たくさんの、私を呼ぶ声が聞こえる。
それは慈愛に満ちた声、親しみを感じさせる声、そして、苦しみが刻まれた声。
『クロエ』『クロエ姉!』
「クー、ちゃん……」
「……あれ」
なにしてたんだっけ。
思い出せる最後の記憶は、離れてくみんなの後ろ姿。
そうだ、みんな精神力に限界が来てて……敵から一時撤退していたんだ。私も逃げてたけど、後ろから攻撃が来て……。
「クーちゃん、起きてください」
うう、意識が朦朧とする。
なんで、それより前の記憶が思い出せないんだろう。私は何と戦っていたんだろう。
どうして私はうずくまっていて……どうして、目を開けたくないんだろう。
どうして……。
「目を開けてください」
どうしてこの声は、聞き覚えのある声なんだろう。
「苦しみから目を逸らさないで」
やめて。見たくない。
目をぎゅっとつむる。だけどこのままじゃダメだ。どうして? まだ戦闘中のはずだから。それなら敵は誰だろう。この声の主が敵? いや、いやそんな訳……。
「苦痛を直視しなきゃなりません」
見たくない。
目をぎゅっとつむる。開かないと。怖い! 怖い! 思い出したくない。さっきまで戦えてたはずなのに……。まぶたが重い。身体が重い。
「苦しんで、クーちゃん」
見たくない!!
目をつむる。歯を食いしばった。死にたくない。はやくまぶたを開いて! でも、でも。みちゃいけないそれをみちゃいけないみちゃ……
「私と、同じように」
「……あ」
目を開けてしまった。私を、見下ろしていた。知っている顔。
「……そうです。私だって、苦しいんですから」
攻撃が来る。呆けた私はまた、避けられなかった。
落ち着いてからけっこう経つけど、いまでも時々、懺悔の
──死ぬることは罪なりや?
中でも特にその言葉を覚えてるのは、それを聞いたとき、反射的に笑い飛ばしそうになったからだ。
死ぬことが罪だなんて、そんなはずがないだろうと思った。
誰もが死にたくないはずなのに。
『メイベルチーフ、引き続き私についてきてくれないか。ウチの部門長や第二チームチーフと合流したい』
『問題ないよ。アスカはどうする?』
俺はエバチーフやメイベルさんとは別れて、ハンターさんが言ってた場所へ向かった。なんとなくその場所に何があるか、いや、誰がいるか、分かってきたから。
メインルーム第三フロアの直前の廊下に着くと、そこで休憩していたらしき何人かのうち、一人が立ち上がって臨戦態勢になって俺を睨みつけた。
焦った俺は両手を上げる。
「敵じゃないです! 仲間です!」
「……なんだ、アスカくんかよ」
「ハンターさん、あんた懲戒チームより武人なんじゃねえか……」
一人というか、ウチの部門長だった。隣りに座っていたバレルが組織員らしからぬビビり方をしてる。
「にしてもアスカ、生きてたのか! 良かった……」
「そっちこそ。ここにいるみんなは何してるんだ?」
「僕ら部隊全員、ちょうどさっきT-06-k27-1から退避して、いまは精神力が回復するのを待ってるとこだ」
ハリー部門長が廊下のエンケファリン噴出口を指す。なるほど、それは納得した。でも。
「……でも、クロイーは? ここにはいないけど」
俺は廊下を見回すが、ハリー部門長やバレルの他には中央チームの人しかいなかった。
「クロイーは……」
「クロイーさんは逃げ遅れた」
ハリー部門長は親指で廊下の扉を指した。ハンターさんの言ってた廊下だ。
「な……逃げ遅れたって」
「撤退してるとき、最後尾にいた彼女が攻撃を食らって倒れた。その間に僕らは退避できたが……」
ハリー部門長はこともなげに言う。
きっと、クロイーを助けてる間に精神力が尽きて二次被害が広がるリスクより、クロイーだけやられる方がマシって判断なんだろう。
その考えは納得してもいい。でも。
「あれから五分は経ってるのに、クロイーさんは向こうから出てこない。生きてるのか……それとも」
でも、そんなの……。
「……俺が行きます」
「アスカ、一人で行くつもりか?」
「他の誰も行かないなら、そうだ。それでも行く」
バレルは歯を食いしばって、ハリー部門長をチラッと見た。こちらに向き直ったバレルは苦しそうな顔をしてる。
その表情がいつものバレルと違うように見えて、少し不思議に感じた。いつものバレルのように心配しているような表情だったけど……すこしだけ、その表情は歪んでいる。
「行くんじゃない」
「止めないでくれ、バレル。俺はクロイーを助けたい」
「お前はここにいる誰より……それに、クロイーよりも装備が弱いんだぞ? 俺たちですら危なかったのに、一番向こうに行って危ないのは……」
