腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
父親に打たれた櫻は歯が抜けた。永久歯の歯がだ。歯は飯を食う上で何よりも重要な道具だ。
打たれたことより歯が抜けたことにショックを受けていた彼女は、座敷牢に入れられた。一日反省しろ、とのことである。抜けた歯は頭上の外をつなぐ格子に向かって投げ、黙祷した。すると翌日には新しい歯が生えた。
坊の方から「当分遊ばねぇから!!」と言われてしまったので、しばらくは会えない。五条家のうまい料理が食べられないし、悟の坊とも遊べない。そんな日々が一か月続いた。相変わらず代わり映えのない毎日。
義父は彼女に無関心で、義母は自分の淑女としての理想を彼女に押しつける。数名の女中は直接言ってはこないが、彼女を遠ざけている。
義兄も彼女が失態を犯したことに喜んでいた以外は変わらない。いつものように人の部屋に侵入して下着を盗んだり、わざとらしく後ろからぶつかって尻を触ってきたりする。
夜、人の気配で起きた時の犯人はたいてい義兄で、襖を開けて部屋に入ってくる。
義兄はもうすぐ高校生になる男で、学校には小学の途中からずっと行っていない。自分の部屋でゲームばかりしている体はガリガリで、髪の毛は脂っぽく重たい。風呂も数日入らないのはザラで、つんとした臭いがする。
小さな電球が照らす部屋の中で、義兄はまず彼女が起きていないか確認する。彼女はもちろん狸寝入りだ。
それで起きていないと判断すると、机に置いてあるペットボトルに手をつける。彼女が寝る前に置いておく水だ。キャップを回す音がし、荒い息が聞こえる。掃除機のバキュームみたいな音が続いた後、ゴソゴソと音がして、しばらくしてから義兄は帰っていく。
白く濁っているペットボトルの水は朝起きてから流しに捨て、新しいペットボトルを開封する。夜中に行かないのは義兄が深夜の住人だからだ。イマジナリーフレンドナナミンは、義兄のことを便所バエ以下を見る目で見ている。
そんな無味乾燥とした日常が続き、ある日のこと。両親が都合で出かけていた夜、また義兄が忍び込んできた。またか、と思ったがその日は違く、布団に跨ってきた。驚いて目を開けると、あのいやなつんとした臭いがした。
「お前、まだアレ、来てないんだろ?」
だったら、孕まないよなぁ──と、そう言った。
アオムシ様時代にも抱かなかった感情を櫻ははじめて抱いた。
この生き物を、激しく“嫌悪”した。
悟が櫻と会わなくなってから、二か月が経った。そろそろ……そろそろ許してやってもいいかな? ──と、坊は考え始めていた。
あのモヤモヤした感情は友達に抱く“特別”な感情なのだと判断した。そう考えたらすぐに気持ちも明るくなり、またアイツと遊びたい、と思うようになった。名前と同じ桜の着物を着て、「悟坊ちゃん」と呼ぶ姿。あの枯れ枝みたいな体ではすぐにケガしてしまいそうだから、悟が手を引いてやらねばならない。
「……よし」
思ったが吉日。この旨を父上に伝えに行こうと思ったところで、何やら屋敷が騒がしいことに気づいた。
使用人に聞けば、寝巻きの上にピンクの着物を羽織っただけの安倍家の養女が家に来ているらしい。足は何も履かずボロボロで、顔色が真っ青だったとのこと。
そこまで話を聞いた悟は慌てて櫻が通されている部屋に向かった。
「おいっ! どうした!?」
襖を開けたそこには、サッカーボールサイズのおにぎりを頬張る櫻の姿があった。風呂に入れられたのか、髪がしっとりと濡れていて、天使の輪ができている。女中たちは服を着せようとしているが、餌を奪われまいと必死になる子猫のように抵抗する少女に苦戦している。
悟はそっと襖を閉じて顔を覆った。上半身だけだったが、異性の裸を見てしまった。肋が浮き出ているその体は本当に宇宙人のようだった。
しばらくして、中の女中から「お入りになって大丈夫ですよ、悟様」と声がかかる。サッカーボールのおにぎりはすでに消えていて、米粒が櫻の額に付いていた。
「ど、どうしたんだよお前。一人で屋敷に来たって聞いたけど……俺に謝りに来たわけ?」
「いえ」
「…じゃあ何しに来たんだよ」
「えっと………昨晩義兄が私に不貞を働こうとしてきて、玉をつぶした後に逃げてきたんです」
「………ン?」
「それで私が頼れるのが悟坊ちゃんだけだったので、こうして突然参った次第です」
悟は状況を処理するのに時間がかかった。獄門疆があったら簡単に封印されていただろう。
義兄の不貞? 玉を潰した? 後者は笑えないし、前者はもっと笑えない。というか家族には何もされていないんじゃなかったのか?
