堰界忘失古伝 アマラーヴァティ 〜もしLB4が前後二部構成だったら〜   作:ladybug

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今、きみによむ物語

 

 ただ広く真白き雪原に惑う影が二つ。

 

 一人は女。褐色の肌と黄金の髪、蠱惑的な肢体に竜の尾を持つ女。

 彼女は血反吐を吐き、幾度も倒れ伏しながら前に進む。

 もう一人は男。暗色の肌に白銀の髪、鍛え上げられた身体の男。

 もはや虫の息となって意識も失い、ただ女の腕に抱えられるまま無力に引き摺られていた。

 

 両者ともかつての容色など跡形もなく、纏う衣とて襤褸同然。夥しい傷痕から零れ落ちる赤だけが血化粧となり、互いの身体を飾り立てている。

 

 一歩、また一歩。

 足取りは鉛よりなお重く、それに反して血を失い続ける身体は軽くなっていた。

 

 降り積もる雪に足を取られ、女は堪らず倒れ込んだ。呻きを噛み殺し血塊を吐きながらも、腕の中の男を離さないようにと手に力を込める。

 震える足を殴りつけて立ち上がった彼女は、歯の隙間から溢れる血を拭い、男を抱え直した。

 

「────許さぬ」

 

 地の底から響くような声。柔い女の身体から溢れたとは思えないほど暗く重い声。

 女の呟きを受け止める者はおらず、白雪に飲み込まれた音は何の痕跡も残さない。

 それでも女の唇は言の葉を紡ぐ。

 

「こんな形での終着(結末)は許さぬ」

 

 女の視線は腕の中の男へと注がれていた。

 

「……否、どんな形であれ許しはせん」

 

 失望、憤怒、焦燥。様々な感情が彼女の中で煮えたぎり、金色の瞳に光を灯す。

 

 既に力の多くは失われた。

 喰われ、飲まれ、奪われた。

 この世界において二人の存在には意味も価値もなく、全ては忘れ去られ、もはや彼らを追う者はない。

 

 それでも、彼女は奮起する。

 

終着(おわり)など許してなるものか」

 

 そう。それこそが理由。

 それこそが彼女の彼女たる証。

 

 呟きを落とし、女はただ一歩を踏み出した。

 

 

    ◇

 

 

『実数空間にアンカー固定。実数証明完了』

 

 激しい振動と衝撃を乗り越え、シャドウ・ボーダーが実数空間に帰港する。

 成功のアナウンスに安堵の吐息を溢す者、緊張に冷えた身体を摩る者。乗組員の反応は様々だ。

 虚数潜航にも慣れを感じていたはずの少女は、しかし、自身の手のひらを眺めて首を傾げた。

 

「ご無事ですか、マスター」

「うん、私は大丈夫」

 

 マシュの呼びかけに笑顔で応えたものの、やはり何かが引っかかっている。

 問題はない。不調もない。

 ただ微かな違和感があった。

 たとえるならば、大樹の陰に入ったような心地良さ。あるいは、緩やかな流砂に足を踏み入れてしまったような寒々しさ。薄皮一枚を経て肌を撫でる両価の感覚に混乱する。

 

「ふうん、リツカは勘が鋭いんだね」

 

 違和感を拭えないままに少女が頭を振ると、今回初同行となるキャプテンが呟いた。

 

 ところで、妙な感覚というのはバカにできないものだ。直感とはこれまでの経験が教えてくれるアラートに他ならないのだから。

 正直、原因はさっぱりなのだが。

 

 違和感については追々考える方がいい。

 現時点で闇雲に対策を考えるより、この感覚を覚えておくべき。そんな気がする。

 

 これもまた“勘”だ。

 

 少女は自身の内なる感覚に従い、早々と意識を切り替えた。

 シャドウ・ボーダーの性能と快適性についての意見交換を流し聞きつつ、少女──藤丸立香は伸びをする

 

「性能の再考は後にして、まずは状況の確認といこう。Mr.ムニエル、空想樹は……あれか」

 

 分析担当のホームズが指示を出し、計器やモニターを確認したムニエルが状況の把握に入る。

 インド異聞帯の空想樹は隠蔽されておらず遠方ながら目視も可能。確実に根付いている一方、生育状態は途然で開花もまだ先のようだった。

 ただ、今までの異聞帯とは違い、『巨大な四角』としかいえない何かが存在している。魔力探索に引っかからない四角の正体については、現時点では探りようもないらしい。

 

「さて、本題に戻ろう。インド異聞帯における目的は二つだ。大西洋異聞帯との対峙を視野に入れた強化の実施、そしてこの異聞帯の切除。相違ないね?」

 

 ダ・ヴィンチの言葉に皆が頷いた。

 前者の核となるキャプテンの確認を経て、現状は後者を優先すべきと判断が下る。

 まず求められるのは異聞帯の環境把握。

 

 つまり、実働隊である立香達の出番であった。

 

 マスター、藤丸立香。

 シールダー、マシュ・キリエライト。

 そして中国異聞帯より引き続き同行の哪吒。

 

 少ない人員で対応せざるを得ない今、残る戦力は現地で得る他ない。

 幸いにも召喚のリソース面はシオンから預かった霊子収集体(ヴォイドセル)なるものでカバーできる。しかも、現在地から霊脈までは徒歩圏内だという。

 

 新所長の号令を受け、立香達は異聞帯の地へその足を踏み入れた。

 

    ◇

 

 綺麗なところだな。

 単純にそう思う。

 

 立香にとって、インド異聞帯の第一印象は『ただただ美しい』という率直なものだった。

 