「……いや、丁度いい。アスカくん、精神力は問題ないな?」
「大丈夫です、ここに来るときの戦闘でも
「……は、はぁ? ハンターさん、正気か? 俺のときは止めやがったのに」
唖然とした顔でバレルはハンター部門長を見る。ハンター部門長は肩をすくめる。
「あのときは君もボロボロだっただろうが」
「……なんだ、そんなこと言っておいて、バレルも俺と同じようなこと言ってたのか」
バレルもクロイーを助けたいと思ってるじゃないかと俺はバレルに笑いかけるけど、バレルは微妙そうな顔で俺を見た。
「メイベルの報告書からして、アスカくんはそこそこ戦えるやつだ。クロイーさんを助けるくらいはできるだろうよ。……それに」
「それに?」
「いや……いい。アスカくん、さっさと行きな。君以外はみんな精神力がギリギリなんだ。彼女を助けられるのは君だけだ」
そうだ、話してる間にクロイーが殺されるかもしれない。
「言われずとも」
俺は扉に向き直る。すると、横のバレルが手を掲げた。
「……アスカ、生きろよ! 死んだら殺してやる!」
「ははっ。ああ、もちろん!」
その手を叩いて、俺は急いでクロイーのいる部屋に入った。
「大丈夫か!? クロ……イー……」
遮蔽物のないメインルームでは、そこにいる職員や敵はすぐ目に入ってくる。
クロイーは生きていた。それは良かった。
だけど、一つだけ悪いこと。
嫌な予感が当たった。
「やめて、やめて……」
「一緒に……なりましょう、クーちゃん……」
そこにいたのは、しゃがみこんで後ずさるクロイーに、巨大な旗を持って迫る、青い装備と眼鏡を着けた私たちの苦しみ……いや、T-06-k27-1。
その声も、喋り方さえ、どうしようもなく聞き覚えがあって。
「やめてよ、ナーちゃんチーフ……!」
「あなたも苦しんでよ、クーちゃん……」
チーフが、人間じゃない姿で、クロイーを襲っていた。
確かに以前と同じように眼鏡をかけてる。EGOも天国と掲揚を装着している。
だけど瞳孔が開ききった目と、あまりにも高くなった身長は、もはやチーフが人間じゃなくなったってことを伝えてきていた。
あの日に見た、私たちの苦しみの収容室にいたチーフ。
……あれは『チーフの姿の真似をした私たちの苦しみ』じゃない。私たちの苦しみのせいで『T-06-k27-1になったチーフ』だ。
あんな姿になっても、チーフ自身なんだ。
クロイーの方は、目が濁りきっていて、いつ私たちの苦しみに呑まれてもおかしくなさそうな感じ。
チーフの掲揚は
「苦しくて苦しくて仕方なかったのに、クーちゃんもいなくて寂しかったんです。もう、一人じゃ耐えられないんです。だから、ね? お願いします。早く、一緒に苦しみましょう?」
「うぅ、うううう……いやだ、嫌だ……。ナーちゃんチーフはそんなこと言わない……」
チーフに対し、クロイーは額縁を取り出そうとする。だけど、チーフの言葉に、少し止まった。
チーフとクロイーはまだ俺に気づいていない。
「仕方ないでしょう? それだけ辛くて苦しくて仕方なかったんですから。それなのに耐えられるほど私は人間できていないんです。クーちゃんほど立派じゃないんです」
「私は、立派……なんかじゃ……」
「立派ですよ。どれだけ辛いことでも、家族のためなら頑張れるって言って……。だから、きっと大丈夫です。今日は私のために、辛さを我慢してくれますよね?」
「そんな、押し付け……!」
戸惑っていたクロイーの表情が決意に固まり、立ち上がって武器を完全に取り出し、構えた。だけど。
「だって、忘れていませんでしたよね?」
「……え?」
「友達なんですから。私がいなくなったこと、忘れていませんでしたよね? 忘れられませんでしたよね? 忘れるつもりじゃなかったですよね?」
「あ……そんなこと……」
「それとも、忘れるつもりだったんですか? クーちゃんにとって私は友達じゃなかったんですか? 私がいなくなったのを忘れて、幸せになろうとしていたんですか? 私はこんなにもこんなにも苦しかったのに」
「そんな、そんなつもりじゃ……ナーちゃんチーフのこと、友達だって……」
「そうですよね? 私たち友達ですよね? 友達が死んだなら、ずっと悲しんで、笑顔を忘れて、苦しむべきですよね? あなたも、私と同じように……!」
「やめて……そんなこと、言わないで……」
「きっとどちらでも苦しいですよ」
涙を流して、クロイーは武器を放した。音を立てて、額縁のメイスが地面を転がる。
