エリックの部屋の隣に用意された一室は、椿鬼がこれまでの人生で見たこともないほど豪華な場所だった。ふかふかの天蓋付きのベッド、暖かく燃える暖炉、そして窓から見える美しい庭園。鬼族の里の、質素でどこか暗い自室とは比べ物にならない。
「何か、必要なものはないか? 遠慮なく言ってくれ。この部屋は今日から君の部屋だ。」
エリックはそう言って、椿鬼の肩に手を置いた。その手は温かく、椿鬼の不安を少しずつ溶かしていく。
「いえ……こんなに立派な部屋、私には勿体ないほどです……。ありがとうございます、エリック様。」
椿鬼は、まだ慣れないながらも、精一杯の感謝を口にした。
「勿体ないことなどない。君は姫だ。それに……」
エリックは、柔らかな笑みを浮かべ、椿鬼の白い髪に触れた。
「君に、ふさわしい場所だ。」
その言葉に、椿鬼の頬がじんわりと熱くなる。彼の優しさに触れるたび、凍てついていた心が解けていくような感覚に、椿鬼は戸惑いながらも、どこか心地よさを感じていた。
エリックは、椿鬼が落ち着けるように、必要なものを用意させたり、城の生活に慣れるための手助けをしたりと、細やかな気遣いを欠かさなかった。食事は部屋まで運ばれ、椿鬼の好みに合わせて調理されていた。彼女が体を休めている間、エリックは執務をこなし、時折顔を出しては椿鬼の体調を気遣った。
「椿鬼、何か不便なことはないか? 城の者たちが失礼な真似をしていないか?」
ある日の午後、エリックが部屋を訪れたとき、椿鬼は窓から庭を眺めていた。
「いいえ、皆さんとても親切にしてくださいます。ただ……」
椿鬼は、小さく息を吐いた。
「……こんな風に、私が人間に囲まれて過ごしているなんて、鬼の里の皆が知ったら、きっと……」
言いかけて、椿鬼は言葉を詰まらせた。里での冷たい視線や、蔑みの言葉が脳裏をよぎる。
エリックは、そんな椿鬼の不安に気づくと、そっと彼女の隣に立つ。
「大丈夫だ。君が鬼族の姫であることは、母上と私、そして姉と弟妹しか知らない。城の他の者には、深く追及されないよう、私が指示してある。」
エリックは、椿鬼の細い肩を抱き寄せた。
「ここは安全だ。君はもう、怯える必要はない。私が、君を守る。」
エリックの父であるアルフォンス国王や兄の第一王子が公務で王城を不在にしている日を見計らい、エリックは椿鬼を連れて庭園へと足を踏み入れた。
広大な庭園は、鬼族の里の自然とは異なる、手入れの行き届いた美しさに満ちていた。色とりどりの花々が咲き誇り、甘い香りが風に乗って運ばれてくる。見たこともない鮮やかな花弁、複雑な形をした葉、そして、里の森では決して見られなかった、背の高い異国の木々が空に向かって伸びていた。
「わぁ……!」
椿鬼は、思わず小さく声を上げた。その紅い瞳は、好奇心で大きく輝いている。今まで、醜い角を隠し、人目を避けるように生きてきた彼女にとって、これほど開放的で美しい景色は初めてだった。
「この花は『星の涙』というんだ。夜になると、花びらに露が宿って、まるで星がこぼれ落ちたように見える。」
エリックは、椿鬼の隣に立ち、優しく説明してくれた。椿鬼は、エリックが指差す花にそっと触れてみる。柔らかく、しっとりとした感触に、感動の息を漏らした。
庭園の奥には、小さな噴水があり、水が心地よい音を立てていた。その周りには、珍しい虫たちが飛び交っている。里で見かける虫たちとは違う、きらきらと光る羽を持つチョウや、色鮮やかなカブトムシ。椿鬼は、一つ一つの発見に、まるで幼い子供のように目を輝かせた。
「エリック様、見てください! この虫は、まるで宝石のようです……!」
椿鬼が指差す先には、青と緑のメタリックな光沢を放つ小さな甲虫がいた。彼女の表情は、心底楽しそうで、里を追われる前の、いつも怯えていた頃の椿鬼からは想像もつかないほど、生き生きとしていた。
エリックは、そんな椿鬼の姿を、ただただ愛おしそうに見つめていた。彼女の喜びが、そのまま自分の喜びになるような気がした。
「ああ、それは『碧玉虫(へきぎょくむし)』と言って、この国では幸せを呼ぶ虫とされているんだ。」
エリックは、椿鬼の頭巾がずれないよう、そっと手を添えながら答えた。彼にとって、椿鬼の瞳に宿る輝きこそが、何よりも尊い宝物だった。
