冬の遺伝子   作:NKVD秘書官

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自責

あの冬、母は寒さと空腹で眠るように動かなくなった。――私は研究者である以前に一人の市民なのだ。特別なことなど何もない。

 

 

 

 

 

 

思わぬ副産物であった。

ここ数週の間、できるだけ波風を立たないようにと行動していたが。同じキエフにあるトウモロコシの研究所へ訪れる機会が得られた。

 

ただの技術交流であったのだが、フルシチョフの肝いりで設立されていたトウモロコシの研究所は私の所属する所とは全くの別物であった。

 

 

 

 

 

研究所の入り口では、雪の中のトラクターがまるで猛獣のようにうなりを上げていた。

 

 

たくさんの機械、それも最新型のトラクターがそれこそ山のように置かれていた。

ウクライナの人民には手が届かないモノだ……

無論、大量のトウモロコシの種も。熟しきったトウモロコシも、手も付けられないままに。

……あまりの異様な多さにやや眩暈がしてくるほどだ。

 

 

しかしながら重要なのは情報であった。

清潔でひんやりとした扉のノブを回せば、すぐに私が欲していたソ連全体の農作物など食糧事情に関するデータがあった。プロパガンダではなく、ありのままの情報を見ることができたのだ。

 

 

そして私は確信に至った。この国は今にも危機的な状況に陥る、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

研究所の同僚たちと実験結果について話し合う「順調だ」と。

これは書類上だけのものにすぎない。その”順調さ”について、研究所のほとんどの人間は理解しているはずだ。無能の同期や頭の固い先輩も、耄碌した上司でさえも。

 

ここは監視されている。

 

自らの正義や科学的合理性を捨て去り、一斉に同じ鳴き声を垂れ流す。

今日も、「ええ、順調ですよ。」

 

 

 

 

研究所を出る。

巨大な建造物に付く鎌と槌が私を見下ろしている。

 

研究所の離れにある資料室に向かう。吹雪が私を襲い、その身を震わせる。

「冗談じゃない。」

長らくキエフにいるが、まるでシベリアのような寒さだった。どうやら例年とは違うらしい。

 

 

離れに到着するも、震えが止まらない。寒さのせいだろうか、いや今日はウォッカを飲んでいないからだろうか。

 

確かこちらの資料室に一人司書がいたはずだ。ウォッカ、いや毛布を貸してもらおうか。

 

 

道筋で誰かとすれ違う。

ほんの少しだけ目が合う。

 

しかし雪が白い壁のようになり、お互いの視線を断ち切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――足元に転がるのはネズミの死骸、凍りついてしまい、いつからそれを保っているのかわからない。

その不快さはさらに部屋の埃っぽさで強調される。

どこからか聞こえてくるラジオの音だけが響いている。

 

しかし探し物はしなければならない。

古い実験記録、例えば、スターリンの時代。

 

抜け出してきているため、あまり時間はない。

 

 

目についたものがあった。埃をかぶった奇妙なファイル、通常の分類とは異なり、手書きのラベルが張られてあった。

 

私はそっと棚からそのファイルを取り出す。

 

「ああ、それはもう誰も読まないものですよ。」背後から低い声がした。

 

「あなたは……」

 

「個々の資料室、いえ物置の管理を任されているドミートリーというものです。」

彼は老人であった。声ははっきりしていたが、腰は折れ曲がり、まっすぐ歩けていないようだった。

しかし、確かな知識の深みを感じる眼をしている。

「……これは?」

 

「30年代ごろのものです。」

 

――スターリンの時代、そしてルイセンコ以前のモノだ。属の留め具が緩んだ背表紙から覗く紙は黄ばみ、古いインクの匂いが鼻を突いた。

これこそ、私が欲しがっていたモノに他ならないと確信した。

 

 

「ドミートリーさん……どうか私の、世迷言を聞いてほしいのですが。」

 

声が震えていないか、自分でも分からなかった。

 

私は時間も忘れてルイセンコ農法にまつわる嘘、モスクワの論調の偏り、科学と政治の乖離について語り続けた。老人には信用に足る過去も肩書きもなかったが、黙ってこちらを見つめる眼に、ただならぬ知性があった。それが私を、語らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ずいぶん話した後、老人は答えた。

