全ては無駄であった。あらゆる犠牲も、あらゆる労苦も無駄だった。
広々とした会場は高級そうな赤い絨毯が敷かれており、天井から吊るされた照明は、私がよく知る実験室の物より強く、地面に影を落としていた。
目の前に居座るふてぶてしい表情を浮かべる党の科学顧問らはその鋭い眼光で私を射抜いていた。
目の前の台には長々とした原稿が置かれている。
内容は、見るまでもなかった。党本部の農業政策の成功を賛美し、ルイセンコ農法はソ連を飛躍的に進化させるとも、すぐにでも西側諸国の生産性を追い抜くとでも書いてあるだろう。
必要はない。
一度、深呼吸をし、唇を濡らす。
「私の名前はアレクセイ。キエフの穀物研究所から参りました。」
科学顧問らの中に知っている顔はない。
「私はソ連の農業科学にこの身を捧げてきましたが、同志ルイセンコの見過ごすことのできない、恐ろしい真実に直面いたしました。」
反応を待たず、間髪入れずに続ける。
「どうか、この報告書をご覧ください。」と言った瞬間、どこかで紙がめくれる音がした。誰もが視線を落としたが、誰一人、まっすぐ見返してはこなかった。
影の揺らぎを感じて、自分の手が震えていることに気が付く。
強い照明の中で、顧問の一人が眉を顰めるのがわかる。
「一番上のグラフをご覧ください。毎年公式で発表されるこの数値には大きな誤りがあります。現実の数値では―――――」
私の声すらも耳に届かない。心臓が跳ねる。
「私の実験データでも、同じような結果が出ております。」
適度に調整されたはずの温度が、とても熱く感じてくる。
「―――――結果、私たちの現在推し進める農法では、大地を死に至らしめているだけなのです。」
重い沈黙が流れている。
いや、私だけの所為ではなかった。
慌てて聴衆の何人かと顧問の一人が退出した。
ニキータ・フルシチョフ――最高指導者がこちらを見やっていた。
会場に赤い絨毯を踏みしめる音だけが響く、フルシチョフは中央の椅子――私の向かいに腰かけると、私に促した。「続けたまえ。」
またとない機会だ。せいぜい党幹部の一人が出てくれば良いと思っていたが。
戦間期にフルシチョフはキエフで政治活動を行っていたが、その縁だろうか。まさに奇跡的で、運命を変えられる。そう思った。
彼の表情は微笑とも無表情ともつかず、まるで聖者の仮面だった。私はそれに希望を見た。今なら、届く。そう信じた。
実験の結果を諳んじる。
「―――――遺伝子の存在を否定し、環境が生物の特性を決めるという理論は、科学的な根拠を一切持ち合わせていません。メンデルの遺伝法則こそが、生命の心理を証明しています。劣性遺伝子の振る舞い、品種改良の予測可能な結果……これらの実験結果はすべて!ルイセンコ理論では説明が付きません!」
気が付くとフルシチョフの横には技術顧問のボスたるブレジネフが座っており、彼の顔をうかがっていた。
重い沈黙が降りている。
フルシチョフはただ私の言葉を聞いている。
「……これは、党の農業政策の失敗ではありません。党の幻想の結果です。」
割り込まれる。
「アレクセイ……同志、それは党そのものを否定する発言だ。」
「それでも、作物は枯れて、土地は死んだ。」
「ならばその現実が間違っているのだ。西側のスパイめ!」
「ほかの報告では、ルイセンコ農法は成功続きだ。」
「実験者が資本主義者で農家が富農だからこのような結果が出るのだ。」
「ウクライナの民族主義者の戯言だろう。」
「反党、反革命的だ。」
「土地が資本主義的だったのだろう。しかし同志ルイセンコの名誉を棄損している。」
「KGBはこいつをマークしてたのか?」
「キレンスクにでも流刑にすべきだろう。」
「ルイセンコ農法は20年以上前からある非常に革命的な理論だ。間違えるはずがない!」