「だって坊ちゃんは義兄のことは聞いていませんでしたよ」
「……あっ!」
そうだ。悟は「義父母や使用人に何もされてないか?」と聞いて、櫻は「彼らには何も……」と返した。
兄のことまで悟は入れていなかったし、この宇宙人は言葉の意味をそのままとらえる。だから文字通り、「彼ら(義父母は両親)には何も……」と答えたのだ。もっと早く気づいていれば、不貞は起きなかっただろうに。
小さな手が強く握りしめられる。他に何かされていないか悟が聞けば、これまで義兄が櫻に行ってきた気色悪さマックスの内容が次々と出てきた。
「ソイツ、俺が殺してやる」
「ダメですよ坊ちゃん、人殺しは」
「でもお前だって……お前が一番嫌だったんだろ!?」
「はい。今まで義兄に抱いていた感情が嫌悪感だったのだとようやく自覚したので、だからこそ玉を潰したんです。両方、ちゃあんと。子など残せぬように」
うっそりと笑った櫻の笑みは、悪魔のそれだった。
「……ハァ、わかった。連中がもう二度とお前の前に現れないよう秘境の地にでも送ってやる。北センチネル島とかな」
「遠回しに殺す気では?」
「冗談だよ。でもマジでお前の前には現れないようにする。他に俺に頼みたいことはあるか?」
「……あ、あのっ、本当にいいんですか? 色々と…。わ、私は友達でしかないのに………」
「バーカ。友達だから聞いてやってんだよ」
「………!」
櫻は礼を言い、衣食住の“食”のお願いをした。なるべく毎食腹いっぱいに食べたいと。一食でステーキ六キロぐらいはいけるらしい。結構遠慮がないぞ?
「なら食客になればいいじゃん。五条家の」
「えっ?」
「養子でもいいし」
「ちょ待てよ」
「急にキムタクになるな」
結果として櫻は安倍家の次期当主の座に収まった。五条家の食客や養子はさすがに恐れ多くて断ったし、そこまで坊に貸しを作りたくなかった。友達だからこそ、貸し借りといった利害関係を頭にちらつかせたくなかった。坊と遊ぶなら、純粋に頭を空っぽにして楽しみたい。
それでも悟の坊の厚意を受け取り、食以外の最低限の支援を受けている。受け取らないと、露骨に向こうがぶすくれたからだ。
異性への恐怖も多少はあったが、坊と接するうちに薄れていった。
ちなみに五条家では玉を潰した女を危険視する声があったため、『坊の玉潰しをしない』という縛りを結んだ。
きっと千年暗躍しているどこかの誰かさんだって、玉潰し禁止の縛りなど聞いたことがないだろう。しかしこれが真面目な話なのだ。無下限呪術と六眼の抱き合わせは五条家にとって重要な存在なのだ。
櫻はやがて中学生になり、護身術ではじめた武道にのめり込んでいったことも相まって、五条の坊と会う回数が減った。向こうも反抗期になったのか、たまに遊んでもずっと不機嫌そうな顔で、「あぁ首が痛い」「ガキ扱いすんな!!」と食ってかかるようになった。
櫻としては微笑ましい反面、悟坊ちゃんも成長したんだなぁ…と思った。
◇
悟の坊はキレていた。「ッフ、アイツの成長期ももう終わったな…」と思っていたら、一年で十センチも伸びたのだ。悟が、ではなく櫻が。
