腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
うさぎの目玉
途中で足がピタッと止まる。小さな体が少しずつ震え出す。唇を噛んで瞳を潤わせていく姿を見た付き人は、あらまぁ、と頬に手を当てる。まるで微笑ましいものを見る表情だ。
「本当にいいのか!? 俺行っちゃうぞ!!」
振り向いた少年が見たのは、寂しそうに眉を下げる少女の表情。
向こうも自分と同じ気持ちだと知った少年は、今度は眉を吊り上げ地面を踏み鳴らすように来た道を戻り、じっとその赤い目を見つめる。
わざとらしく去り際に足音を立てていた坊の意図をそこでようやく察した少女は、目を丸くした。なるほど。引き止めて欲しかったのかと。
「私は五条……悟坊ちゃんと、お友達になりたいです!」
そう言った少女に五条は腕を組み、「まぁおまえがそこまで言うなら? 仕方ねぇな」と尊大な態度で返した。目元はしっかり潤んでいたのだけど。
それから五条の坊に友達ができた。遊ぶのは基本的に五条家で、自由にしなさい──というお許しのもと、櫻は坊との遊びに付き合う。
安倍家の望む関係とは少し違ったが、この結果に両親は大層喜んだ。これまで一度も櫻を褒めたことがない当主が「よくやった」と言い、妻もしきりに彼女を褒めた。唯一息子だけは面白くない顔で彼女を見ていた。
卑し子を拾ってきて育てた甲斐があった。あとは頃合いを見てもらい手を探せばいい。とにかく関係を築くためにも、身分の高い家柄が良いだろう。
「あなたは将来もっと美人になるでしょうね」
「そうでしょうか?」
「えぇ、えぇ。そうよ、そうですとも。一層櫻さんは綺麗になる努力をしなくてはいけませんよ」
「……はい、お母様」
櫻の髪を梳かしながら、手入れのされた長い黒髪を見つめる義母。櫻は自分の真っ白な顔を見た。日本人形のような黒髪に、白い肌。赤い目は血を透かしたような色をしている。使用人の中にはこの目を見ると顔を引き攣らせる者もいる。
彼女に悪感情をぶつけてきた者たちは、必ずこの目を馬鹿にした。気持ち悪い。人間の目じゃないと。
呪霊を食べ、そして人間も美味しそうに見えてしまう彼女は人間なのだろうか? それとも呪霊なのだろうか? この疑問は坊の出した答えに縋るしかない。
特別な目を持ち、神に愛された存在が彼女を「呪霊だ」とは言わなかった。だから櫻は、人間なのだ。
「今度、櫻さんに似合う着物を数着買いに行きましょうか」
「本当ですか? 嬉しいですお母様」
母に笑いかける彼女の笑みに温度はなかった。義母にも養女へかける慈しみはない。
この場にあるのは虚しい虚無感で。この家に自分に与えられる愛などないことを、櫻はもう気づいていた。
でも──なら、坊が友達になった今、唯一無二の友達だったイマジナリーフレンドナナミンは、彼女にとってどんな存在になってしまったのだろう?
これは櫻にとって由々しき問題だった。
彼女は早速五条の坊に意見を求めた。もちろんナナミンの存在を他人にすべて教えるわけではない。なぜならナナミンは彼女のものだからだ。
「空想の………友達?」
「そうなんです。私のたった一人だったこの友達は、悟坊ちゃんが友達になった今、唯一無二じゃなくなってしまったんです…!」
「……俺には何も見えねーけど」
「本当ですか? ここに立ってますよ」
櫻はスコップを置き、実際にイマジナリーフレンドがいる場所に立って手を振る。やはり坊には何も見えない。遊ぶ回数を重ねてようやく宇宙人のイメージが薄れてきたのに、また宇宙人が空から
「別に友達は何人いてもいいっていうか………待て? おまえじゃあ、ずっと一人だけの友達と今まで会話してきたわけ?」
「まぁ、たまに?」
「キッッッショ」
サブイボが立った腕を五条はさする。その間にも二人が庭の隅に“ただ”掘っている穴は少しずつ、少しずつ大きくなる。時折割れた陶器のカケラやガラスが出てきて、それをお宝として葉っぱの上に乗せる。
「でも、イマジナリーフレンドは特別にしておきたいんです」
「…ふぅん? このスーパーハイパーエクストラスペシャル悟様がいるのに?」
「悟坊ちゃんの本当の名前は『五条スーパーハイパーエクストラスペシャル悟』だったんですか?」
「俺どうしてこんな宇宙人を友達にしちまったんだろう…」
会話が……会話が通じねぇ…!!
