もしもあの改札の前で立ち止まらず歩いていれば
貴方は俺の世界にいなくて 俺もここにいなかった。
未来も将来もいらなかった。今日が続けばいいと思っていた。高校3年の春、迫ってくる進路決定から目を逸らすようにその日俺は悪友と学校の裏門を越えて街に繰り出した。
明らかに高校の制服とわかるブレザーを着て歩いていれば怪しまれそうなものだが、街を歩く連中はガキ二人組にはなにも興味を抱いていないようだった。カラオケか、ゲーセンか、たいしてバリエーションのない暇つぶしの手段を悪友と算段しながら少しは学校を離れようと最寄り駅の構内に足を進める。改札を潜ろうとしたとき、切符代わりに取り出したスマホが振動した。
「ん?」
思わず足を止めて立ち止まる。と背中に柔らかい衝撃を感じた。
「ごめんなさい!」
後ろを歩いていた人だろう、悪いのは急に立ち止まった俺なのに本当に申し訳なさそうな声を出すその主に振り返る。
「ああ、いえ、俺が急に止まったんで……」
言葉が、止まった。衝撃を受けた。
艶やかな黒髪ロング、琥珀色の大きな瞳。ものすごい美人だったが、それを鼻にかけていない自然さが顔つきに現れていた。白のジャケットの下に黒のインナー、濃い色のロングスカートというその姿は彼女の清楚な美しさを際立たせていた。
彼女を見つめていたのはせいぜい1,2秒くらいの間だっただろう。でもそれは見知らぬ人を見つめる時間としては十分に長い。その人が不安げな表情を浮かべたとき、改札の奥から声が届いた。
「ハルナー、どうしましたー?」
「あ、金剛お姉さま。すぐ行きます」
声に呼応して目の前の美女はぺこりと頭を下げて自分とすれ違い改札の向こうへと消えてゆく。その背中を目で追う俺に悪友が話しかけてきた。
「驚いたな……彼女、戦艦榛名だぞ」
「戦艦?」
目を悪友に転じておうむ返しにする。こいつはいわゆるミリオタで、軍の情報を日頃から集めている奴だった。そいつがここしばらくご執心なのは―――
「艦娘、か?」
艦娘、海の化け物深海棲艦が突然世界の海を覆うようになってしばらく後、同じように突然現れた海の女神。その姿を知ることもなく、ニュースで時々どこそこの海域が安全宣言されたとか流れる時に一緒にキャスターの口に上る単語のひとつでしか俺にとってはなかった。
「あんなに美人なのか……」
「感動だな。俺も、ネットの画像以外で実物を見られるとは思わなかった」
艦娘の画像が公式発表されたという話は聞かないから、こいつの情報源はどこか怪しげな界隈だろう。もっともこいつがネットのどこに出入りしていようが構わなかった。むしろ、ありがたかった。こいつのおかげで刹那のはずのすれ違いに意味が生まれたから。
スマホの振動は、ポイントサイトの営業メールだった。
放課後、ふたりだけ残った教室。運動部の連中の掛け声が窓の外から届いてくる中、椅子に横座りになった悪友は俺を見つめて一言だけ言った。
「正気か?」
言葉の代わりにひとつ頷く。悪友が言葉を続ける。
「海軍に入隊したいだなんて……なんか悪いものでも食ったか?」
そういわれても仕方ない。軍なんて、俺の人生には今まで縁のないものだった。そのことを誰よりこいつは知っている。まして今は戦時中、ぐうたら高校生が選ぶ進路としてはちょっとばかりエキセントリックだ。
それでもこの衝動は抑えられなかった。何か言う代わりに真っ直ぐ悪友を見つめると、悪友はにやりと笑った。
「ひとめぼれか?」
否定も肯定もしなかった。その態度をどう取ったか悪友は続ける。
「あーのな、艦娘艦隊だけが海軍の部隊じゃないんだぞ。それに、艦娘の所属する鎮守府にしたっていくつもある。何百人も毎年入隊する中でお前が戦艦榛名と同じ鎮守府に配属される可能性がどれだけあるっていうんだ?」
いちいちごもっともだ。ぐうの音も出ない。それでも、俺はこの決心を覆すつもりはなかった。
顔に決意が現れていたのだろう、悪友は肩をすくめひとつ大きな溜息を吐いた。
卒業後、俺は海軍に入隊した。こう書くといかにも簡単だが、訓練課程で落伍しなかったのが今でも奇跡に思えて仕方ない。髪を五分刈りに、だいぶ体つきもがっちりして、配属を待つ俺に届いたのは鎮守府への辞令だった。
鎮守府と言っても広い。ここに目指す相手がいるのかもわからない。そのことを調べる時間もない。補給科に配属された俺を待っていたのは訓練課程を凌ぐ過酷な日々だった。
それでも半年も続ければ要領も覚えてくる。少しばかりできた空き時間を、俺は鎮守府をうろうろして過ごす。別段行く先の当てもなくグラウンドの端を通りがかって、そろそろ持ち場に戻ろうかと思ったとき、軍施設には不似合いな高い女性の声が響いてきた。
