異様な空間に訪れたロゥ達は理外の死体を目撃する。
それは何なのか、何を目的に彼らは訪れたのか。
救いを求めるように、そうして見上げた先には空はなく、ただでさえ狭い路地裏に乾かないと分かっていないのか吊り下げられ干された洗濯物や、身を乗り出した妙な金持ちが吐く紫煙に包まれ、屋根の端から僅かにのぞく月の光すら隠れてしまう。
こんなもの、空なんて言えない。空なんて思えない。
「なぁ、まだ間に合うかな」
痛む頬に瞼を閉じそうな諦めを奪われ、しょうがなく目を開ける。
何気なく首元によって来た野良猫に視線を向ける。舗装された石畳の上に吐きかけられた吐瀉物に叩きつけられ汚れた左手で差しだし、人差し指でその猫の首のあたりを撫でてみる。
「やめろよ…汚いだろ?」
思いがけずその指についたそれを追って、手の甲まで舐められる。
それの何に触発されたのか、私はその野良猫を抱きかかえ、落としたがひびが入っただけで済んだ酒瓶を持ち、その路地裏から去った。
【 】
決心がついた、それを言いに行くのだから、それは「私も死ぬ」と彼らの行いに賛同する事になる。
一個人として世界から居場所を失い排斥された存在だからといって、また無名の死に落ちる必要はない。それは理解しているつもりだ。どんな状況だろうと ―大農園で芋を掘り、この街の壁を増設工事し続け、ミアルマで水夫として荷卸しやらして、アノクトで地下都市拡張工事に参加してもいい。どんな内容だとしても、生きて、日銭を稼ぎ、酒を飲んで心を鈍らせ、またそれを繰り返せばいい。
『何も死ぬ事はない』、何教だったか忘れたがどこかの教会で神父にそんな言葉を投げかけられたのを覚えている。その言葉の真の意味とか、その後の説教がどんなのだったかまでは覚えていない。だが、上っ面だけでもその言葉には賛成する。
死ぬ事はない。
死ぬのは怖いから、死にたくなんてない。
そんな思いをしてまで死ぬなんて意味がない。
だが、
だから、許してほしい。
「決めたのか?」
「…まぁな」
己以外に語られる事のない密かな武勇伝を肴に一杯飲もうという算段でこの街に訪れた冒険者たちは盛り上がる。給仕に何か言ってやろうと呼び鈴を叩いて鳴らし、高揚に身を委ね舞踏で床を揺らし、出涸らしと理解しても自分に酔いしれる為にきつい酒を目一杯に飲み干し、どちらが偉大かと譲れない領分でどうせ知らぬと誇張しながら争い喧嘩をする。
暇を持て余した芸人が余興で吹く笛に合わせて、どこかで太鼓が鳴る。それと競り合うように高らかな歌声が響く。余白にここぞとばかりに弦楽器が腕前を魅せる。我も我もと思い思いの音を出し、数分も立って仕切り直しと改めて始まる頃にはすっかり即興楽団が街の煙突をオルガンのようして名もない心地よい音楽を奏でていた。
「…」
「飲まれるなよ、目移りするなよ。いざという時に辛くなるのはお前だぞ」
「分かってるさ…」
そんな歓楽に目を逸らすように渡された外套で顔を隠す。
「行くぞ」
また多くの死者が出るだろうに、命で商売している仄暗い街だろうに、流れる空気は少し肌寒いものの快適だった。
日の出になれば脚気付き、方々からなにかしらの無謀ともいえる野望を持った老若男女が訪れ、また多くの商人がつけこんで暴利な商売をするのだと思うと、強かなものだ。
そんな二面性を抱える街の中、自分の面を知るものかと否定したい憐れな十人ほどの黒衣の者らが迷いなく街の中心部―
迷いはない。迷う事はない。どこからでも ―世界中から見えるだろう雲を容易く突き抜ける神代の塔だ。分かたれた人類や全ての生物の原初、全ての命の祖先たる《竜神》であるという伝説があるのも無理はない。そういう偉大な、人類が自分たちと比べてしまえば己の矮小さに慄いてしまう遺塔を前にして、迷いはなかった。
けれど少し、悩みはあった。
『このままでいいのか』と、『引き返せないだろう』と、『本当にこれでいいのか』と
― 《
「行くよ…行くしかないんだから」
自分を撫でるのは照れ臭いのか、自分を慰めるように抱えた野良猫を丁寧に優しく撫でてやる。ノミやらをとってやろうとするが、存外見つからない。