「あ……」
「どれだけ生きてていても、私を思い出すでしょう。あなたは私を助けられなかったから。見殺しにしたから」
「…………」
「生きていても死んでいても、人間でもアブノーマリティでも苦しいなら……一緒になれる方法で、苦しみましょう?」
細長い人影は、長い指でクロイーの涙をぬぐった。
クロイーは目をつむる。……諦めたのかもしれない。殺されてもいいと思ったのかもしれない。
うなだれるクロイーへ、チーフの持つ巨大な旗が、死神の鎌のように振り下ろされて……。
「俺も揺らいでたけど……心は決まった」
それを、懺悔の剣で防いだ。
チーフはもともと開いてた目をさらに見開いて、後ろのクロイーも声を上げる。
「あす、か……?」
良かった、間に合った。
チーフの姿に動揺しすぎて動くのが遅れて、クロイーを守れないかもしれないところだった。
間に合ったのは、充電のおかげだ。さっきはなくなったと思ってた充電が、まだ身体に残ってたみたいだ。
「アスカくん……いたんですね。あなたも一緒に、こっちに来てください」
「……変わっちゃいましたね、チーフ。いやきっと、生前とはまったく違うくらい歪められてるんだろうな」
「あ、アスカ、その剣……」
「……お断りだ。俺も、クロイーのことも」
死ぬことは、罪だ。
死んだら他の人を悲しませる。みんなが死んだら俺が悲しい。
死はあらゆる人を引っ掻くように傷つけるから、それは罪だ。
クロイーが死んでしまえば悲しいように。チーフが死んでしまったことが悲しかったように。
だから。
「俺たちは、こっちで苦しむから……!」
「それは……ダメです。私たちから逃げてはいけないんですよ……」
『私たちの苦しみ』と同じようで、違うこと。
俺は、生きる苦しみから逃げることを許さない。仲間を死なせない。
それでも、きっと限りなく似ているその観念は、道連れの鎖を抽出した。
懺悔の剣に、茨だけでなく鎖が巻きつけられる。ついには茶色の茨と銀の鎖の両方が剣に絡み合って、その重みを増やした。
「あの時の剣……」
クロイーがつぶやく。
聞いたことがある。この前侵蝕したとき俺が振っていた、鎖と茨の剣。だけど、今回なら少しだけ、理性を持って扱えそうだ。
変わり果てたチーフをにらんだ。
「死を罰する……」
「一緒に苦しんでください。あなたも苦しまなきゃいけないんです」
その言葉を合図に、俺は両手で鎖と茨の剣を振り下ろした。
叩きつけるような鎖と茨の剣の衝撃で、チーフはよろめく。いいぞ、WAW防具の相手に対して、十分以上に効いてる。
剣の流れのままに突きを繰り出そうとして、体勢を立て直したチーフはすぐに旗を斧のように振りかぶった。
それを避けようとして……俺が避けたら、後ろのクロイーに当たる。クロイーを押し倒すように庇って、防具の声と同調した。
「『死ぬことは、罪だ』!」
旗が振り下ろされ、一陣の風を背中に感じる。物理的にそれだけだけど、頭の中では諦めや苦痛がグチャグチャになって暴れだす。
EGOと共鳴して一時的に防具の性能を上げたはずなのに……それでも、これだけしかあの武器の精神的ダメージは抑えきれないらしい。
「あ、アスカ……」
「逃げろクロイー、お前ボロボロなんだろ」
「う、うん……」
「逃しません!」
逃げるクロイーの後ろ姿を、叫びながらチーフが追撃しようとする。
ああ、目の前にいる俺じゃなくてクロイーを狙うのは、きっと体力の少ない人を狙うアブノーマリティの本能ってだけ……じゃ、ないんだろう。
きっと、チーフとクロイーが友達だったから。
歪められた思考でも……一緒に苦しみたいって、そう思えるような仲になれたんだろうな。
でも、させない。
俺は、さっきの『充電』と同じように、頭や身体の奥底にある『安住』を取り出す。
他の鎮圧部隊への迷惑は……考えなかった。
「こっちを見ろッ!!」
「な……!」
逃げるクロイーに向いていたチーフの足が、俺の方へ方向転換した。
狙い通りだ。勝手に動く自分の身体に驚いたチーフの不意をついて、鎖と茨の剣で腹部を突く。
「こ、これっ、欲の指輪!?」
チーフの視線が俺に固定される。チーフがどれだけ目を逸らそうとしても、『安住』の強制力から逃れることはできない。
「……アスカくん。強くなりましたね。きっとこれまで色んな苦しみがあったでしょうに」
「この前、EGOの戦闘技術を装備なしで再現することかできたので……。ツール型でも同じことができると思ったんです」
俺は防具の袖を見る。そこには欲の指輪……みたいな意匠の腕輪が、EGO防具を変形させることによって形作られていた。
