もいる。
櫻の脳裏には呪術師の道を諦めた七海や、
彼女にその時もっと力があったなら、何か変わっていたかもしれない。
「……どうしたんですか?」
恵に声をかけられ、そこで櫻はハッとした。誤魔化すように愛想笑いをして、少年の頭を撫で──ようとして逃げられる。
「あれ、津美紀ちゃんは……」
「友だちと記念写真を撮ってくるね、って行きましたよ」
「そっか…」
先ほどスマホで撮った写真をスクロールして見る櫻。斜め下からじっと視線が向けられる。写真を見たいのかと思い見せれども、そういうわけでもないらしい。
「アンタ、結構顔に出やすいから分かりやすいですよ」
「えぇ? まぁ最近、お仕事が忙しかったからなぁ〜」
この少年と、そして友人とはしゃいでいる少女の鳥かごが壊れてしまうことが、今の彼女にはとても恐ろしいことに感ぜられた。
鳥かご────鳥かご。幸せの、鳥かご。
ふとその時、櫻の服の裾が引っ張られた。
「……無理はすんなよ」
生意気な口調でそう言った恵に櫻は微笑む。なぜか目から涙も溢れてしまい、それに恵をギョッとさせた。
少し疲れているのかもしれない。
あるいはずっと、彼女の中には疲れに似た何かが残り続けているのかもしれない。
恵は唇を引き結び、今度は服の裾ではなく、手を握った。久しぶりに触れた手だった。
たまにそのまま消えてしまいそうな雰囲気の女の手は、昔よりもずっと小さくなっていた。
◇
初恋は叶わないと言う。恵はそれをいつ知ったのだろう。小学生の時だったかもしれない。
そもそも彼の初恋は────。
『いっぱい食べて、私みたいに大きくなるんだよ』
恵の初恋は、ひとまわり以上も歳の離れた女性だった。鴉の色をした髪に、真っ赤なビィドロをそのまま埋め込んだような目。良くも悪くも血の色をした目は人目を引く。だからか、彼女は五条のようにサングラスをかけることもあった。
『恵くぅんはもう反抗期になっちゃったのぉ?』
姉の津美紀は彼女を母親兼姉のように慕っている。恵はしかし──結局、津美紀のような感情を彼女に抱けなかった。
成長するほどに、“好きだ”の感情が大きくなっていく。天と地ほどの差があった身長も、どんどん近づいていく。
『久しぶりにお姉さんと裸の付き合いしようよぉ、恵くぅん』
恵が彼女と風呂に入ったのは、津美紀と三人で入った小2の時が最後だ。姉の方は以降も彼女が遊びにきた時に時折入っている。
女同士はまだいいとしても、中坊の男子と入ろうとするなんてイかれている。あんなわがままボディを見せつける気なのか? 正気か? 死ぬぞ、恵が。
『あっ、ごめん』
朝ランニングをして、シャワーを浴びようと脱衣所で恵が着替えていた時に、向こうが突如ドアを開けてきたこともあった。
恵はその時下着に手をかけていたわけで……。彼女の視線も下に注がれた。そして、「2級クラスかな」と言ってきたものだから、彼は置いてあった津美紀のボディクリームを投げつけて、鼻息荒く扉を閉めた。心臓がバックンバックンいって、ポタ、と床に何か落ちたと思ったら鼻血まで出ていた。彼はズルズルと床に伏し、顔を覆って悔し涙なのか、それとも怒りなのか、正体の分からん涙を流しながらうずくまった。
◇
七海建人が呪術師に復帰した。そのことを櫻が知ったのは後輩兼、補助監督の伊地知潔高からだった。彼女の任務に伊地知が同行するのは五条ほどではないが、時折ある。疲れた顔の彼に櫻は「
「……伊地知くんはそれ、五条悟から聞いたの?」
「え、安倍さんはご存知じゃなかったんですか?」
「知らない。五条悟から何も聞かされてない」
あ、コレはキレてるな…と伊地知は察した。五条を
任務が終わったあと、櫻はすぐに五条に電話で問いただした。
「おいテメェ聞いてねぇぞ」
開口一番に出た言葉がこれだ。彼女がブチギレている空気を五条は感じながら、「いや、さすがに気まずいじゃん」と反論する。この二者、七海と安倍の関係はなかなかに重い。お互いに愛し合っていたのは事実で、けれども二人の道はズレてしまった。まるで──と、この件を五条が考えると、親友の姿を思い出してしまう。ゆえに相乗効果で気まずさが増す。
『まぁさ、色々言いたいことはあると思う。でもそれは僕じゃなくて、アイツに言うべきなんじゃないの?』
「……っ」
『急には無理だろうし、安倍パイセンの気持ちの整理が付いてからで会ってみたら?』
「………」
七海も呪術師をやめた後も、五条にわざわざ彼女の状態を聞いていたくらいには気にかけていた。ならば安倍に直接聞けばいいとも思うが、向こうに着拒された手前、それは憚ったらしい。
じゃあ僕は忙しいんで、と電話が切られる。櫻はスマホのカバーに付けられたストラップを見つめた。塗装の剥げた、それを。
「なんで、今になって…」
なぜ呪術界から身を引いたはずの七海が戻って来たのだろうか?
