腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
──────彼女は毎日、新しい『彼女』になる。
朝起きたら、彼女は知らない部屋にいる。自分が何者か、どうしてその場所にいるのか彼女はわからない。
混乱する彼女はベッドサイドに置かれた一冊の本を見つけ、目を通す。「朝起きたらこれを読むように」と表紙に書かれているからだ。不思議と文字は読め、今自分が持っているものが“本”だということはわかる。
彼女は自分の記憶が一日しか続かないことを知る。そういう病気なのだそうだ。
名前は『櫻』。人間から生まれる呪いを祓う呪術師という仕事をしていた。ここは高専の関係者が住まう住居の一室らしい。
他にも色々と書かれていて、友人や知り合いの写真があり、そこに自分とその人との関係性が書かれている。
「わぁ」
あるページに彼女とツーショットで写る男の写真があった。数は一枚だけでなく、一緒に写っている写真が何枚もある。彼女が記憶を無くしてから撮ったらしい写真もあった。いつ撮ったか、どこで撮ったか、どんなシチュエーションで撮ったのか、詳しく書かれている。
写真の中の自分を櫻は指でなぞる。記憶のない自分がそこにいるのが不思議だった。でもどれも楽しそうだ。
テーブルに置かれていた服を着て、その隣にある付箋やメモ帳、ボールペンを手に取る。何か必要なことをメモをして、明日に必要だったらそれを付箋に書いてわかりやすい場所に貼っておくようだ。
テーブルには昨日の自分が書いたらしい付箋があった。それをチェックして、部屋を出る頃にはすっかり外は明るくなっていた。
安倍櫻に起こったことは魂の欠損だった。これは五条の話を聞き、彼女について調べた九十九由基の見解である。
毒蟲が五条に話をした内容を簡潔にまとめると、以下のようになる。
[毒蟲の過去について]
①約千年前──呪術全盛期に蠱毒に巻き込まれ、毒蟲の魂(自我)が崩壊。人間に利用されたのち忘れ去られ、以降は人に寄生を繰り返す。
(寄生された人間は元の自我をなくしてしまう模様)
②時代は不明だがある時期の術師が毒蟲に価値を見出し、『アオムシ様』を崇める宗教団体の前身ができる。そして現代に至る。
・『百虫毒蟲様』と『アオムシ様』の崇める存在は同体で、毒蟲を指す。おそらく隋か唐の時代に日本へ渡ってきた可能性が高い。
・呪霊と思しき“友人”がいる。曰く引きこもりで汁が垂れている。毒蟲より歳下。
[毒蟲が復活した理由]
❶『アオムシ様』になるために大量の生贄を捕食する中で、生贄の魂まで取り込む。この魂は壊れ、どれも残骸のようになる。この積み重なった残骸が、さながら夜蛾が作ったパンダのように『SAKURA』という一つの自我を作り出した。
❷この自我に引き寄せられるようにして毒蟲の魂の一部が反応し、イマジナリーフレンドナナミンとして櫻の前に現れるようになる。この際はまだ毒蟲の自我がなかったと推測される。
(『ナナミン』が何者なのかは不明。生贄になった人間の記憶の一部か?)
❸中国へ行き『百虫毒蟲』を崇める信仰心に毒蟲の魂が反応。連鎖反応を引き起こし、呪物となっていた『百虫毒蟲』の肉体の一部を櫻が取り入れ、毒蟲が復活する。
櫻はこの毒蟲の覚醒によって魂の破損が生じたのではないか? ──と、九十九は考えた。要は彼女の自我を作るに至った魂の残骸のバランスが大きく崩れてしまったのだ。
「眠ればすべてを忘れてしまうのか。それでも本やメガネといった概念を覚えているのは、生贄の魂の残骸の情報があるからか……?」
眠る女の髪に九十九は触れる。シーツに溶け込むような真っ白な色だ。
今日一日彼女は櫻とともに過ごした。精神年齢は実際の年齢より幼い。「車」や「エアコン」など教えなくてもわかるものもあれば、スマホを知らないなど物の中でもわかるもの・わからないもの。操作できるもの・できないものがある。
人に関しては全滅だ。九十九どころか七海のことも、恋人だった男のことも覚えていない。自分の名前さえわからないのだ。
「ハァー……」
病室の椅子に座り、彼女は天井を仰いだ。罪悪感がのしかかってくる。
「毒蟲にコンタクトを取れればいいが、五条君と結んだ縛りで現実へ出ることはできず、彼女の精神にも介入できないときた…」