庭園の散策は、椿鬼にとって、まるで夢のような時間だった。エリックがそばにいてくれる安心感と、初めて触れる外界の美しさが、彼女の心を癒し、新しい世界へと開いていく。
「もっと……もっと、見てみたいです……!」
椿鬼は、そう言ってエリックの服の袖をそっと掴んだ。その小さな手の仕草に、エリックの胸はきゅうと締め付けられる。
「いくらでも付き合おう。君が見たいものを、全て見せてあげたい。」
エリックは、椿鬼の手を優しく握り、彼女のペースに合わせて庭園の奥へと進んでいった。二人の間に流れる時間は、穏やかで、優しさに満ちていた。
無邪気な訪問者たち
庭園での散策が許されるようになり、椿鬼の王城での生活は少しずつ彩りを増していった。しかし、エリックが執務で不在の時には、やはり部屋で過ごす時間が長かった。そんな椿鬼の部屋を、よく訪れる者たちがいた。エリックの弟、第三王子ローランと、妹の第二王女セシリアだった。
ある日の午後、椿鬼が窓辺で書物を読んでいると、コンコン、と控えめなノックの音がした。
「椿鬼様、セシリアです! 入ってもよろしいですか?」
無邪気なセシリアの声に、椿鬼は「どうぞ」と答えた。扉が開き、元気いっぱいのセシリアと、彼女の影に隠れるようにローランが顔を覗かせた。
「こんにちは、椿鬼様! 今日もエリック兄様はお忙しいのでしょう?」
セシリアは、駆け寄るように部屋に入ってくると、椿鬼のすぐそばに座った。ローランは少し離れた場所で、遠慮がちに立っている。
「ええ、今日はまだ戻られていません。ローラン様も、ようこそいらっしゃいました。」
椿鬼は、二人を優しく迎えた。
「兄上はいつも忙しいんだ。だから、僕たちが椿鬼様のお相手をしようと思って。」
ローランが、はにかむように言った。
「そうよ! 椿鬼様、今日は何をして遊ぶ? 私、この間、庭でとっても綺麗な石を見つけたの! 見てくれる?」
セシリアは、興奮した様子で掌(てのひら)に握っていた、キラキラと輝く小石を椿鬼に見せた。それは、透明感のある淡い紫色の石で、光に当たると幻想的に輝いた。
「わぁ……本当に綺麗ね。里では、こんな石は見たことがないわ。」
椿鬼は、セシリアの手のひらから石をそっと受け取り、じっと見つめた。
「でしょう? これ、妖精の涙っていうんだって! エリック兄様が教えてくれたの。」
「妖精……?」
椿鬼の故郷には、妖精という概念はなかった。鬼族の伝承に出てくるのは、力の強い神や、恐ろしい妖(あやかし)ばかりだ。
「そうよ! 森の奥には、小さくてとっても可愛い妖精さんがいるのよ。今度、一緒に探しに行かない?」
セシリアの言葉に、椿鬼は苦笑した。
「ふふ……それは、少し難しいかもしれないわね。」
王城から外に出ることは、まだ簡単にはできない。ましてや、鬼族と人間の間で妖精探しなど、想像もつかなかった。
「椿鬼様は、何かお話を聞かせてくれることはありませんか? 鬼族の里の、珍しいお話とか!」
ローランが、身を乗り出すように尋ねた。彼は、兄と同じく、他種族の文化に強い関心を持っているようだった。
椿鬼は、少し考え込んだ。里での出来事は、辛い記憶ばかりだ。しかし、彼らは、好奇心と純粋な笑顔で自分を見てくれている。
「鬼族の里では……年に一度、『豊穣の祭り』というものがあるの。里中の鬼たちが集まって、大きな火を焚き、太鼓を叩いて歌い踊るのよ。とても賑やかで……」
椿鬼は、祭りの様子を話しながら、少しだけ懐かしい気持ちになった。そこには、彼女自身の辛い記憶ではなく、里全体の活気があった。
「へぇー! 楽しそう!」「私も見てみたい!」
ローランとセシリアは、目を輝かせ、もっと話を聞かせてほしいとねだった。椿鬼は、二人の無邪気な反応に、自然と笑みがこぼれた。
それからというもの、ローランとセシリアは、時間を見つけては椿鬼の部屋を訪れるようになった。庭で摘んできた花を見せたり、城で流行している遊びを教えたり、逆に椿鬼から鬼族の昔話をねだったり。
セシリアは、椿鬼の白い髪を「お月様みたいに綺麗!」と言って褒め、一本の角にも純粋な興味を示した。ローランは、椿鬼が鬼族の姫でありながら病弱であることを知ると、「僕と一緒に鍛えよう?」と、幼いながらも真剣に心配してくれた。二人の無垢な優しさに、椿鬼の心は温かくなった。