 柔らかな草原を歩み、茂る青草を踏む。

 清涼な水、肥沃な土。絢爛豪華に咲き誇る花々が辺り一面を埋め尽くし、青く甘い香りを漂わせている。

 水辺には蓮、草原には彼岸花。色とりどりの花と濃く茂る草木が行く先々に広がり、爽やかな風が肌を優しく撫でていった。

 日差しは強いばかりではなく温かで、ただ立っているだけで気分が良くなる気すらする。

 

「なんだか心地の良いところですね」

 

 立香にだけ届く小さな声でマシュが呟く。

 異聞帯と汎人類史の命運を思ってだろう、少女の凛々しい横顔に複雑な感情がよぎった。

 バツが悪そうに伏せられた彼女の目を覗き込み、立香もまた小声で囁く。

 

「だよね。私もそう思った」

「マスターも、ですか」

「うん。綺麗なものはやっぱり綺麗だし、良い気持ちはどうあったって良い気持ちだもんね」

 

 マシュの表情が和らぐのを待ち、立香は笑ってみせた。

 少女達のやり取りが気になったのか、通信を用いて新所長が割り込んでくる。

 

『内緒話か。何の話をしているのかね?』

「綺麗なとこだなって。暖かくて辺り一面に花、多分蓮と彼岸花かな、沢山の花が咲いてるんです。空気も水も澄んでて最高」

『何を悠長に……と言いたいところだが、結構結構、実に重畳。何が起きるにせよ、動きやすいに越したことはないからな』

「ですね。フォウくんも楽しそうに走り回ってます。そうだ、新所長も来て散歩でもします?」

『うん⁉︎ 司令官が艦を離れるわけにはいかんよキミ! ね? そうだよね? 返事して⁉︎』

 

 霊脈へ向かうすがら、ボーダーと周囲の情報を交換し続ける。いつものことながら新所長は良くも悪くも人間臭い反応を返してくれた。

 この絶妙な頼りなさに安心してしまうのは何故だろうか。

 小心者丸出しの新所長のおかげか、あるいは飛び回る白い毛玉の愛らしさに絆されたのか。いつの間にか立香もマシュも頬を綻ばせていた。

 

 それにしても本当に心地の良い場所だ。

 哪吒がひくりと鼻を動かして空を見上げる。

 

(ますたー) ここ 同じ匂いする」

「ありゃ、天竺関係かな」

「天竺 否定(じゃない)(ますたー)と 同じ」

「私? あの、お日様の匂いってやつ?」

「同意。お日様 ぽかぽか いい匂い。お昼寝を推奨」

 

 なんとも呑気で可愛らしい報告をする哪吒だったが、決して警戒を怠っているわけではない。敵性反応もない上、サーヴァントの活動にとっても何らかの恩恵が得られているようだった。

 哪吒の言葉を再解釈すると、常時バフが張られているような感覚。機能が向上するというよりは常に回復しているような安心感があるらしい。

 本当に昼寝を勧めているわけではなく、何はともあれ哪吒が冗談を口にできるほどに平和、ということだ。

 

 立香はマシュと顔を見合わせる。

 

「中国も穏やかではあったけど、あっちは長閑って感じでまた印象が違うね」

「北欧とも違いますね。あちらの皆さんは限られた場所で暮らしていましたが、ここは……」

『観測できる範囲は基本この調子だね。現地風に言うと極楽浄土みたいってところかな?』

『さて、どうだろう。仏教の起源はこの地だが、宗教人口でいえば少数派であるのも事実。また、時代や土地柄でも宗教観は違うものだ。ここでいう“現地”の信仰が我々の認識と相違ないかは』

『ええい! 宗教談義も考察も後だ、後! まずは戦力強化、それから探索・推論、そして考察の順! それと藤丸、そこの毛玉が眠たそうだから拾ってあげなさいよ!』

 

 ダ・ヴィンチとホームズが話し込もうとするのを遮ってゴルドルフから指示が出た。

 司令官の言うことには従わなければなるまい。立香はお昼寝モードのフォウを拾って抱き上げる。外の陽気が伝播した白い毛並みはふわふわと柔らかく温かで、どうにも眠気を誘われそうだ。

 欠伸を噛み殺しているところを見たのか、マシュが微笑ましそうに目を細めている。恥ずかしくなった立香は足早に霊脈へと進んだ。

 

『よし、そこだ。オーケー、敵性反応もないね。マシュ、召喚の準備に入ってくれるかい?』

「了解です。マスターはそちらの木陰で休んでいてください」

「うん、ありがとう。お任せするね」

 

 マシュに言われた通り木陰に移動する。麗らかな日差しが気持ちいい。

 本格的に寝入り始めたフォウの背中を撫でながら、立香は細い息を吐き出した。

 

(ますたー) お疲れ? 昼寝する?」

 

 有事に備え傍に控える哪吒が言う。今度は本気で昼寝を勧めているらしい。

 立香はかぶりを振って答えた。

 

「ううん、疲れてないよ。むしろ気持ち良すぎて弛んでるかも」

「ならば 何故 溜め息? 隠し事 非推奨(よくない)

「そうだね。緊張はしてるかな。召喚はこれからの要だし、それに……」

 

 記憶の中、白い衣が揺れる。

 

 ()はどんな時も凛と立っていた。

 傷付いても苦しむ素振りを見せず、いつだって力強い背中だけが立香の前にあった。

 力の加減を間違えてバツが悪そうにする姿も、一人静かに窓辺で佇んでいる横顔も、争いを厭うくせに勝負事では負けん気を発揮していたおかしさも、その全てを覚えている。

 

 おずおずと、それでも確かに、立香の手を取ってくれた。

 ぎこちなく不器用に、ただ柔らかく笑う彼を覚えている。

 

