意識が途絶えた椿鬼は、深い闇の中を漂っていた。次に目覚めた時、彼女の身に何が起きるのか、果たして生きていられるのか、そんな不安だけが胸を支配していた。
その頃、アトライエ王国の第二王子、エリック=アトライルは、自らが率いる騎士団と共に森の巡回に出ていた。金色の髪が月光にきらめき、碧い瞳は夜の森の奥深くまで見通すかのようだ。彼は騎士団の中でも一際優れた剣の腕を持ち、その統率力は誰もが認めるところだった。しかし、彼が最も際立っていたのは、その思想だった。「各種族が対立する世界など、ばかげている」――それが彼の揺るぎない信念だった。
「王子、この辺りで本日の野営地にしましょうか。」
騎士の一人が声をかけた、その時だった。エリックの視線が、ふと森の奥、木々の根元に倒れている小さな影を捉えた。
「待て。あれは……何だ?」
エリックは馬を降り、影の元へと駆け寄った。かがみ込み、そっと影に触れる。それは、ひどく痩せ細った、まるで雪のように白い髪の少女だった。額には、一本の角。そして、もう片方には痛々しい瘤が残されている。
「……鬼族、か」
エリックは静かに呟いた。その顔に、嫌悪の色は一切ない。
「王子!まさか、鬼族など助けるおつもりでは!?」
背後から、騎士団長の声が響いた。彼の声には、明確な警戒と嫌悪が滲んでいる。
「そうです、王子!鬼族は我らの敵。こんなもの、見殺しにした方が国のためです!」
別の騎士も続いた。彼らの言葉は、まさに長年にわたる鬼族との対立の歴史から生まれた、人間族の根深い偏見そのものだった。
しかし、エリックは彼らの言葉に一切耳を貸さなかった。彼の碧い瞳は、ただ倒れている少女――椿鬼の弱々しい呼吸を見つめている。
「見殺しにしろ、だと? 愚かなことを言うな。苦しんでいる者を前にして、見捨てることなど、私にはできん」
エリックはきっぱりと言い放った。彼の声には、いかなる迷いもなかった。
「それに、彼女は衰弱している。我らの敵であるかどうかは、その後で判断すればいいことだ」
エリックは、躊躇うことなく椿鬼の細い体に腕を回し、優しく抱き上げた。華奢で、驚くほど軽い。まるで、折れてしまいそうなほど儚いその体を、彼はそっと自分の腕の中に収めた。
「今夜は、近くの別荘で休む予定だったな。目的地を変更する。すぐに屋敷へ戻るぞ」
そう指示すると、エリックは椿鬼を抱えたまま自身の馬に跨った。騎士たちは不満そうに顔を見合わせたが、王子の命令に逆らうことはできない。彼らは渋々ながらも、エリックの後に続いた。
静かな夜の森を抜け、一行は王家の所有する小さな別荘に到着した。エリックは椿鬼を貴賓室へと運び込んで、べっ丼横たえさせた。
「女性の使用人を数名、部屋へ向かわせろ。この嬢の体を拭い、清潔な寝間着に着替えさせ、温かくしてやるように」
テキパキと指示を出すエリックの声に、使用人たちは慌ただしく動き出した。大きな暖炉にはすぐに火がくべられ、部屋全体がじんわりと温まっていく。エリックは、椿鬼が手当てを受けている間も、ベッドの隣で静かに彼女が目を覚ますのを待った。
どれくらいの時間が経っただろうか。
薄く開いた椿鬼の目に、最初に映ったのは、金色に輝く髪と、深く澄んだ碧い瞳を持つ、見知らぬ男の顔だった。
(人間……!?)
瞬間、椿鬼の心臓は激しく跳ね上がった。鬼族にとって、人間は敵。そして、自分はチカラもない「カタヅノ」の身。見知らぬ人間に捕らえられたのか? この男は、自分をどうするつもりなのだろう? そんな恐怖が、津波のように椿鬼の胸に押し寄せた。
彼女の体が、微かに震える。
エリックは、椿鬼が目を覚ましたことに気づくと、優しい声で語りかけた。
「気分はどうだい? 大丈夫か?」
その声は、森で絶望に打ちひしがれていた椿鬼が、最後に聞いたであろう怒声や冷たい言葉とはまるで違う。温かく、穏やかで、まるで春の陽光のようだった。
椿鬼は、恐る恐るエリックの顔を見上げた。彼の碧い瞳には、一切の悪意や嫌悪の色が見えない。ただ、純粋な心配と優しさが宿っている。
「あ……え……?」
掠れた声しか出なかった。全身の力が抜け、ただただ彼の瞳を見つめる。
エリックは、椿鬼の震えに気づくと、そっと彼女の手を握った。その手は大きく、温かい。
「君は森で倒れていたんだ。私がここに運び込んだ。もう大丈夫だ。ここは安全だよ。」
彼は、安心させるように微笑んだ。その笑顔は、椿鬼がこれまで一度も向けられたことのない、心からの優しさに満ちていた。
(安全……? 人間なのに……?)