頭の痛くなった坊の中で、モヤッとした感情は流れてしまった。代わりに深いため息を吐く。
「じゃあ相棒とかにしとけばいいじゃん。サトシのピカチュウみたいな」
「………なるほど!!!!!」
「う゛っ……声がデケェよ」
掘るスピードが一気に上がった櫻に、五条も負けじと掘った。結果二人は着物を泥だらけにした。
このままでは帰せないとのことで、櫻は数名の女中にあれよあれよという間に着替えさせられ、着ていたものより桁が一つ違いそうな着物を着て帰ることになった。貸した着物は返さなくていいとのこと。さらに帰る直前に綺麗になっていた元の着物も返された。
五条家のすごさを、櫻は改めて感じた。
十二歳になった頃には、櫻の身長は百六十センチを超えた。誕生日を迎えていない悟はまだ九歳と数か月である。
少年はそれはもうイラついていた。何が気に食わないかというと、身長が気に食わない。悟はまだ百四十センチも超えていない。
遊ぶのは楽しい! ……が、相手を見るたびに首を五十度ほど上げねばならない。なぜこの五条悟様が首を痛めなければならないのだ。好き嫌いだってしていないし、牛乳も飲んでいるというのに!
向こうはタケノコのようにぐんぐんと背を伸ばしている。一方で体はモヤシだった。着物からのぞく手首は枯れ枝とそっくりで、首元も細い。悟はふとした時に、その細い部位を眺めてしまう。
まさかダイエット? いやしかし、五条家で出される菓子や料理はすべて平らげている。魚の骨だろうがみかんの皮だろうが、まんじゅうを巻く葉っぱだろうが食べる。
そうしてパクパク食べて、食べ終わったら、まだ食べている悟の分をガン見する。量は多めに出されているのにがめついやつだった。当然、自分の分を悟はやったことはない。冗談でみかんの皮やスイカの皮はあげたことがあるが。皮如きで瞳を輝かせていたアイツはやっぱり宇宙人。
──だからまぁ、気になったことを聞いてみることにした。女に体重を聞くのはタブーだとどこかで聞いたことがあるけれど、櫻は宇宙人なので問題ない。
「お前ってさ、体重何キロ?」
「体重ですか? 朝測ったときは三十六キロでした」
「へぇー、俺と八キロ違うんだ。それって重いの? 軽いの?」
「持ってみればわかるんじゃないですか?」
「お前をぉ? 俺がぁ?」
「……っあ、すみません。ヒョロい坊ちゃんに三十六キロを持てだなんて言ってしまって…」
言っておる本人には一切悪気がない。しかし、五条には嫌味たっぷりに聞こえた。「私すら持てないなんてぇ、クソ雑魚じゃん♡」と。売られた
「悟様が特別に背中に乗せてやる。感謝しろよ!」
「ありがとうございました」
「終わらすな。まだ試合は始まってすらいねぇよ」
しゃがんだ小さな背中に、櫻は少し戸惑いながら後ろから腕を回すようにして抱きついた。そこで普段は感じない甘い匂いを五条は嗅いだ。その人間の体臭だ。花からふわっと香ってくるような、そんな匂い。
「………」
「坊ちゃん?」
一瞬ぼんやりした坊は、我に返って足を持つ。まだ九歳だが、日ごろから鍛錬している。この程度の重さ、あってないようなもの。
どうだ、としたり顔で後ろを見る。すると思った以上に近くに顔があり驚いた。そういえば誰かをおぶるなんて、そもそもはじめてかもしれない。人を背負うと顔がこんなにも近くなるのか。
「わぁ。坊ちゃんの目、風に吹っ飛んでいった洗濯物が消えていくような色ですね」
「……うさぎみてぇな目」
「坊ちゃんが?」
「真っ赤な、血の色」
「………あ、私の目気持ち悪かったですか? すみません」
「ハァ? 別に気持ち悪くねーし」
「いいんですよ。言われ慣れてますから」
「………ハ?」
「施設にいた時に、よく言われました」
「……そ、うかよ」
相手の顔を見ていられなくなった五条は視線を逸らす。そうだ。この少女は元々施設育ちで、偶然が重なり安倍家に引き取られたのだ。一族の道具に使われているだけの子供。その事実を本人は知っているのだろうか? 知らずにいたら、何とも滑稽だ。
「お前、家にいるの辛くねぇ?」
