冬の遺伝子   作:NKVD秘書官

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ロストフ反乱

科学者としての責任と祖国への愛。

 

 

 

 

 

 

目覚めると、外にあった車はすでになかった。

私の思い込みに過ぎなかったのだろう。

 

しかし、私は監視対象となっていても既におかしくはないだろう。そういう行動をとってきた……

 

 

 

ふと考え込む。

彼女――エレーナの手首にあったものは烙印ではなく、むしろKGB――監視者の証なのではないだろうか?

 

 

 

 

 

何の根拠もない思考か……

識別印ではなく、ただ注射痕であることを今は信じるしかない。

 

いや、違うと信ずる根拠はどこにあるのだろうか……

 

 

 

 

 

 

 

 

考えるのを無理やり中断すると職場へ出発した。

 

私の部屋の外壁に、いつからか新しい傷のような線が走っている。誰かが見ていた気配が、消えきらない。

 

 

 

 

社会にはびこる閉塞感を、ついに私も感じるようになってきた。

いつもはアパートと職場の往復だけ、そんな私にもその感情が到来してしまった。

 

同僚とすれ違うが、目も合わない。

にわかに感じ取っている。

 

実験場の寒さも体に堪える。

部屋のざらついたドアノブが私の手から体温を奪った。

 

誰かが私の机に報告書を置いていった。文書には一切余白がなかった。言葉も、余地も、なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

新たな研究を始めることにする。老人の実験データでは少しばかり不十分であったからだ。

 

……しかし私がこれを進めれば、どんな運命が待ち受けているのか、考えたくはない。

 

もう後には戻れなかった。

 

 

 

 

 

メンデルの法則に基づいた交配実験……

劣性遺伝子の振る舞い、分離比、独立の法則。受け取った論文とノートの内容は、目の前の作物の中で驚くほど正確に再現されていく。

ルイセンコ農法ではありえないはずの特定の形質の再発、超世代の遺伝子の継承。

実験を進めていくごとに鼓動が高鳴る。

 

この実験が真に国のためになるとそう思い込んだ。市民は救済され、モスクワも態度を改めてくれると、そう信じた。

 

 

 

 

 

新たな実験から数週間が過ぎた。

私の畑で育てている麦は相も変わらずに不作だった。しかし秘密裏に進める実験の鉢植えは青々とした新芽が力強く伸びている。

これまで私の信じていた世界は、偽りでしかなかったのだ。

この実験結果こそがそれを証明している。

 

しかし、ルイセンコ農法は単なる科学的な失敗ではない。党の正当性と権威に不可分に結びついてしまっている。既にフルシチョフが政権の基盤を盤石にしてから4年もたってしまっている。

スターリン時代から続くこのルイセンコ農法――絶対的な教義はたとえ国のトップであろうと覆せるものではないだろう。

 

すなわち真実を語ることは、国家に対する反逆そのものであり……

 

怖気づいてしまう。

 

私は

 

どうすればいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事の重大さを私は分かったつもりでいながら、理解することを拒んでいた。

 

理解すれば、動けなくなるから。

 

 

 

 

 

62年6月

 

 

何かが迫っている気がして眠れなくなった日々が続いていた。夜明け前のラジオに、明らかに“編集された”沈黙が挿まれている。それが今、破られた。ロストフ――そう聞こえた瞬間、心臓が跳ねた。

 

もはや一刻の猶予もない。

 

反乱だ、反乱がおきたのだ。このソ連の大地において。

モスクワは頑なに口を閉ざすだろうが人の口に戸は立てられぬ。

 

駅の待合室では、誰も新聞を読んでいなかった。というより、新聞の棚は空だった。ロストフの名前は、誰も口にしていない。

 

 

デモか、ストライキか、分からないが、始まってしまった。

例年より長く続いた厳冬期は間違いなく作物の生産を阻害するだろう。

既に起きている食糧不足はさらにひっ迫したものとなり、ウクライナやその他諸民族は飢えさせられる……レニングラードやモスクワのために、捨てられるのだろう。

 

少なくとも第1次5か年計画の時はそうだった。

ソ連への不信は大戦の後に臨界に達していた。私が生まれて間もないころ、その憎しみは少なくともウクライナの自治共和国内で最も普遍なものだった。

 

 

現在、食肉の価格は高騰を続けている。穀物もそれに続くだろう。

 

――市場の肉屋では、値札が午前中に三度書き直された。それでも列は途切れなかった。老人が若者にぶつかっても、どちらも謝らない。怒らない。ただ沈黙が続くだけ。

 

 

キエフからモスクワへ、止めることができるのは私だけだと。警鐘を鳴らすことができれば。

研究所が、科学者が見て見ぬふりを続けていた真実を、伝えることができるならば。

 

駅前の掲示板には昨夜まで貼られていた新聞記事がすべて剥がされていた。代わりに紙屑のようなビラが散らばっていたが、誰一人それに触れようとはしなかった。

 

 

 

何か、伝えることのできる場所。

 

……例えば、党大会。ここソ連国内で最も影響力のある者たちの集まり。そこで発言できれば、フルシチョフは考えを改めるかもしれない、わずかな可能性が。真実を知らされていないだけかもしれない、可能性が。

もしくは、有力な政治家たるブルガーニンやモロトフ、ブレジネフに接近することができれば。

 

 

 

 

 

……私一人の命など――それは、もう問題ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エレーナは来なかった。

駅前のスタローヴァヤに。

 

この前まで、何でもなかった場所が、キエフが、霧に包まれている。

「見えていないのは私だけか……」

 

 

 

 

 

 

私はすぐに行動した。すでに同僚との仲は冷え切っていおり、会話はなかったが、運よく彼らの噂話を耳にすることができた。

来月の学術審査会には党中央の科学顧問らが列席予定、という情報。

 

公式での発表枠、逃さない手はない。

 

私はボリス副所長の元へ行き、請願した。

 

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