王族会議の一件以来、椿鬼は以前よりもずっと気兼ねなく王城内を歩き回れるようになった。アルフォンス国王の言葉は厳しかったものの、それは王族としての公的な宣言であり、実際には椿鬼の自由をある程度認めるものだった。もちろん、彼女が「人質」であることに変わりはないが、エリックの隣で王城に滞在できるという事実が、椿鬼にとっては何よりも大切だった。
そして、ただエリックの庇護のもとにいるだけでなく、自分も何かの役に立ちたい、と椿鬼は強く思うようになっていた。まずは身近なところから、と彼女が思いついたのは、エリックの食事のことだった。
ある日、エリックとの他愛ない会話の中で、椿鬼は彼が訓練に熱中すると、食事を摂るのを忘れがちだという話を聞いた。
「訓練中は、集中してしまって、どうしても時間の感覚が麻痺するんだ。気づけば日が暮れていたり、腹の虫が鳴りっぱなしだったりしてね。」
エリックは苦笑しながら話したが、椿鬼はその言葉に胸を痛めた。彼が健康でいてくれなければ、自分を守り、理想を追い求めることなどできない。
「エリック様……もしよろしければ、私が、お昼ご飯をお作りしてもよろしいでしょうか?」
椿鬼は、おずおおずと尋ねた。エリックは驚いたように目を見開いた。
「君が? 食事をかい?」
「はい。里にいた頃は、あまり得意ではなかったのですが、簡単なものなら……」
実際、鬼族の里での生活は過酷で、椿鬼が満足に料理を学ぶ機会などほとんどなかった。しかし、エリックのために何かしたい、という気持ちが彼女を突き動かした。
エリックは、椿鬼の申し出に顔を輝かせた。
「それは嬉しい! 君の手料理か……想像するだけで、力が湧いてくるようだ。」
彼の心からの笑顔に、椿鬼の胸は温かくなった。
翌日、椿鬼は厨房へと向かった。厨房は、王城の中でも特に活気のある場所だ。湯気が立ち込め、香ばしい匂いが漂い、料理人や使用人たちが忙しなく動き回っている。
椿鬼は、厨房責任者らしき初老の女性に、意を決して話しかけた。
「あの、申し訳ありません。エリック様の食事をお作りしたいのですが……厨房を使わせていただくことはできますでしょうか?」
女性は、椿鬼の姿に一瞬驚いた顔をしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。王妃イザベラから、椿鬼への配慮を命じられているため、彼女の存在は把握されていたのだ。
「あら、まあ! 王子様のお食事ですか。もちろんでございます、椿鬼様。ご遠慮なくお使いください。何かお手伝いできることがあれば、何なりとお申し付けくださいませ。」
温かい言葉に、椿鬼はほっと胸を撫で下ろした。
厨房の片隅を借りて、椿鬼は慣れない手つきで料理を始めた。エリックが食べやすいように、具材を小さく刻み、栄養バランスも考慮する。失敗を重ねながらも、真心込めて作ったのは、鶏肉と野菜を煮込んだ温かいスープと、香りの良いパン、そして簡単なサラダだった。素朴な料理だったが、一つ一つに椿鬼の優しい気持ちが込められている。
出来上がった料理を小さなバケットに詰めると、椿鬼はそれを手に、エリックが訓練をしているという騎士団の練兵場へと向かった。
練兵場は、王城から少し離れた場所に位置していた。開けた広場には、大勢の騎士たちが集まり、剣を交える音や、指示を出す声が響き渡っている。その中心で、一際目を引くのは、金髪をなびかせ、精悍な顔つきで剣を振るうエリックの姿だった。彼は汗を光らせながらも、その動きは洗練されており、他の騎士たちを圧倒する迫力があった。
(すごい……)
椿鬼は、思わず立ち止まって、その光景に見入ってしまった。エリックは、ただ優しいだけの王子ではない。国を守るために、自ら剣を取り、体を張って訓練に励む、力強く、そして凛々しい王子の姿がそこにあった。彼の背中には、この国を守るという強い使命感が見て取れた。
椿鬼は、周りの騎士たちに気づかれないよう、訓練場の片隅で物陰に隠れ、エリックの訓練をそっと見学した。彼の剣筋は鋭く、一撃一撃に重みが感じられる。その力強い姿に、椿鬼の胸は高鳴った。