 ふるりと頭を振り、立香は笑ってみせた。

 

「ううん、何でもない。やっぱり緊張してるんだと思う」

「大丈夫。(ますたー)は (ますたー)。つながり まだある」

 

 どこまで分かっているのかわからないが、哪吒の言葉には確信が滲んでいる。それだけで元気付けられてしまい、立香は頭をかいた。

 どうにも気恥ずかしい。

 何とも言えない面映さから逃れようと立香は立ち上がって声を上げる。

 

「マシュ、準備はどう?」

「順調です。召喚術式の構築・敷設、共に完了しました。霊基トランクと霊子収集体(ヴォイドセル)も問題なく接続可能です」

 

 はきはきと答えるマシュの傍に行き様子を窺う。召喚経験はともかく、素人に毛が生えたレベルの魔術知識しかもたない立香にしてみれば、何がどうなっているか未だによくわからない。

 

「この霊子収集体(ヴォイドセル)、っていうの? どういう仕組みなんだろ」

「ええと、それは提供者でないと分からないと言いますか。いえ、シオンさんから説明をいただいても分からないような気もしますが……」

「カルデアでは電力を魔力に変換してたんだよね? ロシアでは凧で雷を拾って電力供給に換えたんだっけ。つまり、雷の代わり?」

「ダ・ヴィンチちゃんからは使い捨てブースターのようなものと聞いています。ただ、純粋な電力ともまた違うようですね」

 

 そもそもだ。立香は電力を魔力に変えるという仕組みからして理解できていない。素養など全くないずぶの素人が一年やそこら、しかも有事の隙間に学んだところで、魔術のなんたるかや技術など分かるはずもなかった。

 だから、立香の認識としてはこうである。

 

 いちたすいちは、に。

 電力は魔力になる。

 そう覚えておけばよし。深く考えない。

 

 自分から問いかけたくせに思考を放棄し、立香は一人頷いた。

 

 その時だ。

 

 

 ぞわり、と。

 肌が粟立つのを感じた。

 

 

 咄嗟にマシュの腕を引く。突然のことに身を強張らせる彼女を力一杯抱きしめ、立香は叫んだ。

 

「哪吒!」

(ますたー) 伏せて!」

 

 考える暇もない。マシュを押し倒した立香の頭上を熱線が走る。

 髪が焼き焦げる匂いに背筋が凍った。

 

「そのまま 伏せる!」

 

 呼びかけと共に哪吒が滑り込み、渾身の力で槍を振う。遅れて閃光と衝撃。弾かれた熱線が大樹に激突、その太い幹をへし折り粉砕したのだ。

 思わず目を瞑る。

 動けない立香を抱えたまま、マシュが立て続けに横転し、襲撃地点から距離を取った。

 荒い息が互いの鼻先を掠める。

 地に伏せ、マシュに覆い被さられたまま、立香は顔を上げた。

 

 土埃と焔の匂い。

 木の爆ぜる音がする。

 

 華やかに生い茂っていた草花は一瞬で消炭と化し、大樹は火柱をあげて天を焦がしていた。

 蒸発した水のもたらす蒸気のベール、その向こうに哪吒とマシュの盾が見える。

 

 まずい。

 

 立香の身体から血の気が引いていく。

 今、マシュの盾は召喚用の物資と接続されているのだ。即座に防衛、あるいは逃走できたとして外付けの召喚機構を守れるかは定かではない。

 万が一霊基トランクが破損したならば、現地召喚どころか全ての行動に支障をきたす。

 それはつまり、汎人類史の敗北に他ならない。

 

 緊張の高まる中、ノイズ混じりの通信が響く。

 

『立香ちゃん、緊急事態だ! すぐにそこを離れてくれ!』

『正体不明の熱源が高速で移動している。召喚で対応する時間はない。私達もそちらへ向』

 

 ダ・ヴィンチとホームズの声がぷつりと途切れた。ノイズすらしない。徒歩圏内にあるシャドウ・ボーダーとの通信が完全に遮断されている。

 まるで、何かに堰き止められたかのように。

 

 

 轟音。

 

 

 飛来した熱源に抉られ大地が弾け飛ぶ。

 突風に巻き込まれた花々が首ごと捥がれ、千切れた花弁の紗幕が辺り一面を覆い尽くした。

 

 

 肌がひりつく。

 血が凍る。

 

 近い。

 

 

 あまりの威圧感に呼吸すらままならず、立香はマシュの腕を強く握った。

 追撃に備え槍を構えた哪吒が目を眇める。

 

(ますたー) そのまま。目的 (ますたー)じゃない」

 

 低く告げる哪吒の視線の先、影が揺れた。

 

 一歩、また一歩。

 近付いてくるその気配。

 吹き荒れる花弁と焔の向こうに何かがいる。

 

 立香は息を飲み、目を見張った。

 

 

「き、ひ、ひ」

 

 

 嗤う声。

 美しく、恐ろしい声。

 

 立香とマシュの目と鼻の先、手を伸ばせば届くその場所に、血濡れた女が立っていた。

 

 黄金の髪に褐色の肌、竜の尾を持つ女だ。蠱惑的な肢体、纏う黒の衣、その全てが血の赤に染まっている。その身体を覆う夥しい数の傷はどれも真新しく、彼女が一歩を踏み出す毎に鮮血が噴き零れ、新たな血溜まりが生まれていた。

 

 まさに満身創痍。只人ならば指一本動かすこともできないはずだ。 

 

 ならば、この重圧はなんだ。

 

 視線を上げるのもやっと。

 呼吸すら奪われる。

 

