冬の遺伝子   作:NKVD秘書官

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鉛色の空

実験室の温度計は氷点下を指していた。

アレクセイの心臓も同じ温度だった。――党の命令を疑った瞬間から。

 

 

 

 

 

 

 

1962年

 

清潔に保たれた新しい研究所、その一角。

すぐ隣の部屋の気温は-20度、既に窓ガラスは氷結している。

乱雑にモノが置かれている机には少しだけスペースが残されていた。

顕微鏡などの実験道具、あと液体の入った瓶。

ルイセンコの農業政策のために作られたこの実験室に一人の男が残っていた。

 

 

いつの間にかぼさぼさになっていた頭を掻き、うめく、節約の為に弱められた暖房が憎たらしい。

顕微鏡を覗こうとすると、手の震えが止まらない。残ったウォッカの瓶を一気飲みする。

するとすぐに体が温かくなる。

 

少しすっきりとしてきた頭を左右に動かすと、実験室の中に自分しかいないことに気が付いた。視線の先のポスターと目が合う。「社会主義の勝利、豊饒な大地!」目新しくもなんともない、にこやかな農民の家族が描かれている、ただのプロパガンダポスターだ、すぐに実験を終わらせよう。

 

 

 

「駄目だ。」

つい声が出てしまった。

乾いたかすれ声は、意味を持つ単語の音声として出力できただろうか。

実験で冷凍処理した麦の細胞壁が破壊されている。

 

『ソ連の大地のどこであっても、いつであっても小麦が育成できるようになる!』とモスクワは躍起になっているが、現場は望ましくなさそうだ。

党のマニュアル通りにやっても、いつも失敗。どうやっても結果は同じさ、と机の下を見やる。

 

メンデル遺伝学のノート、表紙はレーニン全集に偽装している。

 

大学を出て、ここの研究所に配属されてから早3カ月。優秀だった学生アレクセイ――私の“実験のレポートだけ”が振るわない。

 

 

ここは1月のウクライナ・キエフ、低温の実験室は厳冬期の大地を再現する。

 

 

 

 

 

 

フルシチョフとルイセンコの肖像画――明後日の方向を向いている――が飾ってあるのは研究所、副所長室。

 

私の提出した実験結果の紙束が目の前の机にたたきつけられた。

「アレクセイ、これがお前の実験データか?」

怒りだろうか、呆れだろうか。うまく感情を読み取ることができない。

ボリス副所長の顔は普段から深くしわ――年齢と苦労の証――が刻み込まれているが、今日は一段と濃い。

 

「生存率17%低下だと?……私――いや党が求めているのは増加した報告のみだ。私たちはそれを義務付けられている。」

「しかし、事実です。小麦の遺伝子的耐性には限界があります。厳冬期に種が芽吹くことはとても考えられません。少なくとも、理論のように効率的ではありません。」

毅然と言い返す。

 

「ああ……君の父親も、その事実とやらにこだわっていた。」

疑念の感情。強い圧力を感じる。

視線、ひとつだけではなく、肖像画の二人。

視線を返せない。

 

 

椅子を引いた音だけがした。

 

「しかし、君のキャリアはまだまだ長い。ここでの“やり方”を知らないだけだった。そうだろう?」

私は理解させられるだろう。ここでのふるまい方というものを。

 

 

「姿勢が大事なのだ、報告書の中身ではなく。」と小さな声で告げられる。

 

 

 

 

 

 

 

少しの沈黙。

それは肯定と受け取られたようだった。

「では、期待している同志アレクセイよ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボリスは自身の震える手に気が付いた。

書類を机の上に無造作に落とすと、机の下で隠しながら手を握り締める。

 

ボリスに紙を握りつぶす癖がついたのはずいぶん前のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

部屋を後にする。やり方、やり方、やり方。

 

 

少しのお目こぼしと警告。副所長の言葉が反芻している。

古くから農業の実験に参加しているボリス副所長。このイデオロギーに支配された研究所で生き残るためには、彼から学ぶ必要があるのだろう。そう感じた。

 

何かがポケットから落ちた。

 

実験により奇形化した小麦の――成れの果てだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

キエフ中央駅前のスタローヴァヤ――現代でいうカフェのようなもの――の店内、ほとんどの客は分厚いコートを着用している。

駅前だけあって人は集まるはずだが、特に暖房は効いていない。

 

外は雪が積もっているが、食糧配給の列が長く続いていた。

子供を抱いた細い母親の姿が眼に映る。

 

 

 

店内では皆、おとなしく座っているが、目の前の彼女は別だった。

「この新聞を見て!」と元気な彼女の名前はエレーナ。大学時代からの付き合いだ。

 

私は見出しを見ると、『ソ連農業、史上最高の収穫高!』と大きく書かれている。新聞社名は――プラウダ(真実)……

 

「それは違うよ、少なくとも、僕の実験ではそうではないはずだ。」

にこやかな顔のまま、小声で話す。

しかし彼女は笑って遮った。

「また難しい話ね。」と続けて話す。

「でも、私は信じてる。党が間違ったことするなんて信じたくないもの。」

そう言って彼女は、髪をかきあげると、少しだけ手首の素肌が見えた。見たくなかったものも。

 

「エレーナ」つい言葉に出す。

「どうしたの」と返答。

 

一瞬迷うが問うた。

「その手首の傷は何だい?」“気づかれぬ”よう、優しい声色で聞く。

 

「これは……注射の跡、この前病院で跡をつけられたの。聞いてよ、看護師がへたくそで――」

 

――違う

 

反体制派の刻印、彼女は気づいていないだろうが、すでに監視されているかもしれない。

彼女との付き合いは長い。彼女はユダヤ人でもないし、宗教の活動家でもない。KGB――国家保安委員会もそこまで暇ではないはずだが……

 

先ほどから静かなカフェの店内、皆同じようなコートを着用しており、人が入れ替わっても、気づくすべはない。

 

とたんに食べていたコーヒーと安物のライ麦パンが一層まずくなった気がする。

 

 

視線を確かに感じる。店内だろうか、それとも窓の外だろうか。

いつも不愛想な店主をうかがう。

 

酔っぱらっている客をあしらうカウンターはいつもより客が多い。

 

 

 

 

 

 

彼女とまた次に会う約束をすると、すぐにカフェを出た。

 

彼女を監視する理由はないはずだった。あるとすれば……

 

 

 

店を出るとすぐに駅前の人混みに紛れた。

……後ろを歩く男がやけに近く感じる。この前、同僚と新型の小型マイク――盗聴器の話をしたことを思い出した。

信じたくもないが……

 

 

足元の雪を踏みしめる音がザクザクと聞こえているはずだが、やけに心臓の音が大きく、あまり耳に入らなかった。

 

 

 

 

 

キエフ中央駅の入り口、ボロ切れをまとった老人が倒れたまま放置されている。

悲惨な光景なのかもしれないが、こういった無関心はよくあることだ。

 

しかし、今日だけは他人事とは感じることができなかった。

 

思いを振り払うように歩みを速める。

未だ並んでいる食糧配給の列を見やりながら駅構内に向かう。

呆けた男が持つ配給の袋には穴が開いており、トウモロコシの粒が落ちている。

 

いつの間にか風と雪が強くなっており、すぐに電車に乗り込み、研究所に帰ることとした。

 

氷の粒と変わった雪が乱暴に電車の窓を叩いていた。

 

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