馬車は、王都へ続く道を滑るように進んでいた。乗り心地の良いその揺れに、椿鬼は少しずつ緊張を解いていた。
窓の外に広がる景色は、彼女の故郷である鬼族の里とはあまりにも異なっていた。石造りの家々が立ち並び、遠くには大きな建物群が見える。鬼族の里では見たことのない、きらびやかな馬車が行き交い、行き交う人々は皆、色鮮やかな衣服を身につけていた。
(これが、人間の国……)
椿鬼は、窓から身を乗り出すようにして外を見たかったが、人々に「カタヅノ」の姿を見られてしまうことを恐れた。頭巾で右の額は隠しているものの、白髪に紅い瞳という特徴は隠せない。鬼族であると知られれば、どんな反応をされるか分からなかった。不安と好奇心の狭間で、椿鬼はこっそりと、しかし熱心に外の景色を目で追った。
エリックは、そんな椿鬼の様子に気づくと、優しい笑みを浮かべた。
「外の景色に興味があるかい?」
彼の問いかけに、椿鬼は小さく頷いた。
「はい……鬼族の里とは、全く違うので……」
「そうだろうな。鬼族の文化は、我々人間族とは大きく異なる。何か、気になるものがあったら、遠慮なく尋ねてくれ。」
エリックはそう言って、窓の外を指差した。
「あれは、この国の主要な輸出品である魔導具を扱う商店街だ。夜になると、魔石の灯りが美しく輝く。」
「魔導具……?」
「ああ。我々人間族は、魔法を生活に取り入れている。照明から、物を運ぶ道具、暖を取るためのものまで、様々だ。」
エリックは、次々と窓の外を流れる景色について説明してくれた。大きな石造りの建物は「ギルド」と呼ばれる商人の組合の建物だとか、中央にそびえ立つ尖塔は「魔術師学院」だとか。彼は、椿鬼の瞳が興味深げに動くのを見るたびに、楽しそうに解説を続けた。その声は、聞いているだけで心地よかった。
「あそこにいるのは、貴族の子供たちだね。きっと、これから家庭教師の元へ向かうのだろう。」
エリックが指差す先には、洒落た服を着た子供たちが並んで歩いているのが見えた。彼らは楽しそうに笑い合い、何気ない日常を過ごしている。
(私には……こんな幼い頃は、なかった……)
椿鬼の胸に、一瞬だけ寂しさがよぎった。鬼族の里では、常に角のことを気にし、周囲の冷たい視線に怯えていた。こんな風に、何の憂いもなく笑うことなど、決してできなかった。
エリックは、そんな椿鬼のわずかな翳(かげ)りを感じ取ったのか、そっと彼女の手を握った。
「大丈夫だ、椿鬼。これからは、君もここで、君らしく生きていける。」
彼の温かい手と、力強い言葉に、椿鬼は安堵したように息を吐いた。
やがて、馬車は王都の中心部へと差し掛かった。そこには、壮麗な石造りの城がそびえ立っていた。まさに、絵本に出てくるような、威厳と美しさを兼ね備えた建物だ。
「あれが、アトライエ王城だ。」
エリックの言葉に、椿鬼は息を呑んだ。こんなにも大きく、立派な建物を見るのは初めてだった。
「ここで、暮らすことに……なるのですね……。」
「ああ。だが、まずは少しだけ、ここから離れた場所で待っていてほしい。」
エリックはそう言うと、馬車を城の裏手にある小さな道へと進ませた。そして、城の敷地の端に立つ、こぢんまりとした小屋の前で馬車を止めた。
「ここだ。一旦ここで待っていてほしい。信頼できる騎士を二人、護衛につける。」
「エリック様……?」
椿鬼が不安げに尋ねると、エリックは彼女の手を握り、真剣な眼差しで言った。
「君を、いきなり王城の中へ連れて行くことはできない。父上や兄上、そして他の貴族たちが、君の存在をすんなりとは受け入れないだろうからな。だが、心配はいらない。私が必ず、君を迎えに行く。」
小屋の前には、エリックの護衛を務める、信頼できる騎士が二人立っていた。彼らはエリックの指示に頷き、小屋の扉を開けた。
「少しの間だけ、我慢してほしい。すぐに戻る。」
エリックはそう言って、椿鬼を小屋の中へと促した。小屋の中は質素だったが、清潔で、小さなベッドとテーブルが置かれていた。椿鬼は、エリックの言葉を信じ、そっと小屋の中へと入った。
エリックは、椿鬼の安全を騎士に任せると、すぐに王城の中へと足を進めた。彼の向かう先は、母である王妃イザベラの私室だった。
王妃の部屋は、豪華な調度品で飾られ、落ち着いた雰囲気に包まれていた。イザベラは、エリックの訪問に優雅な笑みを浮かべた。
「エリック。どうしたの、こんな時間に。」
エリックは、躊躇うことなく本題に入った。
「母上。実は、先日、森で一人の娘を保護しました。彼女は……鬼族の娘です。」
イザベラは、その言葉にわずかに目を見開いたが、すぐに表情を取り繕った。
「鬼族、ですって? それは……どういうことかしら。」
エリックは、椿鬼が「カタヅノ」として里を追放されたこと、彼女がいかに苦しんできたか、そして自分が彼女を助け、共に生きることを望んでいることを、包み隠さず話した。
イザベラの顔には、徐々に厳しい色が浮かんでいく。
「エリック! あなたは、また無謀なことを! 鬼族との間に、どれほどの因縁があると思っているの!? あなた自身の身も危うくなるわ。ましてや、彼女が鬼族の姫だというのなら……」