「あぶなーい!」
思わず振り向く。次の瞬間、額に衝撃を受ける。後ろに倒れながら視界の隅に地面に転がる野球ボールを認める。なんで野球ボール?と思ったと同時に背中から俺はグラウンドにひっくり返った。
「ご、ごめんなさい!大丈夫ですか?」
上半身だけを起こす俺の視界に映ったのはバットを片手にこちらに駆け寄ってくる若い女性の姿。不思議な装飾の巫女装束、走るに合わせ揺れる長い黒髪。
彼女だった。
俺の隣に膝まづく彼女を追って、姉妹艦だろう似たような巫女装束をまとった茶髪ロングの女性が駆け寄ってくる。
「ハルナー、その人大丈夫ですかー?」
「あ、頭にボールが当たったみたいで……ごめんなさい、休憩時間にバッテイングをしていたら……」
「ああ、俺は大丈夫ですから」
「あ、起き上がらない方が……」
「本当に大丈夫ですから」
言いながら身体を起こす。その時、邪な考えが俺に浮かぶ。これは千載一遇のチャンスだと。この機会を逃せば次はない、と。
「そうだな、それでも悪いと思うなら……」
自分はこんなに小ずるくて大胆な人間だっただろうかと思いながらにやりと笑って口にする。
「お茶に付き合ってくれませんか?間宮でいいんで」
彼女は、怯えて見えた。間宮の席で向かい合わせに座りながらこちらと目を合わせようとせずもずもじと身を揺すっている。俺の方もまた、間宮に連れ込んだはいいもののこんな時に発揮できる話術もなく、ただ彼女の様子を眺めていた。
「いい天気ですね」
「え?……ああ、はい。榛名も、晴れの日は好きです」
天気の話くらいしか振れない自分も情けないがそこから話を繋げないのはもっと情けない。正直時間を持て余しながら、それでも彼女とふたりきりになれる機会を作れたことには後悔するどころか自分を褒めたい気分で、俺は居心地の悪い時間を過ごしていた。
結局何を話したかよく覚えていない。それでも間宮を離れ際「また会えますか?」と訊けたのは上出来だと思う。彼女は、やっぱりこちらと目を合わせないまま煮え切らない返事を返してきた。
翌日、大型タンクの横でバインダーをチェックしていた俺に上官が近づいてきた。いかにも古参の軍人といった風貌のその上官が開口一番放った言葉はこれだった。
「お前、何したんだ?」
呆れたような心配するような顔で俺を見つめる上官越しに奥を見つめると、ひとりの男が立っていた。
この鎮守府の最高司令官、提督その人だった。
提督の後をついていくように俺は埠頭に足を踏み入れた。立ち止まり、こちらに背中を向けたまま提督は俺に声を向けてきた。
「昨日、金剛型三番艦の榛名と間宮にいたそうだな」
「はい」
「榛名は、俺の恋人だ」
断固たる意思を秘めた言葉、その言葉を告げて提督は俺の方を振り向く。その射るような視線受け止めながら俺は一言だけ返した。
「榛名さんは、俺の妹にそっくりだったんです」
怪訝そうに提督が眉をひそめる。おうむ返しのようにその唇が動く。
「妹?」
「はい」
「妹さんは、今は?」
「死にました。深海棲艦の空襲で」
久しぶりにその光景を思い出す。鳴り響くサイレン、逃げ惑う人々。炎が立ち上がり迫る中、俺は妹の手を引いて逃げていた。もし人混みに押されてその手を離さなかったなら。もしひとり人混みに流される妹の手をもう一度とれたなら。
「遺体は、左腕の肘から先しか見つかりませんでした」
今でも思い出す。俺と手が離れた瞬間愕然とも絶望とも言える表情をした妹の姿を。今でも思い出す。もうすぐお兄ちゃんと同じ高校に入れると嬉しそうな顔をしていた妹の姿を。
提督はしばらく無言だった。俺のつまらない身の上話をどう受け取ったか、そう考えるより前に提督が口を開いた。
「下衆な勘繰りをしてしまった。許してほしい」
「いえ、そんな……」
「それと、妹さんを守れなかったことをお詫びする」
提督が頭を下げる。二等兵の俺に向かって、海軍中将の提督が。
「よしてください、提督が頭を下げることではないです」
もっと最高司令官に対してとるべき態度があったように思うが、よく吟味するより先に言葉が出た。そんな俺のもしかすると非礼を気にかける様子も見せず、提督は俺に宣言する。
「榛名のことは、守って見せる。彼女を戦場に送り込む俺が言うのも変な台詞だが」
気がつけば俺は微笑んでいた。
「よろしくおねがいします」
交わされる敬礼、無言の約束。大丈夫、この人に榛名さんを任せれば。なぜか、そう強く思えた。無条件に思えた。
俺も、俺の守れるものを守ろう。少しでも、悲しみを、苦しみを、世界から減らそう。なぜか、そう強く思えた。無条件に思えた。
もしもあの改札の前で立ち止まらず歩いていれば
貴方は俺の世界にいなくて 俺もここにいなかった。
了