腹凹毒蟲【Q】 作:アンディライリーのうさぎ
櫻ははじめて親に打たれた。
やかんの如く、怒りのあまり本当に湯気がもうもうと立った父親が人の言葉を忘れた罵倒を以ってして、少女を何度も殴った。母親は無表情に彼女を見るだけで、そのあと使用人や兄から嘲笑の歓迎を受けた。仕上げに兄に水を浴びせられ、蔵の座敷牢に閉じ込められた彼女は震えながら一夜を明かした。
五条家の坊ちゃんを怒らせた少女はまさかの彼女が初。坊が不機嫌になって終わることは数知れずとも、あからさまに「もう二度とあの宇宙人とは会わない!!」というのははじめてだった。
現場で起きたことを護衛が主人に報告すると、「あの悟が見合い相手と楽しそうに鯉を取っていたのか!」と悟パッパは豪快に笑った。
あれは怒っているというより、拗ねているのだろう。五条家では微笑ましい話になり、安倍家がお咎めを受けることはなかった。一部は坊ちゃんの様子を見て、もう一度あの令嬢を呼んだら良さそうだ、という話まで出ている。
だがしかし、五条家の坊ちゃまを怒らせた、という事実は櫻の義父母にとって血も凍るような話だった。相手は呪術家御三家で、こちらは当代で廃れそうな没落一族。
呪力があり、さらに見目の良い子供を安倍家の立て直しのためにもらってきたはいいが、せっかく育てた末がこの体たらく。櫻の教育を行っていた妻まで殴り、この屋敷の主人は眠りについた。
櫻は母親に教えられたとおり五条の坊に気に入られるよう動いたはずだった。途中で相手に求められたため自然体に、それでも敬いながら接した。途中まではいい感じだったけどな。五条の坊が欲しかったのは友達であって、嫁ではなかった。そんな話は聞いてねぇぜお母様。
とっさにアドリブを………いや、本心から呼び止めていた。鯉を食わせてくれた少年なら友達になってもいい。もし今後五条家に招かれたら、ごちそうをたらふく食べれる。
坊が魚を取って投げ、それを彼女がキャッチして護衛に渡す。いつの間にか用意されていた七輪で焼いた鯉は美味かった。家族と食べる刺身よりも不思議と美味かった。
鯉泥棒をしながら笑い合った坊と自分。花嫁修行中に「素晴らしいわ櫻さん!」と微笑む母と自分。この二つの場面で彼女は笑っているのに、温度差がマグマと永久凍土くらいには違う。
イマジナリーフレンドナナミンが数年ぶりに出てきたあたりで、もしかしたらな〜とは思っていた。もしかして、櫻はこの家を建て直すためだけに拾われた道具?おっかなびっくり怯えていた子猫は院長に飼われて、人に心を許すようになったんだけどな。あの女もこの人間たちとグルだったのだろうか。やっぱり人って信用ならない。彼女は床に蹲って、声を殺しながら泣いた。
きっとあの時、去る五条の坊を呼び止めていれば、まだ違う未来があったかもしれない。けれど彼女はその方法を知らなかった。どうすればいいか分からないから、眉を下げて小さな背を見送るしかなかった。坊がもしも後ろを振り返っていたとしたら、きっと五条悟は彼女の本心を知ることができただろう。
お互いお友だちになれたらと思って、結局なれなかった。
櫻にはやはり、イマジナリーフレンドナナミンしかいない。これからどうしようか、夢の中でナナミンの背中にヒシッと抱きついた彼女は考えた。
今後他のもらい手を探しても、五条家の一件が尾を引いて見つからないだろう。そう判断した両親は彼女を座敷牢に入れっぱなしにした。さっさと処分したかったが、すぐに殺したら悪い噂が立つ。今回の件が下火になり、周囲の目が向かなくなったうちに、病死したことにしてこっそり殺し捨てようと決めた。
翌日、熱を出した彼女は蔵にいたネズミや古びた茅のようなものを食べた。食事は一日二食か一食。女中が汚らしくなった彼女を豚を見るような目で見てくる。唾を吐かれたこともあった。それを舐めると結構上手く、相手は悲鳴をあげていた。
腹が減った。
腹が減った。
腹ペコ腹ペコ。日が経つにつれ骨と皮が浮き彫りになっていく。汚れた座敷牢は掃除係の害虫やネズミが湧いて、彼女はそれを食らった。口の中でゲジの足が元気よく蠢いている。漏れた一本がポトリと落ちて、「うわ何をするだァーッ!!」と言わんばかりに暴れた。
イマジナリーフレンドナナミンは「そんなもの食べてはいけませんよ」とか、至極まともなことを言ってくる。ナナミンがどんな味なのか知りたくなり、夢の中で手に噛みついた彼女は最終的にバケツを持って廊下に立たされた。体罰反対である。
それからどれだけの時間が過ぎたのか、櫻は覚えていない。ある日女中数名と義兄がやってきたと思ったら、風呂場に連れて行かれた。ガリガリに痩せ細った体は幽閉中も縦に伸びている。胸はなかった。だって肉がない。
そして久しぶりにスッキリした彼女はこれまた久々の布団にありつけた。日はまだ高い。両親の気配がないため、どこかへ出かけているようだ。布団に入ると泥のように眠れた。このまま眠るように死ねたらいいな、ともちょっと思った。だがそれよりしぶとく生きたい気持ちがある。すでにおぼろげな記憶のアオムシ様時代。あの時腹を刺された時も、死にたくないと願った。
息遣いがした。他人の息遣い。
目を開けたら義兄が覆いかぶさっていた。下半身は何も着ていない。
彼女の服も剥がされていて。
櫻は、腹が減っていた。