 形が違う。中身が違う。道理が違う。

 尺度が違う。次元が違う。

 存在の密度が違う。

 

 正面から相対していい手合ではない。

 

 緊張に強張った指が土を抉る。指先に走る痛みだけが何とか正気を引き戻そうと踠いていた。

 

 竜尾の女は紅い舌をのぞかせ、優しく囁く。

 

「よい、動かずともよい。あの木偶人形のいう通りよ」

 

 そう言って、女は軽く腕を振るった。

 その一振りで視界を覆う全ては掻き消え、狂ったように鳴く風の中、哪吒が槍を握り締める音だけが鮮明に響く。

 

「こら、木偶。貴様も動くでない」

 

 呆れ声で語りかけ、女が一歩を踏み出した。

 未だ伏せたままの立香の目の前、血溜まりを泳ぐように女の素足、そして竜の尾が進む。

 

 ずるり、ずるりと這う尾。

 鱗が剥がれ落ち赤黒い肉を晒したそれに隠れ、引き摺られている何かが見えた。

 

 血濡れた女を挟み、立香達が伏せている場所とは反対側。女の左腕に掴まれ、地を引きずられているモノ。

 

 立香に覆い被さっているマシュにはそれが何か分かったのだろう。彼女が悲鳴を押し殺す気配を感じた。

 

「……ひと、が」

 

 小さな声でマシュが言う。

 

「人がいます。傷だらけの男性が……あの方は生きているのでしょうか……だって、あの傷は」

 

 微かに震えるマシュの声に反応し、女が立ち止まった。

 

「死んではおらぬ。この程度で死ぬものか」

 

 つまらない冗談でも遮るかのように、竜尾の女は吐き捨てる。

 半ば潰れ血で塞がりかけた瞼が瞬き、金色の瞳が覗いた。燃えるような光を灯した目が無感動にマシュと立香を見つめる。

 

「丁度良い。お主らには監視を頼もう」

 

 そう言って、女は引き摺っていたモノごと左腕を振り抜く。

 

 ぐちゃりと生々しい音を立て、動けない立香達の前に落ちたモノ。マシュのいう通り、それは人間の男だった。

 否、正確にいえば、人の形をしたナニカだ。

 

 血に塗れ色の変わった白髪、生気ない暗い肌。鍛えられていたのであろう身体も今や女と同じく満身創痍であり、意識もなく、ただか細い息を微かに溢すだけの存在。

 生きているというにはあまりに脆弱で、死を目前にしていることは一目瞭然である。

 

 生きているのが不思議。

 否、死んでいなければおかしい。

 何故ならば、男の胸には大穴が空いていた。

 

「そやつが息を止めようものなら面を張って引き戻せ。なんなら煮たり焼いてもかまわんぞ。それでも死んでしもうたならば────」

 

 冷たく言い放ち、女が口の端をつり上げる。

 

「その時は貴様らごと飲み干してやるかのう」

 

 き、ひ、ひ。

 血反吐を吐きながら嗤い、竜尾の女は哪吒へと向き直った。

 

「さて木偶よ、彼我の差は識れたこと。抵抗を止めはせんが、今のわえはちと余裕がのうてな。遊んでやれるか分からんぞ?」

 

 にたりと笑う女へ槍の穂先を向け、哪吒が顔を上げる。

 

「邪魔者 阻止。ボク カルデアの サーヴァント。召喚 必要。未来(ますたー)を守る」

「ふむ、実に良い木偶じゃな。何があろうと諦めぬ姿勢、その意気は実に好ましい」

当然(あたりまえ)。ここ 絶対 通さない」

 

 槍を構えた哪吒を見つめ、女は蕩けるような笑みを浮かべた。

 

「おお、おお。よりにもよってわえに阻止を語るか。このわえの行手を遮り、阻止せしめ、堰き止めようと宣うか。それはなんとも……」

 

 感嘆の吐息は心の底より漏れたものであるからこそ深く、血濡れた指が頬を滑り凄絶な血化粧を描く。

 

「────滾るのう」

 

 言うや否や、女は大地を蹴った。

 衝撃で土が沈む程の踏み込み。宙へと身を踊らせた女は、哄笑を轟かせながら掌を空へ掲げる。現れたのは無数の槍。女はその一筋を掴み取り、哪吒へと投擲した。

 哪吒は両腕の乾坤圏を解き放ちこれを迎撃。しかし、間髪入れずに放たれた幾条もの熱線が一斉にその身体を襲う。

 

「はっ! せいっ! しゃああっ!」

 

 風火輪が炎を吹き上げ、哪吒の足下に焔の渦を形成。爆炎と共に放たれた蹴りが追撃の悉くを上空へと弾き飛ばした。

 

 空中で炸裂した光と熱。

 その余波が両者を襲う。

 

 槍を回転させていなす哪吒に対し、女はただ笑みを浮かべて尾を払うのみ。尾先を伝い飛んだ血が対峙する哪吒の頰を汚した。

 

「竜血の味はどうじゃ。灼けつくような美味であろう? どうしてもと言うなら、もっとくれてやってもかまわんがの」

「おかわり 不要(いらない)。焼くのは ボクも得意」

 

 ごうと音を立て哪吒は火尖槍を振るう。燃え盛る穂先が空気を焼却。周囲の竜血を蒸発させた。

 

「おかえし あげる!」

 

 炎を巻き上げ滑空する哪吒が竜尾の女へと肉薄。烈風纏う火尖槍の峰をその腹へと叩き込む。

 弾き飛ばされた女は大樹に激突し、屑折れるように大地へ落ちた。

 

 うまれたのは僅かな隙。

 