一応現実から縛りの反故を持ち出したが、向こうからの応答はなし。現実からでは縛りの解除は無理か、または毒蟲自身が縛りの解除を拒んでいるのかもしれない。九十九的に五条の話を聞いて想像した毒蟲のイメージを考えると、後者の可能性が高そうだと睨んでいる。
ハッキリ言って現状ではなす術がない。櫻の魂へ介入できる力があれば話は変わってくるかもしれないが、そんな都合のいい力はない。今のところは。
「さながら“蛹化”か。さなぎになった君は、毎日新しい君になる」
それはしかし、とても残酷なことだ。昨日の続きの今日を歩む人間たちにとっては。
目覚めた櫻は本を読み、机の付箋に目を通す。今日の日付の予定を見て、洋服を吟味した。
選んだのはシャツワンピースと黒のローファーだった。背鏡を見ながら落ち着かない気分になる。化粧道具もあったけれど、あいにく化粧の仕方はわからなかった。予定の時刻になったら部屋に人が訪れた。
「はよ」
「お、おはようございます」
サングラスをかけたその人は、彼女の恋人らしい男。真っ白な髪と蒼い目は日本人離れしていた。それを言ったら彼女の髪も白い。実物の恋人は写真で見るよりキラキラと光って見えた。
「かっこいい…」
彼女が思わず呟いた言葉に恋人の男は笑った。顔が真っ赤になった櫻は、そこでハッとする。もしかしたらいつも同じようなやり取りをしているのかもしれない。
「じゃあ行こうぜ」
「よろしくお願いします……」
繋がれた手は自分のものより大きくて、彼女は不思議な気持ちになった。
出かけた先は水族館だった。暗い館内に水槽が浮かび上がって見える。頭上からは光が差し込み、カーテンのように絶え間なく揺らめいて悠々と泳ぐ魚たちを照らす。
大水槽は迫力があった。彼女の何倍もの高さがあり、横に長く続いている。客はその前に止まって機械のようなもので写真を撮っていた。
櫻も五条に誘われて水槽をバックに写真を撮った。撮れたものを見せてもらうとちょうど背後にサメが泳いでいた。
「五条くんは最強らしいけど、サメにも勝てるの?」
「当然。余裕だよ」
大水槽を抜けた先にはくらげゾーンがあった。櫻は五条の後ろに隠れる。くらげに注がれるのはうさみちゃんの如き視線だ。
「くらげ苦手なのかよ。この上の丸い部分とか宇宙船のフォルムしてんのに」
「………。あっ、あっちにチンアナゴがあるって!」
チンアナゴは彼女のお気に召したようだ。「チンアナゴって何でチンアナゴって言うんだろうね?」と櫻は五条に尋ねる。
「おい、あんま連呼するな……!」
「チンアナゴって言ったらダメなの?」
「……ちょっと待て、今調べっから」
周囲の、特に男性の視線が向いていることに櫻は気づいていない。かがみ込んでチンアナゴを見つめる彼女の後ろに五条は立つ。
チンアナゴは
狆の動画を見せてもらった櫻は、犬が二本足で立って芸をしている様子を見て、「狆がちn──」と言おうとして口を手で塞がれた。顔を上げると、五条がジト目で彼女を見ている。
ちょうど穴から出てきたチンアナゴは、そんな二人の様子を丸い目で見つめていた。
昼休憩を取ってから、午後一番のイルカショーを見ることになった。自分が大食いなのだと分かっていても、いったいどれほど食べればいいのだろうか? 悩む彼女に五条は「全部頼んでいいよ」と話した。
「お金は大丈夫なの? というか私そんなに食べれるの…!?」
五条はブラックカードを見せる。そのカードの凄さはわからずとも、黒いカードを持つ男の姿は様になっていた。
ひとまず櫻は気になったものをいくつか頼み、さらに食べられそうだったらさらに注文することにした。品物を待つ間、彼女は「そう言えば」と思い出す。
「五条くんは私の恋人なんだよね?」
「そーだよ」
「なのにどうして一緒に住んでないの?」
「……朝起きて、知らない男がいたらビビるだろ」
「っあ、確かに」
目が覚めて隣で知らない男が寝ていたら、きっと部屋を飛び出すだろうと思う。そうすれば本を読むどころではなくなり、彼女は大パニックになる。
ズズ、とシェイクを飲む五条の顔はどことなく暗かった。
「………」
櫻は疑問に思った。毎日記憶をなくす彼女にどうして五条は寄り添ってくれるのだろうか? もし自分が同じ立場だったら、きっと耐えられない。側にいればいるほど、辛くなるだけだろうから。