「それは禁忌だ。党の教えに背いている。」

言葉の端に氷のような硬さを感じて、息が止まりそうになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く言葉を待つ。やけに長く感じる時間。

いつの間にか、ここは完全に無音になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

視線が交差する。

 

「……私がかつて持っていなかったものを、あなたは持ち合わせている。」

続けて言う。

「私が若いころ、その口を閉ざしてしまったが、あなたは、開くことができる。」

かすかにふるえた小さな声が私の耳に届いた。

 

布に包まれた何冊かの古い学術誌と、時間を感じる手書きの実験ノートだった。インクの褪せた文字が紙を這い、余白には消されかけた走り書きが残っていた。

 

それを差し出す彼の指は、ほんの少し震えていた。

 

 

 

「早く戻りなさい。」

ハッとする。これ以上の長居は危険だ。当局の手の届かないところへこれを持ち出さなければならない。

背筋が急に冷たくなってくる。扉の向こうには“目”がある。当局の目、研究所の目。

 

 

体調不良で早退しよう。そう考えると数冊の本を服の下へ隠す。念には念を入れて背中のほうに、シャツと白衣と分厚いコートは難なくこれを隠すはずだ。そう言い聞かせる。

 

 

 

 

 

研究所の鎌と槌はまだ私を見下ろしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道が封鎖されている。

 

「市民……この先は通れない。」と赤軍の者が言う。その声に感情はなく、説明もなく、命令だけがあった。

 

 

ごくり。と自分の喉が鳴るのが聞こえた。

 

 

 

全くの偶然のはずだ。キエフ周辺はたくさんの教会が閉鎖され、治安が悪化している。私とは何ら関係のないはずだ……

 

 

 

 

現在、キエフ及びウクライナ地域では食糧不足が酷くなっている。フルシチョフの気まぐれと……農業政策の失敗により、さらに追い打ちをかけるのは近年の教会の大量閉鎖に闇市場の拡大。――この状況では反乱まがいのことが起きてもおかしくはない。

 

 

 

 

 

刻一刻と時間が過ぎる。つらく、苦しい。わずかに視線を感じる。

 

 

 

 

 

 

私は今、挙動不審ではないだろうか。顔を伝う脂汗は吹雪で見られていないはずだ。

それに、資料もしっかり隠しているはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

私はなんて愚かな行為をしようとしているのだろうか、愛する祖国にたてついているのだ。これでは私を育ててくれた両親に示しがつかない。大学に行ったのは間違いだっただろうか。私も多くの友人と一緒の専門的な学校に……

 

 

 

 

 

 

 

 

私が無神論者のためにこのような試練が舞い込んでくるのだろうか、今にも倒れそうになる。過呼吸とはこんなに苦痛なものだったのか!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は何も持ち合わせてなどいないのだ、名を何と言ったかあの老人は、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

科学は真実を語ることのできる術……私は今生きるために、それを捨てようと……

 

「協力に感謝する!市民たちよ。」大きな声が思考を割り込んだ。

 

「これよりここの封鎖は解除される!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はラジオを大音量で流した。

 

ここのフルシチョフカ――約五階建てのアパート――は特に壁が薄い。

 

玄関の鍵を確認し、古くなったカーテンをしっかりと締める、瞬間。

窓の外、カーテンの隙間からヘッドライトの光が私の眼を焼いた。

胸の奥で心臓が跳ねる。

 

私のフルシチョフカの前に黒い車が止まる、速くなる鼓動、これは掘り出し物による興奮だろうか?

それとも、この身に迫る危険からか?

すぐに机に向き直ると、実験データを書き出した。

 

私はナニカに突き動かされていた。それは使命感のような愚直で、耳障りの良いものではなく、もっと汚い執念のようなモノ。

 

 

あの車も、何も私には関係のないことだ。そうに違いないのだ。

 

付けたデータは二冊、真実と、研究所に報告するためのものだ。

 

眠りに入ったとき、天井のひび割れが今日は気にならなかった。

 

 

 

 

 

 

1人の人間が唱える真実とは、この社会にとって危険足りうるだろうか?

ハンガリーは身をもって体験したばかりだ。

 

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