見上げる角度は五度上がり、五十五度になった。イかれている。坊は百四十センチをようやく超えて、向こうは百七十センチを超えた。竹の中から生まれたかぐや姫に宇宙人説があるように、
体も肉がでっぷりと付いた。特に胸や尻が肥えた。巨神兵のように人を見下ろす視線に苛立って「デーブ!」「ブタ!!」と言うと、櫻は恥ずかしそうにする。しかしダイエットする気は一切ないようだ。
「じゃあ坊ちゃん、投げますねー」
久しぶりに彼女と会った今日はキャッチボールをしている。中学校の体操着を用意してきた相手は半袖短パンで、どこもかしこもムチムチしている。動くたびに揺れる胸が目立って仕方ない。
「坊ちゃん!」
揺れに気を取られていたら、サト坊の頭にボールが落ちてきた。球はしかし当たらず、空中で停止する。彼の無下限だ。
「便利ですねぇ、坊ちゃんの力」
「お前は呪力を食ったら強くなるんだろ?」
「エッ」
「俺が気づいてねぇとでも思った? 人の血舐めたくせに」
「はわわわっ」
壊れたエンジンのように動揺する櫻。悟が観念しろ、と視線を送ると、「…わかりました」と話す。
二人きりになり、櫻の施設に行く前の話や術式の話を聞いた悟は驚愕する。
「私は呪霊を食べれば食べるほど強くなります。これが「
「………」
「……構いませんよ、坊ちゃん。このことを話されて」
「…蠱毒なんて、百パー秘匿死刑の対象だろ」
「えぇ。きっと、そうでしょうね」
「………」
黙り込んでしまった坊から、櫻は少し離れる。受け入れられないだろうな、と思う。同時に、気持ち悪いだろうな、とも思う。「宇宙人宇宙人」と呼んでいた相手が、本当に人間かどうかわからないのだから。
それに腹を刺されて目覚めた時屋敷に無数の血溜まりを残して人がいなかったのも、彼女の腹が治っていたことを踏まえれば、治癒するために蟲に喰われたのだと想像できる。つまり彼女は人を殺したことがあるし、人間だって食らうことができる。
「来い」
一言だけ悟は言った。戸惑う櫻に人を殺せそうな視線で睨む。おずおずと櫻は近づいた。相手にしゃがむように言われる。すると首に腕が回った。着物からお日様の匂いがする。彼女の大好きな匂いだ。
「ちゃんとお前はあったかいんだから、人間だよ」
「…でもっ、私はきっと、人を殺したことだってあるのに……」
「それなら俺だって呪詛師を殺したことがあるわ」
「……本当に、人間ですかね?」
「人間じゃないなら、宇宙人だよ」
「呪霊じゃなくて?」
「そう。宇宙人」
「………っ」
「安心しろよ。お前が話したことも、二人だけの秘密にするから」
抱きしめている悟には今、櫻の顔は見えない。でもきっと肩のあたりに濡れた感触がするから、泣いているのだろうと思う。小さく震える体が動いて、悟を抱きしめ返した。二人の距離が近づいて、体勢を崩した悟は相手に体を突っ込むことになる。
「ふわあっ!!」
「え?」と体を離した櫻は、顔を真っ赤にしている坊を目撃する。悟は口元に手を当て、彼女が一歩近づいた瞬間に脱兎の勢いで逃げた。
「………ぼ、坊ちゃん?」
一人取り残された彼女は困惑した。
それから、二人は遊ばなくなった。