腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
突如姿を消した櫻の行方を九十九は追っていた。それらしき人物を見たという情報をたどっている最中、彼女は封印が解かれた呪物の呪力に当てられ、周囲にいた数百人もの人間が気を失った──という話を耳にした。
呪物の中心の近くにいた者ほど病状は重く、骨董屋の店主は意識が戻っていないらしい。また呪物を取り込んだとされる女も昏睡状態のままだ。
九十九が訪れた病室で櫻は眠っていた。体は病的なまでに細くなっている。なぜ突然姿を消した彼女が正体不明の呪物を飲み込んだのだろうか? 人々の話では、「まるで導かれるように歩いていた」なんて話もある。
まさしく何かに導かれ、彼女は呪物にたどり着いたのかもしれない。
「私がもっと注意して見ていれば………。すまなかったね、安倍くん」
眠る女に九十九は謝罪し、ともに日本へ戻ることにした。すでに窓の情報で高専にこの件が知れてしまった以上、彼女の独断で櫻を動かすこともできない。
季節はすでに夏を迎えていた。
灰原雄が殉死したのはまだ最近の出来事だった。そんな折、詳細不明の呪物を安倍櫻が飲み込んだという情報が入った。呪物は起こった呪いの規模として、特級ではないかと推測されている。
呪物が彼女に受肉した可能性も十分にあった。その場合、上層部は秘匿死刑を言い渡すだろう。
高専は同伴していた九十九に何を行っていたのか問いただした。まさか本当のことを言うわけにもいかず、彼女は適当な理由をつけ誤魔化した。
現在、櫻の呪力が変質した様子はない。六眼の判定でも起こった変化は呪力量の増加だけだった。つまり呪霊を食らうのと同じように、呪物を消化した。──その可能性が今は一番高い。
しかしそう説明するとなると、「実は私は呪霊を食らって強くなれるんです」と明かす必要がある。蠱毒の件を持ち出さなければ秘匿死刑にはならないはずだ。
ただ厄介なのは、上から両面宿儺の指を食わせられる可能性があることだ。消化できたらそれでよし。死んだらそれで終わり。
最悪なのは両面宿儺が受肉した場合で、指一本の宿儺を確実に殺せるとなると五条が駆り出される。地獄の展開だ。
仮にもし本当に呪いの王の指を食うことになったら、九十九は責任を取って櫻を誘拐する気でいる。まぁその前に、五条の坊が上層部に先手を打つはずだ。ゆえに指を食わせられる可能性は低い。
櫻が目を覚ましたのは夏の終わり頃だった。夕暮れの中、真っ赤な病室で彼女はセミの声を聞いた。
病室の中は空調が利いていて涼しい。体には無数のチューブがつけられていて、袋の水滴が一定のリズムで落ちる。
彼女はそれを丁寧に剥がし、大きく伸びをした。病院服からのぞく手足は強制収容所から出されたばかりの人間のように細い。皮と肉に申し訳程度の肉がついている。腹が減った、とまず彼女は思った。
部屋の中は無機質で冷たい感じがしたため、窓を開ける。そうすると色々な音が入ってきた。まるでこの窓が魔法のように外の音を遮っていたかのようだ。セミの音は近くから聞こえた。側に生えた木にしがみつき、求愛コールをしている。
何より外は暑くて、ずっと開けているとうっすらと汗をかいてくる。
「夏だ……」
目覚めてから精密検査を受けたが、体は異常なしと判断された。意識もはっきりしていて、受け答えができる。
なぜ呪物を取り込んだかについては、これまで隠していた『腹凹』の能力を明かした上で、「自分でもわからない」と話した。気づいたら導かれるようにしてその場にいたと。そして、それを食べなければならないと思ったのだと。
彼女の記憶や意識自体、九十九と別れてからあやふやだった。
当面は検査と入院が続く。呪物の受肉の可能性はないだろう、と判断された。後日見舞いに来た知人らと接する彼女は安倍櫻そのままだったからだ。
一方で上層部が怪しい動きをみせたのもまた事実である。少なくとも彼女が能力を偽っていたのは事実。
