腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
高専時代にやることはやっていた櫻と五条。しかして、改めて夫婦になりますよとなると、互いに思うところはあった。
櫻は赤ん坊云々…で早々に気が重くなった。相手が六眼と無下限呪術の抱き合わせな最強の呪術師なら、殊更だった。彼女にのしかかるのは、“胎”としての責務だ。やはり気は重くなる。
一方で五条の坊は理想的な紳士の男のイメトレをしていた。童貞を捨てたときの彼と言ったらまぁ情けないもので、興奮もあり色々と早かった。その速度でイカゲームの三つ編みちゃんが振り返ったら、参加者が余裕で全滅するくらいの速度だった。
理想像はたいへん誠に遺憾であるが、七海である。七海建人。ケント・ナナミ。というか、櫻の理想値がそこなのだ。ふさげるな旦那は俺だぞ。五条だって女子には優しい(と五条本人は思っている)。JCを親友と雑巾の刑に処した過去があるにせよ。
櫻は櫻で、五条は五条で互いに悩みを抱えていた。
五条の方は紳士の指南をまさか七海に仰ぐわけにもいかず、親友に相談した。すると、早いところの件で爆笑され、あまつさえそれが硝子にも連絡されかけて流石におこになった。五条は真剣なのだ。真剣に早い…の話をしているのだ。
夏油も悪ノリに乗る部分はあるが、フェミニストの一面を持っている。ついでに女性経験も多い。この手の、恋愛系の相談にはうってつけではある。
「それならとっておきの言葉を教えてあげるよ」
「とっておきィ?」
相手の緊張も必ずほぐれると夏油が教えた言葉は、五条にとっては「……ハァ?」という内容だった。まず、絶対に理想値ナナミが言いそうな言葉ではない。
ガッチガチの理数系脳で訝しげ〜な視線を送る五条に、夏油はサムズアップした。その「いいね!」のマークと反対のいいねを送ってやろうか、と五条は一瞬考えた。だが送ることはしなかった。
彼は真剣に悩んでいる。果たしてその言葉で櫻の心をキャッチできるのか? 夏油傑は随分前の、デートには干物屋がいいよ──みたいなデマを五条に植え付けようとしてないか? 五条が視線を寄越すと、酒を口にしながら夏油はまたサムズアップしたので、五条はとうとう反対いいねを返した。ハハ、と夏油はさほど気にしたふうもなく笑う。
「あの先輩はふざけたノリが結構好きだから、いいと思うけどね」
「………わぁーったよ」
櫻はノリが好き。それはまぁ、五条も知っていた。五条のノリと彼女のノリがぶつかって、そのままとんでもない状態で伊地知くんを困らすこともある。
いや正気じゃねぇな、と内心五条は思いながらも、これから夫婦になりますよ、なタイミングで言った。
「………帳おろすね」
櫻がポカンとしているうちに五条は電気を消して戻った。床をのたうち回りたい衝動に駆られたが、そんなのたうち回っている場合ではない。夏油に言われて、「それを言ったら絶対におもろいな…」と思ってしまった段階で、彼の試合は終わっていたのだ。
暗い室内で電球の薄明かりだけが灯っていて、その中に白い髪と真っ赤な目と、白い──限りなく白くした肌が浮かんでいる。
「ふふ」
櫻は笑って、また「ふふふ」と息をこぼすように笑う。ただ、その笑みは彼女がよく浮かべるからかうものとは違う。
本当に綺麗に笑っているものだから、ついと五条はその表情をじっと見つめた。
ひとしきり笑った櫻は目尻の涙を拭い、ハァーと息を吐く。
「緊張していたんですけど……これでも」
五条の手の上に、そっと手が重ねられる。
「……よろしくお願いします。悟さん」
その「よろしく」の前にはきっと、たくさんの省略されている部分がある。そのひとつ一つを暴いていたらキリがないほどに。
五条はグッと息を飲み込んで、抱きしめて、滑るように口から愛の言葉を言った。
夜の帳がおりて、朝が来て。
その時に朝日を浴びながら、二つの手はしっかりと握られていた。