もしかしたら、の思いを彼女は抱く。自分のために戻ってきてくれたのではないか、と。正直言って、櫻は今でも七海に懸想している。だからこそ七海との思い出たる象徴を捨てることができず、肌身離さず持ち歩いている。
「…自分の願望を、押しつけるわけにはいかないな」
次に七海と会うときは、ストラップを付けたままではいられない。七海の復帰を選んだ理由がいまは不透明であるし、そもそも七海の櫻へ抱いた感情もすでに過去のものとなっているかもしれない。そこに今でも未練たらたらな自分の姿を見せつけるなど、櫻にはできなかった。
外したストラップは部屋のいつも目に留まる場所に置いた。
そして櫻は、久しぶりに七海建人に出会った。
奇天烈なメガネを除き、すっかり『ナナミン』の姿になった、彼に。
◇
老けたな、というのが櫻の率直な感想だった。別段それは貶しているわけではなく、ニュアンス的には“いい歳の取り方をした”──だった。
高専時代に残っていた少年の面影はすっかり消えている。
「……私の顔に何か付いていますか?」
あまりにも顔を凝視する櫻に、再会した七海は居心地が悪そうな顔をする。
それに櫻はわざとらしい咳払いをした。
場所は酒場へと移る。と言っても小洒落たバーではなく、会社帰りのサラリーマンがジョッキを煽るような、そんな酒場だ。通された場所は畳で、隅に積み上げられていたえんじ色の座布団を二つ、七海が持ってくる。その間に櫻はビールと大量のおつまみを頼んだ。
相変わらずたくさん食べるんだな…と、七海は櫻に注文をもう一度聞き直しているバイトを見ながら思った。
「しかしまぁ、七海くんが本当に復帰するとはビックリしたなぁ…」
「えぇ、まぁ……色々ありまして」
七海は社会人になってから外資系の職場で働いていたが、紆余曲折を経て、またこの道を選んだらしい。
戻るきっかけになった理由は何とも七海らしいもので、パン屋で働いていた女性に取り憑いていた呪霊を祓い、「ありがとう」とお礼を言われたことが呪術師復帰のきっかけになった。
見た目こそかなり変わったが、中身は昔と同じで優しい七海建人のままだ。
それが櫻にとっては嬉しい反面、ガラスを一枚隔てているような、そんな感覚を覚えた。
「……そっか」
まだ七海が自分を好いてくれていると、櫻はどこかで期待していたのかもしれない。
一方的に関係を切ったのは彼女であったのに。そんな彼女を、思い続ける理由が七海にはないだろうに。
櫻は気を紛らわすように、明るく笑う。
「もしかして、そのパン屋の女の子に告白されちゃったんじゃないの?」
「されてませんよ。もうあそこへ行く気はないですから」
「こんなカッコいい常連さんが来なくなっちゃうなんて、その子も寂しいでしょうに」
何か重たく、粘っこいものが彼女の内側で疼いている。視線をエベレストと化したおつまみの先にある七海に向けることがためらわれ、自然と酒を煽るペースが早まる。食の手も、中々進まない。グルグルグルグルと、パン屋、女性、七海。その三つが終わりなき迷宮となる。
「大丈夫ですか? 顔が真っ赤ですよ」
「だいひょうぶれす」
「もう飲まない方が……ッ!?」
ジョッキを握る櫻の腕をつかんだはずの七海の手が、びくともしない。押して引いてを試すが、まるで暖簾に腕押し。血管さえ浮き出ていない白く細い腕。七海と比べてふた回りも細そうなこの腕の、どこにそんな力があるのか。これが特級術師の力だというのか。