 突破するなら今しかない。伏せたの姿勢のまま、藤丸立香は右腕を掲げた。

 刻印が赤く輝き辺りを照らす。

 

「令呪をもって命ずる! 哪吒、思いっ切りぶちかまして!」

「了解。追撃 必至。宝具開封!」

 

 油断なく大地を睥睨し、哪吒は槍を薙ぎ払う。

 

「桃園仙術式目 三魂飛んで七魄霧散!」

 

 燃え盛る炎の槍、纏う燐光、輝く白皙の美貌。

 炎を敷いて空に立つは、類稀なる武勲を誇りし武将にして、授かりし数多の宝貝(パオペエ)を操るカルデアの守護者。

 焔逆巻く風は栗色の髪をあおり靡かせ、煌めきを宿した瞳が立香を見つめる。

 

 その口の端が僅かに上がった。

 

 風火輪のブーストにより哪吒が超高高度へと飛翔。空の彼方、己が槍と一体になった四肢はやがて光の一条と化し、生まれた炎熱と諸共に地上へ帰還する。

 

 軋む義体も顧みず、哪吒が咆哮した。

 

「────これ即ち火尖槍! 炎上!!」

 

 それは灼熱の一撃。

 辺り一面を焦土と化すほどの業火。

 融解しガラス化した大地が割り砕け、着弾の衝撃と共に炎と熱風が吹き荒れる。

 

 余波は立香達の下まで届いていた。熱波に耐え、マシュの下から這い出した立香はふらつきながらも立ち上がる。そして、肩を支えるマシュの手を握り締め、固唾をのんで目を凝らした。

 

 煙と蒸気が薄れる。

 地に倒れ伏した竜尾の女はぴくりとも動かず、焼け焦げた肉の匂いが漂っていた。

 一呼吸つき、立香は哪吒へ声をかける。

 

「哪吒、ありがとう」

 

 こちらからは背中しかうかがえないが、見る限り目立った損傷はない。この異聞帯特有の常時回復が功を成しているのだろうか。

 安堵する立香だったが、何故か哪吒はその場を動かない。

 

 いや、違う。

 動かないのではない。

 動けないのだ。

 

 立香もまた、自身の身体が強張っていることに気付いた。何故。そう思う間も焦燥が背筋を駆け上り、喉を締め付ける。

 溢れた吐息すら凍りつくような静寂の中、視界に異変が起きた。

 

 倒れていたはずの竜尾の女。

 その腕がゆっくりと持ち上がる。

 

 突如、太陽が翳った。

 粟立つ肌を摩ることさえできず、立香は呆然と空を見上げる。

 目にしたのは空を覆い尽くすほどの黒い靄。

 それは竜尾の女を中心に湧き出ていた。

 

(ますたー) 下がって!」

 

 槍を蹴り上げて後転し、哪吒が叫ぶ。

 だが、立香もマシュも動けない。

 風火輪が火を吹き上げて超加速。勢いを増し飛び込んできた哪吒に弾き飛ばされ、二人は後方空中に投げ出された。

 

「哪吒!?」

「ダメ 下がって!」

 

 その間にも黒い靄は広がっていく。焦燥に満ちた声を上げ、哪吒が乾坤圏を撃ち込んだ。しかし、光の輪は不可視の障壁に激突し、靄の核たる竜尾の女まで届かない。

 靄を抜け、唸りを上げる竜尾が一閃。

 横殴りの一撃は哪吒の胴を捉え、その身体を弾き飛ばした。

 

「哪吒!」

「心配 無用(いらない)! まだ いける!」

 

 哪吒は風火輪を逆噴射させ衝撃を相殺。そのままの勢いで竜尾の女へと滑空する。

 

「マシュ 走る! (ますたー) 守って!」

「──はい! マスター、すみません!」

 

 立香を担ぎマシュが疾駆を開始。その背を追うように黒い靄が伸びた。迫る顎を哪吒の槍が斬り払い、蛇行する闇を根本から切り飛ばす。

 靄は霧散することなく膨れ上がり、黒い波を形成。そのまま哪吒の身体を飲み込んだ。

 

「哪吒!」

 

 堪らず叫んだ立香は腕を伸ばす。

 パスは切れていない。だが、姿を目視できないどころかパスを通じての状態把握もできない。

 マシュに抱えられながら、立香は唇を噛んだ。

 伸ばした右手を血が滲むほどに握り締め、そして目を見張る。

 

 令呪が回復している。

 

 宝具解放のため一画使用したはずの令呪が元に戻っているのだ。混乱する思考の中、この異聞帯特有の常時回復に思い当たった。

 回復が霊的存在だけではなく、全ての存在に及ぶとすれば。

 立香は無我夢中で叫んだ。

 

「令呪をもって命ずる! 哪吒をここへ!」

 

 立香の傍に強制召喚された哪吒が崩れるように膝をつく。万力で引き裂かれたような、否、噛み砕かれたような傷痕がその義体を覆っていた。

 立香は歯を食いしばり、右腕を掲げる。

 

「重ねて命ずる! 哪吒に力を!」

 

 赤い閃光が迸り、哪吒が顔を上げた。令呪による全回復を受けたその目に闘志が灯る。

 

「マスター!?」

「大丈夫、マシュはそのまま走って! 盾まで一気に戻るよ!」

 

 走るマシュには背後の状況が見えていない。加えて令呪の連続使用だ。当然の反応だろう。

 困惑するマシュへ指示を出し、立香はさらに声を張り上げた。

 

「哪吒、後衛頼んだ!」

「了解 任せて」

 

