パトリックの陰謀は、着々と進行していた。鬼族の里に送り込まれた密偵は、巧みに「椿鬼が人間族に捕らわれ、人質となっている」という情報を流した。この情報は、彼らの誇りを著しく傷つけた。
「あの忌々しいカタヅノめが、今度は人間族に利用されるとは!鬼族全体の恥だ!」
父である暁鬼は、怒りに震え、その鋭い牙を剥き出しにした。しかし、彼らが椿鬼を助けようとする理由は、憐憫や愛情ではなかった。
「椿鬼が人間に捕らわれたままでは、里の秘密をすべて漏らす可能性がある。奴らが椿鬼を尋問すれば、我々の情報が露呈してしまうだろう。」
母である霜月鬼は、冷徹な目で状況を分析した。
「……ならば、奪い返すまでだ。そして、鬼族の手で始末をつける。そうすれば、我らの情報が漏れることもない。」
兄である錦鬼が、憎悪のこもった声で言った。
こうして、体裁としては「捉えられた鬼族の姫を奪還する」という大義名分のもと、暁鬼を総大将とした鬼族の精鋭部隊が、アトライエ王城へと向かうことになった。彼らにとって、椿鬼はただの道具であり、情報漏洩を防ぐための邪魔な存在に過ぎなかった。
その日の午後、王城に警報が鳴り響いた。鬼族の襲来だった。
「エリック様!大変です、鬼族が……!」
報告に来た騎士は、血だらけで息も絶え絶えだった。椿鬼は、エリックの隣で庭園にいた。2人で過ごす大切な時間。しかし、その穏やかな時間は、唐突に終わりを迎えた。鬼達の足音だろうか。地響きのような音が響き、騎士達の悲鳴が聞こえる。
「椿鬼、私の後ろに!」
エリックは、素早く椿鬼を庇うように立ち、腰に差していた剣に手をかけた。
鬼族の部隊は、王城の兵を易々と蹴散らし、まるで嵐のように城内へと侵入してきた。その先頭に立っていたのは、一際巨大な体躯を持つ男、暁鬼だった。鋭い二本の角と、全身に刻まれた強靭な筋肉が、彼が鬼族の長であることを示していた。その手には、巨大な金棒と、禍々しい輝きを放つ匕首が握られている。
「おお、我が娘よ。このような場所で捕えられているとは可哀想に。さあ、今すぐ里に帰ろう。」
「暁鬼か……!」
エリックは、その巨漢を睨みつけ、椿鬼を背中に隠した。
「ほう、俺の名を知っているとはな。そして、お前がエリック=アトライルか。知っているぞ、この国の第二王子だな。我が娘を捕らえ、王城に閉じ込めていたとは、許せんな。万死に値する。」
暁鬼の声は、重く、低く響いた。その言葉は、まるで自分が娘を奪還しに来た慈悲深い父親であるかのような、演技じみたものだった。
「あなたの娘……? 鬼族の里で、彼女を迫害し、追放したのは、あなた方だろう! どの口がそんなことを言う!」
エリックは、怒りを露わにした。その言葉に、暁鬼は面白そうに嗤った。
「愚かな人間め。一族の恥を始末しようとしただけのこと。だが、お前がその娘を甘やかしたおかげで、里の秘密が漏れる危険がある。だから、引き取りに来たのだ。さあ、娘を渡せ。」
「渡すものか! 彼女は、お前たちのような冷酷な者たちから、私が守る!」
エリックは、剣を抜き、椿鬼を守るようにして暁鬼に立ちはだかった。
「ならば、力づくで奪うまでだ!」
暁鬼が咆哮する。筋肉が隆起し、衝撃で地面が揺れた。彼は金棒を振りかざし、巨体とは思えない速度で、エリックへと襲い掛かる。
エリックは、得意とする風魔法を剣に纏わせ、一瞬で暁鬼の懐に潜り込んだ。風の刃が、暁鬼の巨体に幾筋もの傷をつける。しかし、暁鬼は痛がる様子もなく、その強靭な肉体で剣戟を受け止める。
「速いな。軽すぎるわ、人間よ!」
暁鬼は、金棒であしらうようにしてエリックの剣を受け止めると、もう片方の手に持った匕首を繰り出した。鋭い刃が、エリックの胸を狙う。