薄々わかってきた。俺はEGOの適性があるわけじゃない。
侵蝕の適性があるんだ。
だって、こんなの、異常過ぎる。
……それはいい。後で考えることだ。
欲の指輪……いや腕輪に魅了されたチーフがこちらへ走ってくる。
迫ってくる旗を、避けない。異様な不快感が蓄積する中、剣の間合いまで近づく。
鎖と茨の剣で斬って、斬って、叩き斬った。向こうの掲揚も何度だってはためいて、精神的ダメージが俺にどんどん蓄積して、ガンガンと頭痛が続いてる。
でも、身体の調子は良い。
さっきの充電の効果もあるんだろうけど……この前、チーフと一緒に試練の鎮圧をしたときも似たようなことがあった。多分、チーフのEGOのどちらかが、そういう効果を持ってるんだろう。
……ただの感傷だ。本当のチーフが、背中を押してくれてるみたいだって思ってしまうのは。
攻撃の応酬を繰り返すほど、互いの攻撃は激化していく。
だんだん、チーフの表情に焦りが見えてくる。鎖と茨の剣は、チーフの体力をどんどん削っていった。
俺は大上段に剣を構える。剣を振り下ろそうと……。
「これでトド、メ……だ?」
瞬間、思考にノイズが走る。
『生きることは罪なりや?』
『苦しまなきゃ』
『罪に苦しまなければならない』
『罪を忘れてはならない。罪を忘れてはならない』
『自分の罪を思い出せ』
『最も清き場所に手を伸ばすんだ。心のままに、心で』
『あなたにすべてを捧げます』
『……神様』
「あ……」
あれ?
目の前に地面が見える。転んだらしい。
起き上がろうとするけど、身体に力が入らない。
まずい……さっきのは、侵蝕か? 鎖と茨の剣を維持するために、EGOやギフトと共鳴しすぎた……。
だめだ、このままじゃ。
「成長しましたね、アスカくん」
「あ……」
「ギリギリでしたけど……なんとか勝てました」
俺を見下ろす声が聞こえる。そして、旗がはためいた。
「じゃあ、私たちになりましょう。大丈夫、きっとあなたは、苦しみに慣れますよ」
その言葉とともに、上から風が押し寄せた。きっとチーフが掲揚を振り下ろしているんだろう。
避けるか、攻撃しなきゃいけないのに、まったく動けなかった。
くそ、クロイーを助けに来たのに、これじゃミイラ取りがミイラだ。
……けどまあ、せめてクロイーを助けられたから、いいか。
でも、俺が死んで誰かが傷ついちゃったら……その誰かには、申し訳ないな。
……目をつむる。
でも、聞こえてきたその声に、すぐ目を見開くことになった。
「……ごめんなさい、チーフ。そんな姿にさせて。一緒になれなくて」
「……え?」
逃げたはずの、クロイーの涙声が聞こえた。
思わず見上げる。
涙を流したままのクロイーが、チーフの後ろから、警棒で攻撃していた。一撃、二撃と。そのたびに顔を歪めながら。
「なっ、クロイーちゃん……!?」
だけど、チーフはクロイーに反撃できない。
『欲の指輪』。今のチーフは、俺にしか攻撃できない。
「なら、せめて……!」
チーフが急いで、掲揚を俺に振り下ろす……その前に、クロイーが警棒を、より一層力を込めて振り下ろした。
それがトドメになったんだろう。
……チーフが跡形もなく消える。
断末魔もなく、静かに。俺たちの感情を無視するかのように、消えていった。
沈黙が下りる。
「……助かった、クロイー」
「…………」
よろめきながら立ち上がった。周りにもう敵はいないけど、他の場所の鎮圧はどうなったんだろうか。
でも、いまは少し休みたい。まだ、体に力が……。
「……おっと。ありが……」
突然、クロイーが抱きついてきた。不用意に身体に触れないよう、腕を宙に浮かせる。
最初は、ふらつきかけた俺の身体を支えてくれたのかと思った。だけど至近距離に見えた、その泣き顔を見て、そういうわけじゃないって分かった。
抱きしめる力がより一層強くなる。少し痛い。しがみつくような力だった。
「ごめん、ごめんなさい……」
「……クロイー」
「ごめんなさい、ごめんなさい……ナーちゃんチーフ……うぅ、うぁあああ……!!」
咄嗟に、泣きじゃくるクロイーの背中に手を回して、抱きしめ返した。
どうか、少しでもその苦しみが和らぐようにって。
目をつむると、言葉が漏れていく。
「大丈夫、大丈夫……」
なにが大丈夫なのかも分からないのにそう言った。いつの間にか俺も、涙を流していた。
そうしてクロイーと一緒に泣いていたら、いつの間にか他の場所の鎮圧は終わって、施設には平和が戻っていた。
それでも、俺たちは泣き続けていた。