 静かに応え、哪吒が槍を旋回させる。風を巻き上げ迸る炎。燃え盛る赤が壁となって黒い靄の進行を阻んだ。

 その間もマシュは疾走を続ける。炎の壁を掻い潜った黒い靄を跳躍して回避し、着陸の衝撃をも利用しさらに加速。

 しかし、目的である盾まであと数歩というところで彼女は突如急停止した。

 

「マシュ、どうしたの!?」

「マスター、駄目です。これ以上進めません」

 

 冷汗を滲ませ、マシュが答える。

 

「障壁が張られています。このままでは盾に近付けない!」

 

 マシュが勢いをつけて振りかぶり、何もないはずの場所を殴りつけた。重い打撃音が響き、その拳が空中で静止する。

 

「そんな」

 

 小さく呟く立香の視界が翳った。

 黒い靄がすぐそこまで迫っている。

 

 直線上の攻撃は哪吒が全て相殺しているが、四方八方を囲まれては逃げ場がない。

 波となって迫り来る黒靄の前に、二人の少女は無力だった。

 

 マシュが身を挺して立香に覆い被さる。

 押し寄せる黒の波濤が二人を飲み込んだ。

 

    ◇

 

「目を覚まさんか、娘。手加減はした」

 

 声がする。

 重い瞼を開き、立香は目を覚ました。

 

 身体を起こせば全身に痛みが走る。傷はないというのに纏う魔術礼装はぼろぼろになっていた。

 否、傷がないわけではない。恐らく、この場に張られた常時回復の力が及び、傷を癒しただけなのだろう。

 頭を振って周囲を見渡す。隣にはマシュと哪吒が横たわっていた。二人は立香より損傷が酷く、所々に深い傷や破損が残っている。

 背後には盾と召喚機構。こちらは障壁に防御されていたのか、全く変化がない。

 

 そして、正面。立香を観察するように、竜尾の女が立っていた。

 

 相変わらずの満身創痍。いや、哪吒の火炎に炙られたせいだろう。より一層酷い有様だ。

 手には瀕死の男。変わらず乱雑に引き摺っていた彼の身体を投げ出し、女は言う。

 

「貴様には役目を与えたはずだがの」

 

 頭上から降る囁きは静かで、だからこそ心の底から怖気がした。

 

 だが、負けるわけにはいかない。

 折れるわけにはいかないのだ。

 

「令呪をもって命ずる。二人に回復を」

 

 やはり復活していた令呪を二画切り、立香は視線を上げる。

 面白いものを見るように、女が眉を上げた。

 

「ほう。まだ抗うか」

 

 口を引き結ぶ立香、呻きを上げながらも立香を庇うマシュ、そして、ふらつきながら立ち上がる哪吒。三者三様の抵抗を眺め、竜尾の女はうっとりと目を細める。

 

「良いのう。なんとも好ましい。熟すのを待ちたいところじゃが、わえにも事情があるのでな」

「…………っ」

「勿体無い。勿体無いが、殺すしかあるまい」

 

 ひどく残念そうに女は足を踏み出した。彼女の踏む土が黒く染まり、再び靄が溢れ出す。

 緊急回避をと、立香が右腕を掲げたその時だ。

 

 がくん、と。

 女の動きが止まる。

 

 意識もなく横たわっていたはずの男性。

 その腕が竜の尾を掴んでいた。

 

 閉ざされていた瞼が僅かに持ち上がり、燐光を放つ虚な瞳がのぞく。

 焦点を結ぶことすら叶わず彷徨う青の眼には、しかし確固たる意志が宿っていた。

 

「────、──」

 

 開かれた唇は言葉を紡ぐことなく、ただ喘鳴を漏らすだけ。胸の穴からとめどなく流れる血が地面へ滴り広がっていく。

 

「なんじゃ、貴様。動けたのか」

 

 呟く女を見上げ、男が腕に力を込める。

 ばつりと音を立て竜尾が引き千切れた。

 

 傷付いた身体のどこにそんな力があるというのだろうか。彼はさらに腕を伸ばして女の足へと追い縋る。

 男の顎を踵の一撃で蹴り割り、女が嬉しそうに笑った。

 

「それでこそ貴様よなあ。良い、良いぞ。久方ぶりに愉快な気分じゃ。だが今は────こら、息を止めるでない」

 

 蹴り飛ばされ仰向けに倒れた男を見下ろし、女は眉を顰める。その顔は実に鬱陶しそうで、さらにいえば白けた様子でもあった。

 

「まだ死んではおらんな。いや、死にそうか?」

 

 呟く声に温度はない。

 

「面倒じゃな」

 

 女は徐に足を持ち上げ、男の腹へと振り落とす。踏み抜かれた男の口から血塊が溢れ、ごぼりと音を立てて鮮血が流れた。

 転がり出た血塊こそが男の呼吸を塞いでいたのだろう。だが、緊急処置だとしても、生身の、それも虫の息の相手に加えていい暴行ではない。

 凄惨さに青褪める立香達を他所に、なおも執拗に男の腹を踏み躙りながら女が語りかけてくる。

 

「のう、貴様ら。わえは貴様らを喰らいに来たわけではない。馳走を貰い受けに来たのじゃ」

「馳走……?」

 

 何を指してのことか分からず、立香は女の言葉をそのまま繰り返した。

 鷹揚に頷いた女は自身の血を拭い、ある場所を指し示す。

 

 女の指が示したのはマシュの盾。

 いや、正確には、盾に接続された霊基トランク。そして、シオン謹製の霊子収集体(ヴォイドセル)だ。

 

「ほれ、あれじゃ。あそこにある熱の塊、使い捨てぶーすたーとか言ったか? あれを渡せ」

 