椿鬼の心に渦巻いていた恐怖が、彼の温かい手と優しい声によって、少しずつ、まるで氷が溶けるように薄れていくのを感じた。この男は、自分を傷つけるつもりはない。そう直感した。
「君の名前は? どこから来たんだ?」
エリックの問いかけに、椿鬼はまだ完全に声が出せない。それでも、彼の優しさが、彼女の心をほんの少しだけ溶かしていった。
椿鬼は、乾いた喉からようやく声を絞り出した。
「わ、私……は、椿鬼……です……」
消え入りそうな声だった。
「椿鬼。いい名前だ。私はエリック=アトライル。このアトライエ王国の第二王子だ。」
エリックは、自らの身分を明かした。普通の鬼族であれば、人間、それも王族と聞けば、さらに怯え、逃げ出そうとするだろう。しかし、椿鬼はただ、碧い瞳を見つめ返していた。そこには、わずかな動揺と、それ以上の困惑が混じり合っていた。
エリックは、椿鬼の様子から、彼女が極度の疲労と精神的ショックを受けていることを察した。すぐに本題に入るのは酷だろう。
「無理に話さなくてもいい。ゆっくり休んで、体が回復してからでも構わない。」
彼の気遣いに、椿鬼の肩の力が少し抜ける。
「ありがとう……ございます……」
その日は、椿鬼はほとんど眠り続けた。時折、うなされるように身震いしたが、エリックは彼女のそばを離れなかった。暖かい部屋と、見知らぬ人間の王子の優しい気配が、椿鬼にとっては何よりの薬だった。
翌朝、目を覚ました椿鬼は、昨日よりもいくらか血色の良い顔をしていた。疲労はまだ残るものの、意識ははっきりしている。
エリックは、彼女の目覚めに気づくと、すぐに温かいスープを運ばせた。
「少しでも食べられるかい?」
香りの良いスープを一口含むと、温かさが体にじんわりと染み渡る。椿鬼はゆっくりとそれを飲み干した。
「椿鬼。気分が良くなったなら、君がどうしてあの森で倒れていたのか、話してくれないか?」
エリックの問いに、椿鬼は息を呑んだ。話すべきか、話さないべきか。しかし、この男に嘘をついても仕方がない。彼は人間だが、自分を助けてくれた恩人だ。
椿鬼は、ぽつりぽつりと話し始めた。鬼族の里のこと、自分が「カタヅノ」として迫害されてきたこと、婚約者がいたこと、そして婚約破棄されて両親と兄、使用人たちに冷たく突き放され、里を追放されたこと。
話し終えた時、椿鬼の目からは再び大粒の涙が溢れ落ちた。悔しさ、悲しさ、そして何よりも深い絶望が、涙と共に溢れ出る。
「私は……私は、もう、どこにも行く場所がありません……。里も、家族も、私を捨てました……っ」
エリックは、黙って椿鬼の話を聞いていた。彼の碧い瞳は、一瞬たりとも椿鬼から逸れることはなかった。涙を流す椿鬼を見て、彼の表情は深く、痛みに満ちたものになった。
話が途切れると、彼はそっと椿鬼の震える手を再び握り、優しく親指で甲を撫でた。
「辛かっただろう。よく話してくれた。」
彼の声は、これ以上ないほど温かかった。
「君の苦しみ、私には想像することしかできない。しかし、君は何も悪いことなどしていない。ただ、生まれてきただけだ。それを理由に誰かを排斥するなど……あってはならないことだ」
エリックの言葉は、椿鬼の心に深く響いた。誰からも否定され、責められてきた「カタヅノ」という自分の存在を、この人間は否定しない。それどころか、「悪いことなどしていない」と言ってくれた。
エリックは、椿鬼の目を見つめ、まっすぐに言葉を続けた。
「君は今、行く場所がないと言ったね。ならば……」
彼の言葉に、椿鬼の胸がわずかに高鳴る。
「もし、君が望むなら……私と共に、生きてみないか?」
「え……?」
椿鬼の紅い瞳が、大きく見開かれた。
「君はもう、里に戻る必要はない。そして、君を傷つける者から、私が守る。私の城には、君の居場所がある。偏見を持つ者もいるかもしれないが、私が必ず、君を守り抜く」
エリックの言葉には、確固たる決意が宿っていた。それは、何の打算もない、純粋な優しさと、一目惚れした女性への深い愛情から来るものだった。
「鬼族と人間族は敵対している。だが、私にとって君は、助けるべき存在であり、守りたい存在だ。種族など関係ない。君の意思を尊重する。無理強いはしないが……私のそばにいれば、君をもう、孤独にはしない」
エリックの言葉は、これまで椿鬼が経験してきたすべての冷酷さと正反対だった。捨てられた自分を、この人間は「守る」と言ってくれる。居場所を失った自分に、「共に生きよう」と言ってくれる。
彼の碧い瞳は、どこまでも澄んでいて、椿鬼を真っ直ぐに見つめ返している。そこには、偽りのかけらもない。
椿鬼は、まだ震える手でエリックの温かい手を握り返した。
「私よ……本当に……?」
掠れた声で問いかける。
「ああ。私が保証する」
エリックは、慈しむように椿鬼の髪を撫でた。
その温かさに、椿鬼の心に、これまで感じたことのない温かな光が灯った。長い間凍てついていた心が、ゆっくりと、しかし確かに溶け始めていくのを感じた。
はい、人間族側の王子、「エリック」が今作のヒーローです
椿鬼に一目惚れしちゃうんですねぇ………