入り口辺りの店に立ち寄る振りをして、どこか空いている席でもないかと探す風にどんどんと下層に降りていく。人の声が遠ざかっていく、人の名残が遠ざかっていく、人の文明が遠ざかっていく、人の道徳が遠ざかっていく…人が、遠ざかっていく。
「ようやく来たんだニャ…」
「金額分の働きは頼むぞ」
道半ば、待ち伏せていたかのように私たちの代表は一人の冒険者に話しかけられた。
冒険者というには不相応なほど若く、だがその幼い容姿からは想像を超える手練れの気配がしていた。しなをつくることに関しては勿論、上流階級の子供もここまでは躾けられていないだろう柔らかな毛に包まれたその身からは内側からひしひしと判る"無害"の演技。
―達人だな、この猫の
「まぁ来いニャ。前払いだし、六文銭分くらいニャ思っとけニャ」
そうして名も知らぬ
「…!」
「ほら、悩めば契約不履行ニャ」
癇癪のように意味も解らない恐怖で足がすくんでも、有無を言わさず徹底した"無害"の彼女に手を引かれて歩みを止めさせてもらえない。その毒気のない筈の手の内から神経を蝕むように伝わる―解らない恐怖より恐ろしい
自分たちは何をしているのか、何を思っていたのか、何を考えていたのか。
―《何故こうなってしまったのか》?
底に近付くという意識が増すにつれ、精神の底を搔きむしってどこかにこの悲惨な現状の明確な理由を求める死後硬直がひどくなる。
そんなもの最初からないと解っているのに、責任転嫁できる生贄なんてどこにもないと ―自分自身こそがその生贄だと知らないふりをして、ここに来てもまだ逃げるつもりで生きている。
「ほら、着いたニャ」
地獄の行進は目指すべき滅亡の場所を見つけたのか、次々と歩みを止めた。
しかし我々から漂う陰気臭い毒気のある鬱屈は消えず、立ち止まっても安堵なんて出来るものではなかった。
「ま、ハナから興味なんてニャイけど、死に際くらいは看取ってやるニャ」
猫らしく気まぐれに『お前らの思う死神にでもなってやる』と享楽半分哀憐半分の身勝手な宣言を気に留める者はいなかった。
だってみんな、その行為の中に妙な優しさを感じて、それが心地よかったから。口に出せないだけで、みんなその身勝手さに ―例外的な行いをしてまで自分の死を目撃してくれる事が嬉しくてたまらなかったからだ。かくいう私もそうだった。振り返って、少しでも口を動かすだけで言葉が届かなくても良いから『ありがとう』と、伝えたかった。
淡々と、誰が吹聴しているとも知らない絶望的な雰囲気に呑まれ、血の通っているものとは思えない手足を動かし、目の前の空間の中に入ると中心の石棺を囲むようにして全員が座る。
あの時、裏市場の奴隷競売所に暇潰しで入らなければ…あの時、いかにも不吉そうな出来の悪い木彫りの彫刻のように傷ついた目をしていた男の呼ぶ声に応じなければ ―こうならなければ絶対に知らなかったろう異端の密教に伝わる祈りの姿勢。座禅とか言ったか、右の足を左の腿の下に。左の足を右の腿の下に。腕をそれに載せ、体の中心辺りが境目になるように両手の最初と二番目の関節がある骨が互いに背を向けるように―尾を上げた魚のように手を合わせた。
エカッマイの香草焼きという料理を思い出す。
エカッマイというのは子供の手のひら程の大きさの
しかし珍味として好事家が時々食べたがるらしく、大きな街では料理店で提供されている事もあるそうだ。
希望を探すのは勿論、絶望も失望を見つけて一層惨めになってやろうという自虐的な試みさえし飽き、魂が偶然入っただけの木偶人形と自認し始めた頃、少し肌を舐めるような不快な生暖かい感覚がして、自然と深い谷から覚醒した。
「…」
目を開けて見えた光景は驚くべきものだった。しかし絶叫はおろか、呟く声の一つも出なかった。
まだ意識はあった。目は開いて、視界情報を正しく、耳は無駄に敏感に、聴覚情報を正しく、脳味噌に送り付ける。だから、それらが正しいと解っているからこそ私はなんと言う事も出来なかった。
だって信じられるか?