「同志アレクセイ」
フルシチョフの声がすべてを遮った。
顧問たちは汗を流し、無言で困惑している。
「……はい。」
上ずった声が出る。
更に続けてフルシチョフ
「あなたの研究記録を提出していただきたい。これが終わり次第、モスクワの党本部に郵送してください。」
救われていた。今まで苦しんだ分、悩んだ分、流した汗の分。
「……!もちろんです。」
「それにあなたの実験に関わった全ての人間の情報も書いてください。これはソ連の農業、いやソ連国家の救済となるかもしれません。これは偉大な功績だ。」
今やすべての労苦は報われたのだ。あの老人の分まで。重苦しかった空気は払しょくされ、天井の照明は今や私を大いに祝福していた。
沈黙を破り、ブレジネフが口を開く。
「同志アレクセイ、表に車を手配しています。それに乗って研究所に向かい。記録を今すぐまとめてきてください。」
私はそれに従い、会場を出る。
扉を閉じた瞬間、背中を撫でるような涼風が過ぎ、ここ数年で1番の開放的な気分になる。
外では、相変わらず食糧配給の列は途切れていなかったが、これも数年以内には解決するはずだ、キエフだけではない、ソ連の勢力圏から飢餓を消滅させることすら可能かもしれない。
そう、自分の手で終わらせられるかもしれない、という確信が芽生えていた。
それは奇跡に似ていた。
フルシチョフ、ブレジネフ、そして党本部。私の言葉が届いた。研究が認められた。それだけではない。祖国の未来が、私の手の中にある。
その夜、書類をまとめて提出すると、研究所の外にまだ車が残っていた。
「フルシチョフ第一書記より、自宅まで丁重に護送せよとのことです。」
その言葉が、まるで褒美のように響いた。目に見えぬ勲章を与えられたような、胸の奥がふわりと熱くなるような――そんな感覚だった。
車に乗り込むと、窓から見えるキエフの街は、いつもと同じはずなのに眩しく映った。
夕陽に染まり始めた建物の輪郭が揺らぎ、反射した赤みを帯びた光がまるで祝福するように街を包んでいた。
キエフ郊外にある研究所から、自宅へと車が走る。
わずかな暑さを感じる。夏の到来を予感させる暑さだ。市内中心部を通り、街を縦断するドニエプル川が見えてきた。遠い記憶――母の姿を思い出す。今はもうない家族の姿が克明に浮かび上がる。クリミアにあるダーチャ――別荘で過ごした夏のひと時を、風光明媚な黒海の沿岸都市……
今、私の内側には確かな手応えがある。
それは論文でも数値でもない、国家を動かす力の手触りだった。
私は窓の外の沈もうとする夕陽に微笑みかけた。
照明よりも優しい自然の光が、私を包んでいた。
しばらくすると車のライトが付いた。後部座席からでも感じられる眩しさ、光が前方の道路を切り裂いた。
感じたことのある光の感触。
自宅へ向かうには迂回しすぎだった。
橋の真ん中で車は止まってしまった。
人通りは……感じられない。
「なぜ私は疑うことを止めたのだ。」
隣に座っていた護衛に席を無理やり降ろされた。
先ほどまで頼もしかった赤軍の兵士は、偽装したKGBであった。
鉛玉が撃ち込まれる。
次に感じたのは、水の感触。
どうやら川に投げ捨てられたらしい。
ウクライナを東西に分断する大河川は、私を水面に持ち上げることも、救うこともしてくれないらしい。
水面に沈む間際、クリミアの海辺が見えた気がした。母の声、日差し、笑い声。どれも届くはずのない場所だった。私が救おうとしたものは、誰にも届かなかったのだ。
全ては無駄だった。真実も、義務も、自罰の念でさえも、その全てが無駄だったらしい。
また訪れることが叶うだろうか……クリミア、セヴァストポリ、ヤルタ――私の思い出に。
この国の土よりも深く、私は今、沈んでいる。芽吹くことは、決してない。