「……? 別に普通ですよ?」
「義父母や使用人に何もされてないか?」
「彼らには何もされてませんけど……」
「…そっか。ならいいわ」
「え? 何がいいんで………わっ!」
五条はゲートが開いた馬のように一歩踏み出す。土を飛ばして、草花を踏みつけ庭を駆け回る。突然の事態に驚いた櫻は五条にしがみついた。景色が目まぐるしく変わる。自分より重い人間を乗せているのが嘘みたいに悟号が駆ける。
二人は笑って、青い空の下で遊んだ。
櫻はいつも腹が減っていた。
義母は痩せていることが美しいことだと思っている。肋の浮き出た、内臓のある場所だけぽっこりと膨れているバケモノみたいな彼女の体を見ると、「美しいわ」と言う。そんな女の右手は、いつも人差し指と中指に傷があった。
五条家で食事を取っていることはすでにバレているので、帰った後は丸一日は食事を抜かれる。はじめてバレた時はとち狂ったように義母が怒り、数時間全裸で正座させられ、鞭で何度も折檻を受けた。櫻はその後嘔吐し、吐瀉物の中に顔を突っ込んで気絶した。
だからこそ、とても腹が減っている。生物はみな等しくおいしそうに見える。人間が歩く肉塊に見えて仕方ない。しかし人を食べてはいけないことは彼女だってわかっている。ゆえにこっそりと蟲に取ってこさせた小さな虫や獣を人目を盗んで食べていた。夜中に布団に潜りながら食べると、これが中々バレない。だが、その量もスズメの涙だ。
空腹のあまり意識が飛ぶことも増えた。常に体が寒い。自分が歩く死体なんじゃないかとさえ思う。
そんなハングリー精神の毎日。彼女は五条の坊と遊んでいた。
「イテッ」
木の棒でアリの巣をほじくっていた五条が声を漏らした。枝のとがった部分がやわい子どもの肌を裂いた。人差し指に赤い球体ができる。たらりと流れるそれを、血の色をした目が見ていた。唾をつけときゃ治るか、と思った五条の手が掴まれる。
「あ? おい、急になっ………………」
パクリと指が咥えられた。呆然とした坊の動きが止まる。目は赤い口元に釘付けになった。いや、意識が向かざるを得なかった。
おそらく、というか確実に舌だろうが──、それが生き物みたいに動いているのを感じる。最後はジュッ、と音を立てて吸われた。ここまでが少年の限界だった。
「ッ……〜〜〜!!!」
蹂躙された(?)手を隠すようにして、真っ赤な顔で五条は櫻を睨む。ただ、その顔では怖さのカケラもない。ぼんやりしていた櫻は「聞いてんのか!!?」と大声で叫ばれたことで正気に戻った。
わかる。わかるぞ、この味。呪力がおぞましいまでに濃くて、美味くて、でも総合すると珍味。やみつきになると止まらなくなる味だ。
櫻は口内にわずかに残っていた血を飲み込み、坊を見た。五条は警戒心マックスだ。息を乱して目に涙を溜め、顔を真っ赤にしている。これはやってしまった、と彼女は思った。坊は櫻が異形まがいの人間だと気づいてしまったに違いない。
「ぼ、坊ちゃんのこと食べてみたいなっ! ──なんちって」
櫻が誤魔化すようにそう言うと、坊は一目散に逃げ出した。「ヘンタイヤロォォ!!!!!」と叫びながら。
五条はしばらく櫻と遊ぶのをやめた。周囲はなぜかニッコニコで、赤飯でも炊きそうな勢いである。
胸のモヤモヤしているのが中々消えない。時折浮かんでくるこの感情は、櫻といる時にふと浮かんでくる。この感情が何なのか、将来は最強を欲しいままにする彼にはわからなかった。未解決の問題を解く数学者はきっとこんな気持ちなのだ。
「ハァ……つーか、アイツの呪力おかしくなってたな…」
あの時は指を舐められたパニックでそれどころじゃなかったが、悟の血を体内に取り込んだ直後、呪力が噴き出た。意図的に出した様子ではなかった。ならば、自然と出てしまったのだろう。
畳に寝転がりながら、五条は推測を立てる。この考えは本人に確認しなければわからないが、まぁほぼほぼ当たっているだろう。何せ六眼の目で見たのだ。
(俺の呪力を体内に取り入れて、力が急激に増した。つまり……
しかしそれ以上に、今の坊は指ペロ問題で頭がいっぱいだった。