中心の石棺を避けるように細長く変形したその身に灯火でも宿しているような玉虫色の不定形な肉塊が存在し、先ほどまで隣で歩いていた同志達の一人の前に止まったかと思えば、天幕でも張るかのように覆い被さり、次の瞬間にそいつは座禅を組んだまま白骨化していた現実を。
無理だろ、叫んでどうにかなると思えない。…より正確に言うのなら『こんな想像外の相手にどうこうできる想像なんてできっこない』、そういう諦めが俺の空っぽの木偶に浸透し、最早動かない。
一人、また一人。お辞儀をして施しをするように丁寧に一人ずつ包み込み、喰らい尽くす。
さぁ、もう私の番だ。
粘度のあるようだが決してそうには思えない妙に質感の肉塊が目の前を覆う。右に左に、横目で見てまだ余白は残されているが、それもそのうち消えるだろう。いざ目の前にすると、その正体が多少理解できる。灯火のように体が煌めいて見えるのは消化する際に栄養として処理できなかったものを内部で魔力へと変換する ―一種の錬金術が行われていると解る。そして近付くにつれて次第に近くされる腐敗臭はその過程での排気熱のようなものなのだろう。そう考えるとここまで近付かないと分からない程に効率のいい変換処理をしているのだろうと推測できる。
それは生物というには神秘的で、神秘と形容するにはあまりにも機械的で、機械と断じてしまうにはあまりにも生気を感じる営みの動きだった。
喰われるのか明け渡すのか、死ぬのか解脱なのか。自分に待ち受ける現実を多面的に考え、そこに都合のいい希望的な側面を見出すか、それともあくまで事実として達観して絶望的な側面を見出すか。
今になって濁流のように処理しきれない発想やそれ未満の雑多な感情が渦巻いて仕方ない。だが、私はそれを抑制しなければならない。
― どうせ、いつかは死ぬのだから。
― どうせ、生きてはいられぬのだから。
…
……
………
「キシィッッッ!」
手綱を手放し、遠のく意識の中で鋭い敵意が曖昧な意識の霧を裂いた。それが連れてきた野良猫の威嚇の鳴き声であると気付くのにそう時間はかからなかった。自分でも不思議な事で、つい先ほどまで完全に気にも留めていなかったし、私が座禅を組んでから彼が一体どうしていたなどに一切の興味を抱いていなかったからだ。そして何より、私は彼の鳴き声を聞いたのは今が初めてだ。
「待っ…あっ!」
『猫はどこに行くのか』、それが今唯一持てた動ける動機であり、最後に自分が他人の為にできる行動だと直感で確信した。しかしそれは同時に遠くに行ってしまった意識の手綱を再び握らんと ―死から目を逸らそうとするのと同義だったらしい。ただの《死》そのものであるように、あまつさえ神秘的とも機械的とも解釈した眼前のそれをただの化物だと思わせるだけの正気を取り戻してしまったのだ。
「あっ!あっ…」
逃げようと立つ、立って動機である猫を探そうと周囲を見回す。
「…あ」
達観とも安心ともつかない奇妙な充足感を感じたところで、自分がどうなってしまったのかを理解してしまった。
私は喰われたのだ。逃げようとして、目を逸らして、そのせいで気付かずに目の前の化物目掛けて進んでしまい ―挙句喰われたのだ。
深い海のような、しかし浅瀬のような光を感じるが沈みゆく感覚を覚える。
誰か慈しみ深い敬虔な少女の真剣な祈りのような抱擁に身を委ねたのだと錯覚する。そしてその錯覚が残酷なものでなく、今だ優し気な顔をしているうちに緩やかな死へと落ちていく。
抵抗は無駄だろう。季節外れで春になったばかりだというのに早朝に降る粉雪の中で泳いでいるのだろうか、腕も足も動かず、次第に掴まれるような違う温度の存在の世界に引き込まれていく。
…もし、まだあの
「…今のまま、死にたかった」
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