結局、酒樽におぼれるネズミのようになった櫻は机に突っ伏し、微動だにしなくなった。
上着は脱ぎ捨てられ、シャツ越しでも丸わかりな質量の大きなソレが机に押し当てられている。タイトスカートからのぞく足は黒のストッキングで覆われ、非常に目に毒な光景である。
が、そこは七海建人。一瞬ギクッとしたが、落ちていた上着を拾い、彼女の肩にかけた。
「タクシーを呼びますが、自宅は高専でよろしいですか?」
「……おうち?」
「えぇ、家です」
薄く開いた瞼の隙間からのぞいた赤い目が、虚空をとらえウロウロと彷徨う。
家。ハウス。酔いがすっかり回った櫻が出した彼女の『家』は、温もりを感じるあの場所だった。
あたたかくて、やわらかくて、やさしい巣。
「うん、かえる」
櫻の浮かべたふんわりとした笑みに、七海の目が丸くなった。
◇
足元もおぼつかない状態の櫻を七海は一人で帰すことができず、家まで付き添って行くことにした。肝心の櫻は体がだんだんと倒れ、七海の膝の上に頭を乗せ、完全に寝ている。
無意識に七海の無骨な手が、長く黒い髪をすくった。差し込む夜の明かりに照らされ、キラキラと水のようにこぼれ落ちる。
「………」
おそらく伏黒姉弟のことを思い出し、優しく笑った櫻。
七海がつかむことを諦めた彼女の手を、しっかりと握ってくれた子供たち。二人の
笑えるようになってよかった、と思った。安倍櫻は強い力に対し、精神に脆い部分があったから。
なぜ私は逃げてしまったのか、とも思った。いや──それは、何度も自問してきたものだ。その自答は「私が弱ったから」に帰結する。
今さら七海建人は戻ってきた。一級術師だった安倍櫻は、彼がいない間に特級術師になった。どれほどの努力を重ねたのか、七海は知らない。
「ハァー……。今さら、後悔したところで…」
過ぎてしまった日々は戻って来ない。そして今の七海には、過ぎてしまったその分を埋める方法がわからない。
五条と同じ特級術師の冠。その箔が安倍櫻にはある。だが、触れた腕は一般女性と大差ないほど細い。まぁそこに意識を取られたのは一瞬で、地蔵のように動かないその力に「あ、特級術師だったなこの人…」とハッとすることになった。
「着きましたよ」
「んー…」
タクシーに乗る前に、七海は櫻に伏黒姉弟のどちらかに今から帰ることを告げるようお願いした。
そのとき彼女が打った文字は、酔っぱらっているのが察せるものだったことも付け加えておく。
七海は肩に手を回させる形で片腕を固定し、酔っぱらいを歩かせた。
一方家の前で待っていた人物は、スマホから視線を移した。ウニのような頭が下がり、ペコリとお辞儀する。
「…すみません、うちの保護者が」
「いえ」
少年は丁寧な口調ながら、七海をスキャンでもするように上から下までじっと見る。それから保護者の女に肩を貸そうとした。しかしその女はがっしりと七海にしがみ付き、まったく離れない。
恵は引き剥がすのに必死になり、櫻は目の前にあったネクタイを掴みながらコアラになり、七海の首が絞まる。大分ひどい絵面だった。
そして、七海が灰原の姿を幻視したところで救いの女神、津美紀エルが現れ、「もぉー、ダメでしょ櫻さん!」と言うと、櫻は寄生の対象を七海から津美紀に移した。その胸で津美紀の顔を半分くらい圧迫する。
「櫻さんがご迷惑をおかけしました。えーっと…」
「七海です」
「ありがとうございました、七海さん!」
お辞儀をした津美紀は、特級術師なはずの女を引きずりながら家に入っていく。