櫻はそれを「この能力について聞かれなかったしぃ? だから私はぁ、話す必要ないと思ってぇ〜」と爪を磨きながら語っている。そりゃあそもそも知らなかったのだから、聞くわけがない。
話は変わり、見舞いに一番最初に来たのは家入と歌姫だった。見舞いに食い物を持ってくる二人は櫻のことをよくわかっている。パイナップルをそのまま丸かじりするのは人間としてどうかと思うけれど。
「一番乗りは坊ちゃんだと思ったんだけどなぁ…」
「アイツは今海外に行ってるわよ。特級案件で」
「安倍先輩、いっぱい食べて元のお肉を取り戻してくださいね」
Kカップの戦闘力を誇る胸は、今やスケールダウンしている。抱きついた家入は故郷のおっかさんが寝床に伏し、今にもその灯を消しそうな幻覚を見た。
次に来たのはコオロギ食を持った九十九で、早々に謝罪を受けた。あの時なぜ突然姿を消したのか尋ねられたが、櫻は「導かれたんです」と答えた。
九十九は少し眉を寄せ、それ以上は聞かなかった。誰に導かれたか彼女は分かったからだ。
櫻を呼んだのは、おそらく『百虫毒蟲様』だったのだろう。となれば、取り入れた詳細不明の呪物は百虫毒蟲様だった人間の一部だと推測できる。
(『アオムシ様』になる前の黒い虫が『百虫毒蟲』の魂の一部なのだと仮定しよう。そう考えればその魂の一部を取り込んでいる彼女が、元の肉体の一部に反応したことも納得がいく。さながらS極とN極が引き合うように。今回の場合は片方が動くことができないから、彼女が一方的に引き寄せられたんだろう。しかし、一つ疑問も残る)
なぜ急にこの“引力”が生じたかだ。
黙り込み思考を巡らせた九十九は、もしかして、と思いつく。
(『アオムシ様』も『百虫毒蟲』も人々に崇められていた存在だ。つまり、
要するにまぁ、九十九が連れて行かなければこうも大事にはならなかった。改めて九十九は謝罪し、後日高専の目がないところでこの仮説を彼女に話すことに決めた。
そしてお次に来たのが七海だった。差し入れは果物である。皮ごと食らいつく彼女を七海は口を開けて見る。まるで宇宙人にでも遭ったような顔だった。
七海は灰原の件で疲弊しきっているようだった。櫻はおしぼりで手を拭きながら彼の話を聞く。「弱い自分が──」と七海は話す。五条さんのように強くないとも。
「……七海くんは、本当に悟の坊ちゃんが強いと思ってる?」
「え?」
「それは違うよ」
確かに五条悟は最強だ。本人がその気になれば国家転覆どころか、世界転覆もきっとできる。
七海が言った「あの人が一人いれば十分だ」という言葉は確かにそうだ。五条がいれば呪術界は何とかなる。けれど、重要なことを一つ忘れている。
「五条悟も人間なんだよ?」
そんな君も人間だ、と彼女は続けた。切れ長の七海の目が見開かれる。優しく、優しく櫻は微笑んでいる。
「心まで最強の人はいない。誰だって疲れるし、誰にだって死にたくなる時がある。そこはみんな平等なんだよ、七海くん」
「………」
「誰かに託すことができるのは、きっと自分が死ぬ時だけだよ」
「ッ…」
「というわけで慰めてあげよう」
「えっ?」
抱きしめられた七海は硬直した。しかし前とは違いすぐに思考が戻ってきた。頭を撫でる手つきはそれこそ本当に母親のようだ。
離れるべきだと思い肩を叩くと、存外簡単に離れた。骨の浮き出た手が七海の両頬に添えられる。その手のあまりの冷たさに彼は驚いた。同時にじっと赤い瞳に見つめられて動けなくなる。顔の距離が近い。お互いの吐息が感じられるほどだ。
その時パシャ、と音がした。我に返った七海は扉の方を見る。少し開いた隙間に誰かが立っている。携帯が見えて、それを先輩の男が覗き込んでいる。七海と目があった夏油はニコッと笑った。
「げ、夏油さ、これはっ……」
「さて。パシリ何回分に使えるかな」
「………ッ!!」
「いや、何十回かな?」
悪どく笑った男に七海の顔が青ざめていく。これは違う。無実だ。