 渡せと言われて渡せるわけがない。冷汗がこめかみを流れ落ちるのを感じながら、立香は歯を食いしばる。

 

「いやだ、と言ったら?」

「殺す」

 

 短く答えた女は、しかし、両手をひらひらと振って続けた。

 

「……と、いうのは冗談じゃ。要は貴様ら、戦力が欲しいのだろう? あれを捧げるのであれば、わえが何とかしてやろうではないか」

 

 紅く血濡れた舌をのぞかせて女は宣う。爪も剥がれかけてひどく傷付いた手を差し伸べ、彼女は微笑んだ。

 

「さあ、あれを渡せ」

 

 その笑みの甘美たるや滴り落ちる蜜のよう。

 一瞬惚けた立香の手をマシュが握り締める。

 

「マスター、私に指示を。この方は危険です。何としてでも遠ざけなければ」

 

 抑えた声に宿るのは決死の意志。

 マシュとて分かっているのだ。目の前の女がただの生物であるはずないことも、無謀な抵抗であるということも。

 それでもなお、彼女は諦めない。

 立香とて同じだ。

 

 だが、正直打つ手がなかった。

 

 竜尾の女と瀕死の男。彼らの正体・関係性・目的は全て不明。クリプター、あるいは異聞帯の王が遣わした妨害要員とも考えられるが、それにしては気配がおかしかった。

 彼らはサーヴァントではない。英霊でもない。この異聞帯に生きるナニカだ。

 さらに一つ。彼らは恐らくこの異聞帯から切り離されている。

 何故ならば、外部存在である立香達にすら及ぶ回復、その効果が彼らにはまるで効いていない。

 あたかも彼らが世界から遮蔽されている、否、彼ら自身が世界を拒絶しているような感覚。

 

 そう、違和感。

 それは馬鹿にできない直感だった。

 

 決断せねばなるまい。

 

 いまだ通信も途絶えたまま。徒歩圏内にあったシャドウ・ボーダーが接近できないわけがない。つまり、盾の周囲に張られた障壁以外にも、何らかの結界が存在している。

 今、判断を仰ぐことはできない。

 世界の命運を左右する決断を、この手で下さなければならなかった。

 

 迷いもある。憂いもある。

 恐怖も不安も決して薄れることはない。

 だが一つ、確かに言えることがあった。

 

 藤丸立香は汎人類史最後のマスター。

 どんな場面であれ、生き残ることを最優先に選び、ここまで来たのだ。

 

 深く息を吐き、立香は視線を上げる。

 

「分かった。あなたの言う通りにする」

 

 マシュが静かに息を飲んだ。泣きそうに顔を歪める彼女の肩を抱き、立香は続ける。

 

「その代わり、約束してください。絶対に私達を害さないって。そして、誓って。目的を果たしたら私達の力になると」

「無論じゃ。わえは嘘はつかん。嘘は、な」

 

 愉しげに笑い、女は答えた。言葉に含みはあるものの、本当に嘘を吐くつもりはない様子だ。

 

 女が一歩を踏み出すと、反応した哪吒が前に出る。女はそれを片手で制し、その足を地面へと勢いよく叩きつけた。

 空気が破裂するような感覚が走り、マシュが背後を見る。

 

「障壁が……」

「これで通れるじゃろ。さあ、目的のものを取ってこい」

 

 不安気に見つめてくるマシュの背を押し、立香は頷いてみせた。機構の接続や解除はマシュしかできないので任せるしかない。

 頷き返し走り出すマシュの背を見送り、立香は細い息を吐き出す。

 

「本当に嘘は吐かないでね」

「それはこちらの台詞じゃ。万が一、わえを謀ろうものなら交渉は決裂。貴様らは死ぬことになるからそのつもりでの」

「あのね、こういうのは交渉じゃなくて脅迫っていうんだよ」

「すまんな。ヒトの作法には不慣れでの」

 

 女は嘯き、微かに笑った。今更ではあるが、やはり人間ではないらしい。

 駆け戻ってきたマシュから霊子収集体を受け取り、女へと投げ渡す。危なげなく受け止めた女は、手の中の機器を眺めその場に腰を下ろした。

 

「それ、何に使うの」

「貴様ら、電力やら雷やらがどうたら言っておったであろ? わえが欲するはまさしく雷電よ」

「あの、そちらは電力ブースターではなく、別の力でして……」

「分かっておる。概念が繋がっておるのであれば問題ない。ここをこうして、こうじゃ」

 

 しばらくの間、女は胡座をかいて霊子収集体を弄くり回していた。

 この隙に逃げることも考えたが、シャドウ・ボーダーからの反応がまだないことを鑑みると、外側の障壁は未解除とみて間違いない。

 

 取り戻した盾を構えるマシュ、槍の穂先を女へ向けたままの哪吒。二人の後ろに庇われ、立香は自身の右腕をそっと撫でた。

 この短時間に令呪が全画回復している。現時点では有り難いことだが、後を考えれば頭の痛くなる現象だった。

 こちらの令呪が回復する以上、クリプターの令呪とて同様だろう。魔術師としてはからきしの立香と、無限の令呪をもつクリプター。どちらが有利かなど火を見るより明らかだ。

 いや、それ以前に戦い手が足りない。リソースが奪われた今、現地召喚は絶望的となった。約束通り戦力の補給があったとて、信頼できるかどうかと言えば否。最悪の場合、哪吒とマシュ、そして立香だけで立ち回る必要がある。

 

 頭を悩ます立香を他所に、作業を終えたらしい女が振り返る。

 

「お主ら、少し離れておれ。巻き込まれるぞ」

 