王妃の言葉には、エリックへの深い愛情と、王家を巡る現実的な危険性に対する懸念が混じり合っていた。彼女はエリックの理想を理解しつつも、その危うさを誰よりも知っているのだ。
「母上。彼女は弱く、何の罪もありません。私が見捨てることなどできなかった。それに、彼女は、私が目指す和平の象徴となりうる存在です。」
エリックは、まっすぐな瞳で母を見つめた。
イザベラは深くため息をついた。
「……あなたの考えは理解できるわ。そして、あなたの優しさも。しかし、父上や兄上が、彼女の存在を簡単に認めるはずがない。王城の中は、あなたの想像以上に複雑な場所よ。」
それでも、イザベラの瞳の奥には、息子への信頼と、彼の理想を完全に否定しない心が宿っていた。
「……分かったわ。彼女を、王城の、あなたの部屋の隣にある空き部屋に使わせなさい。そこならば、人目も避けやすいでしょう。ただし、彼女の素性は、決して他の者には漏らしてはならない。特に、父上と兄上には。私とアメリア、ローラン、セシリア……そして、信頼できる一部の使用人だけが知っていれば十分よ。」
王妃の言葉に、エリックの顔に安堵の表情が浮かんだ。
「ありがとうございます、母上! 必ず、彼女の安全をお約束します。」
「無茶ばかりしないでちょうだい。全く、あなたにはいつも心配させられるわ。」
イザベラはそう言って、わずかに微笑んだ。その表情には、息子の行動に対する諦めと、深い愛情が混じり合っていた。
エリックは、すぐに小屋へと戻った。小屋の扉を開けると、椿鬼が不安そうにこちらを見ていた。
「椿鬼。話が済んだ。これからは、私の部屋の隣で暮らしてくれる。」
エリックの言葉に、椿鬼の顔に安堵の表情が広がる。
「本当に……? 私のような者が、王城に……?」
「ああ。もう、誰も君を傷つけることはない。さあ、行こう。」
エリックは、椿鬼の手を優しく引いた。その温かい手に導かれ、椿鬼は、初めて王城の広大な内部へと足を踏み入れた。廊下は石造りで、壁には豪華なタペストリーが飾られている。磨き上げられた床には、彼女の足音が静かに響いた。
そして、たどり着いた部屋は、これまで椿鬼が暮らしてきた屋敷とは比べ物にならないほど、広々としていて豪華だった。天蓋付きのベッド、大きな暖炉、そして窓からは美しい庭園が見える。
「ここが、君の部屋だ。何か必要なものがあれば、いつでも私に言ってくれ。」
エリックの言葉に、椿鬼はまるで夢でも見ているかのように、部屋の中を見回した。
「私……本当に、ここにいてもいいのでしょうか……?」
不安げに問いかける椿鬼に、エリックは優しく微笑んだ。
「ああ。君が望む限り、ここが君の居場所だ。」
彼は、椿鬼の頬に手を添え、そっと唇を寄せた。
「おかえり、椿鬼。」
その言葉と優しいキスに、椿鬼の心は、温かい光で満たされた。
その頃、深い森に囲まれた鬼族の里では、一人の姫の失踪が、静かな波紋を広げ始めていた。
当代最強の力を持つ鬼族の長、暁鬼の屋敷は重々しい空気に包まれていた。
「やはり、あの忌々しい『カタヅノ』め! 里にこれ以上置けば、さらなる不名誉を招くところだったわ!」
暁鬼の怒声が響く中、妻である霜月鬼が、冷静な声で夫を諫めた。
「暁鬼様、感情的になるのはお止めください。問題は、あの娘がどこへ消えたかです。もし、人間の手に落ちてでもいれば……。」
霜月鬼の言葉に、暁鬼の表情はさらに険しくなる。
「人間だと!? あの弱々しい『カタヅノ』が、人間の手にかかればひとたまりもないだろう。もとより、その程度の価値しか持たぬ娘だ。」
しかし、彼の心には、決して表には出さない、わずかな不安がよぎっていた。万が一、鬼族の姫が人間の捕虜にでもなれば、それは里全体の威厳に関わる問題となる。
兄である錦鬼は、黙って両親のやり取りを聞いていた。彼は、父・暁鬼の強さを誰よりも尊敬し、自身もその道を歩むべく日々鍛錬を積んでいた。妹である椿鬼の「カタヅノ」という欠陥は、彼にとって常に目障りな存在だった。
(あの女が、里から消えたことは、むしろ好都合だ。これで、父上の跡を継ぐ上で、余計な障壁は消えた。)
錦鬼は内心でそう考えていたが、同時に、もし椿鬼が人間族に捕らえられたり、里の秘密を漏らしたりすれば、それが一族の未来にどのような影響を与えるかを危惧していた。
「父上、母上。念のため、里の境界線を見回らせるべきかと存じます。万一、人間族が里の近くまで偵察に来ていたとすれば……」
錦鬼は、冷静な提案をした。
暁鬼は腕を組み、重々しく頷いた。
「うむ……それもそうだな。念のため、周囲の警戒を強化せよ。あの『カタヅノ』めが、どこかで息絶えているのなら、それで良い。だが、もし生きているとすれば、決して里の情報を漏らさせてはならぬ。」
彼の言葉には、椿鬼への情けは一片もなく、ただ鬼族の存続と、己の権威を守ろうとする冷酷な意志だけがあった。
里の者たちも、椿鬼の失踪を噂し合っていた。
「やっぱりね。あの『カタヅノ』の姫様は、『カタヅノ』だったんだよ。いなくなってくれてよかったな。」
「これで里も清々するってもんだ。忌み子がいては、神様もお怒りになる。」
そんな心ない言葉が、里のあちこちで囁かれていた。椿鬼を悼む者など、誰一人としていなかった。
彼らにとって、椿鬼の存在は既に過去のものとなりつつあった。