椿鬼の提案が実行に移されてから、アトライエ王国の財政は目に見えて改善された。魔道具職人たちは税負担から解放され、生産意欲を取り戻し、良質な魔導具が市場にあふれ始めた。それに伴い、城下で商いを営む人々も活気づき、王都全体が以前にも増して賑わいを見せるようになった。
この功績により、椿鬼は国王アルフォンスから、ある特別な許可を得た。
「エリック、あの娘の功績は確かに見事だった。よって、身分を隠すならば、お前と共に城下を散策することを特別に許可する。ただし、決して騒動を起こすでないぞ。」
国王の言葉は厳しかったが、その瞳にはわずかながら椿鬼への評価が宿っていた。
そしてある晴れた日、エリックと椿鬼は、お忍びで王城を抜け出した。椿鬼は、目立たないようにフード付きのマントを深く被り、角を隠した。隣を歩くエリックも、貴族の正装ではなく、動きやすいシンプルな服を身につけている。
「椿鬼、城下へようこそ。君と二人でこうして歩ける日が来るなんて、夢のようだ。」
エリックは、嬉しそうに椿鬼の手を握った。その温かさに、椿鬼の胸は高鳴る。
「ありがとうございます、エリック様。まさか、こうして皆さんの生活をじっくり見ることができるなんて……」
椿鬼の紅い瞳は、好奇心に満ちていた。里にいた頃は、外界の様子を書物で知るだけだった。しかし、今、目の前には、活気に満ちた城下町の光景が広がっている。
通りには、焼きたてのパンの香りが漂い、仕立て屋の前では美しい布が風になびいていた。露店には色とりどりの果物や、見たこともない玩具が並んでいる。椿鬼は、その全てが新鮮で、目を輝かせながら周りを見渡した。
「あれは……何でしょう?」
椿鬼が指差したのは、小さな店先に飾られた、動物の形をした焼き菓子だった。
「あれは『獣のクッキー』だ。子供たちに人気のお菓子だよ。買ってみようか?」
エリックはそう言って、クッキーをいくつか買ってくれた。ほんのり甘いクッキーの味は、椿鬼の心をさらに満たした。
「エリック様!見てください、あの子たち!」
椿鬼が指差す先には、数人の子供たちが楽しそうに追いかけっこをしていた。その無邪気な笑い声は、椿鬼の心を温かくする。里では、常に角を隠し、誰とも遊べなかった。しかし、ここでは、誰もが何の憂いもなく笑い、楽しんでいる。
「君の提案のおかげで、この町はさらに活気づいた。皆がこうして笑顔でいられるのは、君の知恵のおかげなんだ。」
エリックは、椿鬼の頭を優しく撫でた。
「私……そんなつもりでは……」
「いいや、違う。君が、私に、そしてこの王国に、新しい希望をもたらしてくれたんだ。」
エリックの言葉は、椿鬼の心を深く温めた。誰からも必要とされなかった自分が、今、この場所で、誰かの役に立っている。その事実が、椿鬼にとっては何よりも嬉しかった。
しかし、その幸せな時間の裏では、不穏な計画が着々と進められていた。
アトライエ王城の一室、第一王子パトリックの私室では、冷たい空気が支配していた。彼は、憎々しげな表情で机の上に置かれた一枚の絵姿を睨みつけていた。それは、エリックと椿鬼が城下を散策している様子を描いたものだった。
「ちっ……あの忌み子が、父上に取り入って、城下を歩き回る許可まで得たか……!」
パトリックは、怒りに震える拳を握りしめた。椿鬼の功績が認められることは、パトリックにとって屈辱以外の何物でもなかった。彼女の存在は、自身の地位を脅かすだけでなく、エリックの理想を正当化する存在となりうる。
それは、彼の信念が最も許せないことだった。
「このままではいかん。あの忌み子とエリックの繋がりを、力ずくで断ち切る必要がある……!」
パトリックはそう決意すると、密かに呼び出しておいた密偵に、鋭い視線を向けた。
「計画の準備は整ったか?」
「は、はい、王子殿下。すでに密偵を鬼族の里へと送り込みました。あとは、王子殿下のご指示次第でございます。」
密偵は、恭しく頭を下げて答えた。
パトリックの計画は、鬼族の里に送り込んだ密偵に、わざと椿鬼が人間族の王城で「捕虜」となっているという情報を流させ、鬼族を動かすよう仕向ける、というものだった。
「鬼族は、鬼族の姫が人質に取られたと知れば、必ず動く。おそらく、精鋭を引き連れて姫の奪還に来るだろう。和平などという偽善的な理想を唱えるエリックは、鬼族との戦いを前にして、自分の甘さを知るだろう。」
パトリックは、冷酷な笑みを浮かべた。
「そして、鬼族共があの忌み子を連れていけば、エリックから引き離すことができる……。」
彼にとって、椿鬼は最初から「客」ですらなかった。ただの「鬼族」。そして、エリックの理想を砕くための、都合の良い「駒」に過ぎなかった。
城下での幸せな散策も知らず、椿鬼とエリックの運命は、パトリックの冷酷な陰謀によって、再び暗雲に覆われようとしていた。