「冗談だよ。中の会話が少し聞こえていたから、何となく状況はわかってるさ。三回分ってことにしておこう」
「結局パシリに使うんですか…」
ハァ、と息を吐いた七海は「失礼します」と告げ、部屋を出て行った。
夏油の品は円柱型のケースに入ったするめいかと干しだこだった。赤い蓋を回して開くと少しスパイシーな匂いが充満する。櫻はハムスターのように高速で噛みながらスルメイカを口の中に収めていく。
椅子に座った夏油は体調など聞いてきた。ご覧のとおり、食欲が止まらないほど元気だ。
あまり接点のなかった二人はそう話すこともない。すぐに会話は尽きる。
「そう言えば、先輩は呪霊を食べられるんでしたね」
「ん? そうだけど」
不意に夏油が投げたものを櫻はキャッチした。呪霊玉だ。「それも食べられるんですか?」と聞かれたので彼女は答えるよりも先に見せた方が早いだろうと、食べてみせた。飲み込むのは大きさ的に難しい。そのためガリボリボリ、と鉱物でも砕くような音を出して咀嚼する。夏油は目を点にしていた。
「んー、可もなく不可もなく」
「……安倍先輩は呪霊に味を感じるんですか?」
「感じるよ。個体によって美味しかったり、不味かったりするかな」
「美味しいんですか?」
「えぇ。夏油くんは違うの?」
「………正直言って、呪霊玉はゲロを処理した雑巾を丸飲みしているような味がします」
「ふーん。っま、それが普通の味覚だよ」
再度ポリポリポリ…と音が響く。櫻はじっと夏油を見た。顔色はそこまで悪くないが、目のくまはまだあった。
彼女は少し考え、カゴからりんごを取って不意打ちに投げる。さすがの反射神経で夏油はそれをキャッチした。
「リュークはりんごが好きなんだって」
「誰が死神ですか」
「それは甘いから食べなよ」
「……どうも」
シャクシャクと、ポリポリが二重演奏を奏でる。外は赤く染まり始めていた。しばらく黙っていた夏油は、五条の話をした。「アイツってそんなに甘えてくるんですか?」と。
最初首を傾げた櫻は少し考え気がついた。もしやこの男、七海が来た直後に病室にたどり着いていたな? ──と。
「何だ、君も甘えたいの? いいよ」
「それは結構です」
腕を広げたが、丁重に断られる。彼女の抱擁から逃げ続けている唯一の男だ。面構えが違う。
「やたら私のことを励ましてくると思っていたんですけど、悟も慰められてたんですね」
「この胸でね」
「ハァー……」
頭をかいた夏油は立ち上がり、「りんご、ごちそうさまでした」と去って行った。病室には彼女だけになった。もらった食べ物もすぐに食べ尽くした。洗面所で一度よく手を洗ってから、彼女は自分の顔を見る。血のような、赤い目玉だ。後ろから見たら老人と勘違いされるだろう。
「空が見たい」
病院の屋上は風が吹いていて、残暑の中でもかなり涼しい。長い髪が夕日の色に染まって赤くなる。大きく、大きく彼女は深呼吸する。そうして何度も肺に酸素を送った。
彼女は昔から夕陽が好きだった。彼女の瞳の色だし、そのあとは彼女を優しく包む暗闇が来るからだ。
「パイセン?」
風の中でもよく通る声が聞こえた。空に浮かんでいる五条が下に降り立つ。サモエドの毛並みが左右に忙しく揺れている。
「海外任務って聞いたけど、急いで戻って来たの?」
「そうだよ。悪いか」
「一番乗りは坊ちゃんだと思ったんだけどなぁ〜」
彼女がそう言うと、五条は唇を噛んで下を向いてしまう。体が少し震えていた。櫻が目覚めるまでの間、一番心配していたのはきっとこの男だろうに。少々意地悪が過ぎたかもしれない。涙を拭う坊に、櫻は腕を広げて立つ。
「誰だよ、お前」
長く、白い髪がバサバサとうねっている。より一層強い風が建物の隙間を抜け、遠くでうなり声をあげた。
目を丸くした彼女の微笑みが五条の見知ったものから、見知らぬものに変わった。
呪力も、何もかもが安倍だけれど、変わってしまったその髪の色のように、目の前に立つ存在が明確に違うと彼にはわかった。
「私は…そうだね。昔は『