やがて、訓練の区切りがついたのだろうか。騎士たちが一斉に動きを止め、汗を拭い始めた。エリックもまた、剣を下ろし、大きく息を吐いた。彼の顔には疲労の色が浮かんでいる。
その時だ。エリックが、ふと椿鬼のいる方向を見た。彼は椿鬼の存在に気づくと、ハッとしたように目を見開き、そして、その顔に満面の笑みを浮かべた。彼の碧い瞳が、椿鬼だけを捉え、まっすぐにこちらへと向かってくる。
「椿鬼! なぜここに?」
エリックは、剣を携えたまま駆け寄ってきた。その顔には汗が滲んでいるが、喜びの色がはっきりと見て取れる。
「エリック様……その、お昼ご飯を、お持ちしました。」
椿鬼は、持っていたバケットを差し出しながら、少し恥ずかしそうに言った。
「私、貴方様が訓練に夢中になると、食事を忘れてしまうと聞いたので……。」
エリックは、差し出されたバケットを見て、信じられないというように目を丸くした。
「君が、私のために……?」
そして、彼の顔に、この上ない幸福な笑みが広がった。
「ありがとう、椿鬼! 君がこんなことをしてくれるとは……これほど嬉しいことはない!」
彼は、その場で剣を地面に立てかけ、椿鬼からバケットを受け取った。そして、周りの騎士たちの視線も気にせず、彼女の手を優しく握りしめた。
「ちょうど腹が減っていたんだ。さあ、一緒に食べよう!」
エリックは、椿鬼の手を引くと、訓練場の片隅にある大きな木陰へと向かった。他の騎士たちは、王子の意外な行動に驚きつつも、どこか微笑ましそうに彼らを見ていた。彼らにとって、エリック王子がこれほどまでに感情を露わにする姿は珍しかったのだ。
木陰に腰を下ろすと、エリックはバケットの蓋を開けた。中からは、温かいスープの香りがふわりと立ち上る。
「これは……鶏肉と野菜のスープか。それに、パンとサラダまで。」
エリックは、湯気の立つスープを一口飲むと、その碧い瞳を大きく見開いた。
「美味い! これは、本当に君が作ったのか、椿鬼?」
彼の言葉に、椿鬼は顔を赤らめた。
「はい……あまり得意ではないのですが……。」
「とんでもない! とても温かくて、体が温まる。味付けも優しい。」
エリックは、心底感動したように、次々とスープを口に運んだ。そして、パンをスープに浸して食べる姿は、王族のそれとは思えないほど無邪気だった。
「いつも、訓練後の食事は、乾パンや干し肉と味気ないものだったんだ。だが、君が作ってくれたこの料理は……まるで、君の優しさそのものみたいだ。」
彼はそう言って、椿鬼に優しい視線を向けた。その瞳は、愛情に満ち満ちている。
椿鬼は、エリックが自分の作った料理を心から喜んでくれている様子を見て、胸が熱くなった。鬼族の里にいた頃は、何をしても誰からも認められず、存在を否定されてきた。しかし、この人間は、こんなにも自分の小さな行動を喜んでくれる。
「エリック様が、元気でいてくだされば……それで、私は嬉しいです。」
椿鬼は、差し出されたパンを小さくちぎりながら、はにかんで答えた。
「君は本当に優しいな、椿鬼。君といると、どんな疲れも吹き飛んでしまうようだ。」
エリックは、そう言いながら、満足げにスープを飲み干した。そして、バケットの中に残ったパンやサラダも綺麗に平らげると、空になったバケットをそっと椿鬼に返した。
「ごちそうさま。最高に美味しかった。ありがとう、椿鬼。」
彼は、椿鬼の手を再び握りしめ、感謝の気持ちを伝えるように、その甲にそっと唇を寄せた。その優しい触れ合いに、椿鬼の頬はさらに赤く染まる。
「エリック様……。」
「君は本当に、私の『お守り』のようだ。君がそばにいてくれるだけで、私は何でも乗り越えられる気がする。」
彼の言葉は、椿鬼にとって、何よりも大きな喜びだった。
鬼族の里で、誰からも必要とされなかった自分が、この王城で、たった一人の人間の王子に、これほどまでに求められている。
この温かい気持ちを、いつまでも守っていたい。そのためなら、どんな困難も乗り越えていこう。
椿鬼は、エリックの隣で、そう心に誓ったのだった。