全品とはいかずとも半分のメニューを食べ尽くした櫻は、イルカのショーを見ていた。席は前列で、周囲はワンコインで買える雨ガッパを購入している。自分たちも買わないのか五条に聞いたが、「濡れないから大丈夫」と返される。
「もっとこっちに寄ってろ」
「ん? うん…」
さり気なく肩に回ってきた手に意識が向く。拳一つ分空いていた距離が埋まり、ピッタリと密着した。胸のドキドキが止まらず、櫻は頭を少し相手の方に傾けてショーを見つめた。
海のギャングばりに暴れるイルカは客にリップサービスとして、ジャンプからの水しぶきを食らわせる。周りでは悲鳴と歓喜の混ざった声が上がる。彼女は思わず目を瞑った。しかし顔や服に水がかかることはない。
「──ねっ、言ったでしょ」
五条の笑みはイタズラに成功した少年のようだった。
櫻の顔は、真っ赤になった。
帰りは水族館の近くにある浜辺に寄り道することになった。チンアナゴとイルカのぬいぐるみを五条に預け、櫻は靴下ともども脱ぎ捨てて海に入る。
「冷てぇー!!」
「転ぶなよ!」
「は〜い」
一歩踏み出せば足が砂に沈む。足の指に入り込むその感触が絶妙に気持ち悪い。スカートの裾が濡れてはまずいから、両手で膝上まで上げて水の中を進む。
波の力は思ったよりも強い。押されたり、引かれたり。潮のにおいが肺をいっぱいに満たした。海はどこまでも続いている。果てがないその姿に魅かれて、足は自然とさらに進んだ。
「おいっ!!」
グイッと腕を引かれ、櫻は体勢を崩した。顔が厚い胸板にぶつかる。「何だ?」と思い、空いた手で目の前にあった二の腕を支えにする。
歪んだ五条の顔がそこにはあった。気づけば冷えた感触は腰にまで及んでいる。夢中になって深くまで潜ってしまったらしい。波の力で簡単に倒れてしまいそうになる。
「ご、ごめんね。楽しくなっちゃって」
「………」
「……心配かけたかったわけじゃないの」
海から出ても、二人とも沈黙のままだった。腰から下が濡れて服が張り付いている彼女に対し、五条は濡れていない。これもイルカの水しぶきを防いだものと同じ力だろう。ちなみに二つのぬいぐるみは砂浜に仲良く置かれている。
気まずくなった空気をどうにかしたいと思った櫻。しかし今はそれより死活問題がある。
「下着脱ぎたい」
「……………………えっ?」
五条は無量空処でも食らったような顔をした。彼の思考が停止している間に降りた櫻はその場で脱ごうとする。
ちょっと待って欲しい。いくら人が二人しかいないとはいえ、ちょっと待って欲しい。その間に櫻は脱いだ下着をポケットに突っ込んだ。
「オッケー。……あれ、天なんか仰いでどうしちゃったの?」
「この宇宙人め…」
「UFO見つけたの!!?」
櫻が空を探せども、そこにはうっすらと赤い雲が広がるばかりだ。濡れた足を拭こうとしたハンカチは水没のせいでびしょ濡れで、靴と靴下を回収した彼女は困った。五条へ視線を向けると、無量空処から帰って来たようでクソ長いため息を吐く。
「どうしよう、五条くん…」
「……仕方ねぇな。運んでやるよ」
レンジャーロールか姫抱きの選択肢を出された櫻は迷わずレンジャーロールを選んだ。実際にその担ぎ方をされた彼女は「………」となり、おんぶを所望した。
だがこれは断られた。結局、姫抱きされて帰ることになった。チンアナゴとイルカは彼女の腕の中にいる。
陽が沈んだら夜がきて、人々は眠る。感じる体温と揺られる感覚に眠気を覚えつつある櫻は唇を噛んだ。これまでの彼女もこうして明日が来ることを恐れていたのかもしれない。楽しかった出来事を忘れ、大切な人のことも忘れ、彼女は新しい『彼女』になる。
それは──それはとても嫌だった。
「ゔぅ……」
「………泣くなよ」
「もう一生寝ない…!!」
「寝なかったら死ぬだろ」
「だって、だってぇ………!!」
明日の櫻は、今抱くこの感情を忘れてしまう。そんな彼女を見なければならない五条の気持ちを考えると、いっそあのまま海へ流されてしまった方が良かったとさえ思う。
好きだ、ということは許されない。言う資格が彼女にはない。
「気にすることねぇよ」
「………」
「だから、言って?」
櫻は黙り込んで、しばらくして「多分好きになっちゃったかもしれない」と話した。多分ってなんだよ、と五条は胡乱な目になる。
「俺も好きだよ。…………多分、な」
怒って腕を叩く彼女に五条は笑った。
────彼女は毎日新しい『彼女』になる。
そして毎日、あなたを好きになる。