エリックは、間一髪で身をかわしたが、腕をかすめられ、鮮血が飛び散った。
「エリック様……!」
椿鬼は、その光景に悲鳴を上げた。エリックは、椿鬼に被害が及ばないよう、風魔法を巧みに操り、攻撃を逸らそうとする。しかし、暁鬼の力は圧倒的だった。力任せの金棒の一撃は、風魔法すらもねじ伏せるほどの威力を持つ。さらに、匕首を使った予測不可能な攻撃に、エリックは次第に押され気味になっていく。
「くっ……!」
エリックは、暁鬼の猛攻をしのぎながら、必死に体勢を立て直そうとするが、当代最強と称される鬼の力は、彼の想像をはるかに超えていた。エリックが傷をつけても浅く、即座に再生してしまい、逆にエリックが受ける傷は蓄積されてゆく。
「どうした、人間! その程度か!」
暁鬼は、勝利を確信したかのように嗤い、金棒を高く掲げた。その一撃が放たれれば、エリックはただでは済まない。
「やめて……!」
椿鬼は、エリックを助けたい一心で、叫んだ。その時だった。
椿鬼の体から、紅い光が溢れ出した。それはまるで、彼女の髪先に残る紅色が、全身から吹き出したかのような、温かく、そして力強い光だった。
光は、エリックに向かって降り注ぎ、彼の全身を包み込んだ。
「これは……?」
エリックは、自分の体に漲る尋常ではない力に驚愕した。腕の傷は一瞬で塞がり、剣がまるで体の一部のように軽く感じる。風魔法の威力が、格段に向上していた。そう、まるで、鬼のような身体能力を得たかのように……。
(この力は、一体……!?)
驚きに満ちた表情のまま、エリックは金棒を振り下ろそうとする暁鬼に向かって、一気に距離を詰めた。
「なっ!?」
暁鬼は、エリックの速度と力が増していることに気づき、驚きに目を見開いた。
エリックは、強化された風魔法を剣に集中させ、暁鬼の金棒にぶつけた。これまで押され気味だった剣撃が、今度は暁鬼の金棒を弾き飛ばした。
「あり得ぬ! 人間ごときが、この私と対等に渡り合うなど!」
暁鬼が驚愕に叫ぶ中、エリックは風魔法を纏ったまま、一気に畳み掛けた。風の刃が嵐のように吹き荒れ、暁鬼の巨体を切り裂く。
そして、最後の一撃。エリックが全身の力を込めて振るった剣が、暁鬼の強靭な胸に、深い傷をつけた。
「ぐっ……馬鹿な……私が、人間に……!」
暁鬼は、信じられないというように、自分の胸の深い斬撃の跡を見つめた。その巨体が、ゆっくりと、しかし確実に傾いでいく。
総大将である暁鬼が倒れたことで、鬼族の部隊は戦意を失い、暁鬼を担いで次々と撤退していった。
「……ちっ、覚えていろ、人間め……!」
鬼族たちは、捨て台詞を残して、蜘蛛の子を散らすように森の奥へと逃げ去っていった。
その様子を、王城の影から隠れて見ていた男がいた。第一王子パトリックだ。
彼は、鬼族が優勢だった当初、冷酷な笑みを浮かべていた。
「やはり、鬼族は野蛮にして強大。エリックの思想など、幻想に等しいものだな。」
しかし、椿鬼の赤い光によってエリックが逆転すると、彼の顔から笑みが消え、徐々に表情を歪めていった。「一体、あの光はなんだ……? なぜエリックに、あんな力が……?」
悔しさと、理解できない状況への苛立ちが、彼の心を支配していた。
戦闘が終わり、エリックは安堵の息を吐き、剣を下ろした。そして、後ろを振り返り、椿鬼に優しい笑みを向けた。
「椿鬼、無事だったか……? 大丈夫だ、もう……」
しかし、彼の言葉は途中で途切れた。椿鬼は、先ほどまでの強い意志を宿した表情ではなく、疲労困憊の様子で、膝から崩れ落ちようとしていた。
「つ、椿鬼……?」
エリックが駆け寄り、その体を抱き留めると、椿鬼の意識は途絶えた。その体からは、先ほどまで溢れていた紅い光が、もう跡形もなく消えていた。