椿鬼が王城での生活に慣れ始めた頃、エリックは彼女を母である王妃イザベラに正式に引き合わせる機会を設けた。すでにイザベラは椿鬼の存在と素性を知っていたが、改めて王妃として椿鬼と向き合うことで、彼女の真意と、エリックの決意を測ろうとしていた。
ある晴れた午後、椿鬼はエリックと共に王妃の私室へと向かった。部屋に入る前、エリックが椿鬼の手をそっと握った。
「大丈夫だ。母上は君の味方だ。だが、王妃として、君の出自についていくつか尋ねるだろう。正直に話して構わない。」
彼の優しい言葉に、椿鬼は小さく頷き、深呼吸をした。
扉が開き、部屋の中へと足を踏み入れる。豪華な調度品に囲まれた部屋の中央には、優雅な椅子に腰掛けたイザベラ王妃の姿があった。彼女の瞳は、エリックと同じ碧色だが、その奥には王妃としての威厳と、深い知性が宿っている。
「母上。椿鬼を連れて参りました。」
エリックが恭しく頭を下げると、椿鬼も彼に倣って深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります。椿鬼と申します。」
イザベラは、椿鬼をじっと見つめ、その細い体と、隠された右の額に視線を向けた。
「顔を上げなさい、椿鬼。噂に聞いていた通り、儚い美しさを持つ娘ね。」
その声は、冷たいわけではなかったが、感情が読み取れない。椿鬼は、ゆっくりと顔を上げた。イザベラの碧い瞳が、椿鬼の紅い瞳を真っ直ぐに見つめ返す。その視線に、椿鬼は思わず息を詰めた。
「エリックから、あなたの出自については聞いているわ。鬼族の姫でありながら、『カタヅノ』ゆえに里を追われたと。」
イザベラの言葉は、椿鬼の最も触れられたくない過去に容赦なく踏み込んだ。椿鬼の体が、わずかに震える。
「はい……その、通りでございます……。」
「ほう。鬼族の姫が、我ら人間族の王城に匿われるとは、皮肉なものね。あなたの里は、長きにわたり我ら人間族を敵と見なしてきた。あなたは、その事実をどう思っているのかしら?」
イザベラの問いは、椿鬼の忠誠心を試すようなものだった。
椿鬼は、俯きそうになる顔を懸命に上げた。
「私を……里から追放したのは、他ならぬ鬼族です。人間族の皆様は、私に何の害も与えていません。むしろ……エリック様が、私を救ってくださいました。」
椿鬼の言葉は、震えていたものの、強い意思が込められていた。
イザベラは、その言葉に微かに眉を上げた。
「なるほど。では、もし里の者が、あなたを連れ戻しに来たとしたら、どうするつもり?」
鋭い問いかけに、椿鬼は息を呑んだ。里に戻りたいかと問われれば、答えは「否」だ。しかし、一族を完全に否定することも、椿鬼にはできなかった。
エリックが、椿鬼の隣で口を開こうとしたが、椿鬼はそっと彼の手を握り、首を横に振った。自分で答えるべきだと思った。
「……私は、二度とあの里には戻りたくありません。私を捨てた場所に、未練などございません。」
椿鬼の声は、はっきりとしていた。その瞳には、かつての絶望と、新しい場所で生きたいという強い願望が宿っている。
「そして、もし里の者が、エリック様やこの城に危害を加えるのであれば……その時は、私自身も、貴方様と共に戦う覚悟でございます。」
椿鬼の言葉に、エリックの顔に驚きと、深い感動の表情が浮かんだ。
イザベラは、じっと椿鬼を見つめたまま、しばらく沈黙した。部屋には、暖炉の火が燃える音だけが響いている。
やがて、イザベラの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「……面白い娘ね。エリックがあなたに心を奪われたのも、無理はないかもしれないわ。」
その言葉は、冷たさを含んでいなかった。むしろ、わずかながら、椿鬼への理解と、そして諦めにも似た感情が滲んでいた。
「鬼族の姫が、人間の王子の傍にいる。それは、この王宮において、大きな波紋を呼ぶでしょう。父上や他の貴族たちが、あなたを受け入れることは決して容易ではない。あなた自身も、常に細心の注意を払い、決して素性を悟られてはならない。」
イザベラの言葉は、椿鬼に今後の困難を暗示していた。
「しかし、エリックがこれほどまでにあなたを守ろうとすること。そして、あなた自身にも、それだけの覚悟があるのなら……私は、彼を止めることはしないわ。」
イザベラはそう言うと、エリックに視線を向けた。
「エリック。彼女はあなたにとって、どのような存在なのかしら? ただの一時の感情では済まされないことを、分かっているでしょうね?」
エリックは、椿鬼の手を強く握りしめ、母の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「はい、母上。椿鬼は、私にとってかけがえのない存在です。私の命に代えても守り、愛し抜くと誓います。」
彼の言葉は、迷いなく、そして真剣だった。
イザベラは、二人の様子を満足そうに見ていた。
「そう。ならば良いわ。この城において、彼女の安全は私が保証しましょう。ただし、くれぐれも無茶なことはしないように。あなた自身の身も案じているのよ。」
その言葉には、王妃としての厳しい現実と、息子を思う母の優しさが混じり合っていた。
「ありがとうございます、母上。」
エリックは、心から感謝の意を示した。椿鬼もまた、安堵の息を吐き、改めてイザベラに深々と頭を下げた。
「王妃様、この度の御配慮、心より感謝申し上げます。」
イザベラは、その礼儀正しい態度に、再び小さく頷いた。
「精々、エリックの隣で、このアトライエ王国に新しい風を吹き込むといいわ。……ただし、くれぐれも、目立ちすぎないようにね。」