 どうやら純粋な善意からの忠告らしい。意味もなく抵抗するわけにはいかず、立香達は大人しく後退した。

 充分距離が空いたことを確認して女が向かった先はといえば、倒れ伏したままの男性の下。

 ほぼ屍と同義となったその身体の傍らに座り込み、女が呟く。

 

「さて、馳走じゃ。耐えろよ」

 

 閃光が迸る。

 思わず顔を覆う立香の前で、盾を構えたマシュが叫んだ。

 

「何をなさるんですか!? そんなことをしたら、本当に死んでしまわれますよ!」

「え、何。何してるの?」

 

 光そのものに害がないことに気付き、立香は盾から顔をのぞかせて様子を窺う。

 見れば、竜尾の女が臥せる男性の胸の穴へと手を突っ込み、霊子収集体を差し込んでいるところだった。

 

「嘘でしょ!?」

 

 思わず叫ぶ立香だが、制止など間に合うはずもない。

 

 青白い稲妻がのたうちまわり、手当たり次第に二人の周りを焼いていく。雷は当の二人にも直撃。女の低い呻きが漏れ聞こえてきた。

 しかし、当然ながら、一番の被害を受けているのは死に体の男性だ。

 痙攣を通り越し大きく跳ねる身体を、女の脚が足蹴にして乱暴に押さえつける。

 雷光は二人の身体を焦がし、黒煙が上がった。

 

 立香達はどうすることもできず状況を見守り、雷がおさまるのを待つ。しばらくして、辺りを静寂が包み、光が途絶えた。

 

「大丈夫……?」

 

 立香はマシュの盾に庇われたまま声をかける。返事はない。だが、女が焼け焦げた手を振っているのが見えた。

 立香達は顔を見合わせ、恐る恐る近付く。

 

「生きてる?」

「死ぬわけがなかろう」

 

 平然と答えた女だが、全身が焼け焦げ、もはや見る方もない。

 惨状に顔を歪めていると、視界の端で何かが動いた。どう考えても死んでいるはずの男が僅かに身動ぎしたのだ。

 

 彼は低い呻きを溢し、腕を持ち上げた。その手は空を切り、何かを探すように彷徨う。

 

「─────、ア────」

「…………」

「────ナ」

 

 溢れた声は言葉を成さず、だが切実な響きを伴っていた。最も近くで聞いていた竜尾の女が顔を歪める。

 

「愚かじゃの」

 

 女はぼそりと呟き、彷徨い続ける手を掴んだ。そして、その手を男自身の胸の上へと導く。

 胸の穴はいつの間にか塞がっていた。

 

「貴様が何を思っていたのかは知らん。どうせ後悔もしていないのだろう……しかし、今の彼奴を見たならば考えも変わるのではないかの」

「────、──」

「ほれ、目を開けろ。そして見るがいい。貴様が願ったその先、他でもない貴様が許した選択の顛末を」

 

 女は静かに囁く。

 

「そこからが此度の始まりじゃ」

 

 閉ざされていた青の目がゆるりと開いた。

 固唾をのみ見守る視線の中、男が呟く。

 

 

「ここはどこだ。おまえ達は……、いや」

 

 

 身を起こした彼は不思議そうに辺りを見回し、さらに自身の手を見つめて首を傾げた。

 

 

「────オレは誰だ」

 

 

 瞠目した女をおきざりに、やたらに元気な様子の男がからからと笑う。

 

「ははは、これは良い! 事情どころか己のことさえ全く分からんが、佳き女達に囲まれているとはな!」

「な」

 

 絶句し震える女の顎。そこにつと指を伸ばし、男が宣った。

 

「特におまえ。多少傷付いてはいるようだが……何ともいい女ではないか。どうだ、宴で酌を」

 

 何か言いかけた男の顎を蹴り割り、目にも止まらぬ速さで女が後退る。血塗れのため判別しづらいが、その腕は鳥肌のせいで粟立っていた。

 

「気色悪い! というか貴様、記憶がないだと!? 馬鹿を言うでない! 貴様、貴様と言うやつは──!」

 

 絶叫を轟かせ、女の身体が後ろへ傾ぐ。支えようとでもしたのか腕を伸ばす男の顔面を全力で殴りつけ、彼女は倒れた。

 完全に目を回してしまっている。

 男もまた、痛恨の一撃を喰らい失神していた。

 

「えっと。マシュ」

「……はい、マスター」

「これ、どうすればいいと思う?」

 

 返事はない。当たり前だ。立香とて何をどうしていいか、これっぽっちもわからない。

 呆然と佇む立香の耳に通信機の音が響く。

 

『レーダー戻った! 全員無事だ!』

『立香ちゃん! 返事をして、立香ちゃん!』

『障壁の消失を確認した。我々の到着までどうか持ち堪えてくれ』

 

 ふらつきながら通信機に手を伸ばせば、肩に柔らかいものが触れる。戦闘の最中、どこかへ退避していたフォウが舞い戻っていた。

 

『藤丸、キリエライト! 本当に無事か!? 無事なんだよね!? 返事をしなさいよ、後生だからあ!』

 

 あまりに情けない新所長の叫びを耳にし、立香の全身から力が抜けた。

 シャドウ・ボーダーは騒然としている。急いで応えなければならないのは理解していた。

 だが、立香自身、もう何がどうなっているのか分からない。

 

 生き延びた。

 とりあえず生き延びたのはいいが、これをどうすればいいのだろうか。

 

 苦悶の表情のまま伸びている二人を横目で眺め、藤丸立香は肩を落とした。

 

 

 


 

 

 Lostbelt No.4

 異聞深度_B

 

 ??.11900? 堰界忘失古伝 ラーヴァティ

         神に愛された者

 

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