その姿を見ていた七海はネクタイを直し、軽く咳き込む。一瞬見えた灰原は、「おにぎりの具はなぁ…100種あんねん」と言っていった。多分あったとしても、その多くはマイナーな具材になるだろう──と場違いに七海は思った。
「あんたが、
「…? そうですが」
少年の影がわずかに揺らめいた。その影と同じ濃度の黒い目が、七海を見つめている。先ほどの上から下を見るようなものとは違う。
真っ直ぐだ。ただ、その眉間には皺が寄っている。
何か、この少年の気分を害するようなことをしてしまったのか。そう七海が悩めども、櫻ほどではないが、アルコールをそれなりに飲んだ頭ではモヤついたままで答えは出て来ない。
「…では、失礼します」
タクシーに戻っていく七海。夜の空気の中で、車のエンジンの音に混ざるように木々の音が聞こえる。排気ガスの微かな臭いが鼻につく。
そして、タクシーが遠ざかっていく。
ギュッと、力強く少年の拳が握られた。
ナナミ、七海建人。
その名前を恵は知っていた。櫻がごく稀に、一人でいる時にポロッとこぼす名前。そのもの憂げな表情を恵がはじめて見た時、彼は『七海建人』が櫻にとってどんな人物なのか、気になった。ただ櫻に直接聞くわけにもいかず、五条にそれとなく尋ね、彼の一つ下の後輩だったことを知った。他にも容姿などは教えてくれたものの、重要な櫻と七海の関係性については、五条は「えー、知らな〜い」とニヤニヤするばかりで教えてくれなかった。
しかし、今はわかる。櫻に抱く感情の正体を知った今の恵なら。
なるほど。恵とはまったく真逆なタイプだ。包容力のある歳上(実際は歳下だが)タイプで、地毛の金髪。背も高い。声も大人の男という感じだ。
「………ざけんな」
いつだったか。どのような流れでその会話になったのかは覚えていないが、津美紀が「初恋は叶わないっていうけど、本当なのかな」と言っていたことがある。──いや、あれは、津美紀が少女漫画で出てきた知識を恵に披露していたのだったか。まぁ、ともかく、今そこは重要な問題ではない。
問題は恵の初恋が、歳上の保護者という点だ。
保護者は五条悟だろう、と? ──いや、あのチャランポランよりも長い時間、親身に接してくれた安倍の方がよっぽど保護者である。
「ふざっ……けんな!」
初恋は叶わないという。それを、恵は信じる気はない。だが、隣に並んだ馬があまりにも優良で、ない馬券を投げ捨てたくなる(これは
恋の漂流記を執筆中かのような心境である伏黒恵は、ひとり空に向かって吠えた。
そうでもしないと、そうしなければならないほど、彼の胸中は裂けんばかりであったからだ。
「……いいさ、やってやる」
まだ恵は想いを打ち明けるスタートラインにも立っていない。
そこに立ってからはじめて彼の恋のお話は始まる。もちろんすぐにフラれて終わりとなるほど、簡単に終わらせる気もない。ブレーキは最初から取っ払ってしまえばよい。
そうして恵は想いを打ち明ける。その時はまだ中坊で、目を限りなく開いた相手に「えっ、犯罪…(私が捕まる)」と、真っ当な部類ではないはずの人間から、至極真っ当なことを言われてしまった。
それでも何度も彼は告げる。『初恋は叶わない』なんて、迷信であると。
「アンタが、好きです」
それに彼女は困ったふうに笑いながら、それでもだんだんと、すでに天然の女たらしの才能を持ち合わせた少年のド直球な想いに、絆されていくことになる。