黄昏が、提督私室の窓を染めていた。提督が眠りに毎日戻るその部屋で加賀は提督を待っていた。空母寮で同室の赤城には今夜戻らないことは言ってある。いつからだろう、そんな夜も増えていった。
部屋の明かりをつけ、窓際へと歩み寄る。階下から海防艦たちの声が聞こえる。
「平戸早くー!早く帰らないと暗くなっちゃうよー!」
「あーん、日振待ってー!」
鎮守府本館の前の道を駆けてゆく海防艦たちの姿に頬が緩む。扉が開く音が聞こえ、提督の声が届く。
「ただいま」
「おかえりなさい……早かったのですね」
「加賀が来てくれるというからな。今日は早めに仕事を切り上げてきた」
何気ない言葉にまた頬が緩む。その顔を見られないように加賀は背中を提督に向ける。
「お夕飯の支度をしますね。まだでしょう?」
「ああ、今夜分はキャンセルしてきた」
「では、しばらくお待ちを」
ふと思い立って加賀は提督を振り向く。心配そうな光を微かに瞳に光らせ加賀は提督の顔を見据える。
「でも、たまにでも早く帰れて安心しました。最近あなたはお疲れのようでしたから」
「そうか?」
「……明日のお出かけどういたします?お疲れなら、またの機会にしても……」
「寂しいこと言うなよ」
制服のボタンを緩めながら提督は加賀に微笑みかける。
「せっかく久しぶりに加賀とデートなんだ、楽しみにしていたんだからな」
そんな言葉に心が浮足立ってしまう。今の顔を見られないように、加賀は再び提督に背中を向け台所に向かった。
その日は、よく晴れていた。夕暮れの迫るその時間、青い半袖サマーセーターと白いロングスカート姿の加賀は白シャツと濃い色のデニムを身に着けた傍らの提督と線路沿いを並んで歩く。
映画を見て、お茶をして、そんな時間が愛おしい。夕飯まで時間もあるので繁華街からひと駅ほどの距離の住宅地をふたりは散歩する。住宅地と繁華街を繋ぐ小さな駅の前を通りがかった時、幼い声が響いてくる。
「ぱぱー!おかえりなさーい!」
その声にふたり顔を向けると就学前くらいだろう幼女が改札口を出てきた笑顔の背広姿の若い男性に駆け寄っていくのが見える。心温まるその光景を目に提督が呟く。
「帰る場所があるってのは、いいもんだな」
その言葉に加賀が提督を見上げる。視線はそのままに提督は言葉続ける。
「子供の頃は、みなどこかに帰るものだと思っていたが……帰る場所があるってのは、幸せなのかもしれん」
加賀に目線を落とし、提督は穏やかな声を紡ぎだす。
「加賀に、迎えてもらえることを幸せだと思うよ」
レンガ舗装の道が続く遊歩道、常緑樹の並木並ぶその道をふたりは歩く。にゃあ、と小さい声が届く。
小さなまだ生まれてそれほど経っていないだろう茶の子猫が、ふたりの前に現れる。手を伸ばし、提督はその子猫を抱き上げる。
「親とはぐれたのかな……迷子かな?」
子猫と見つめあい、提督は微笑み浮かべる。ふと視線を感じ、顔を加賀に向けてそこにいつも通り無表情な加賀の姿を認める。
「なんだ、子猫に妬いているのか?」
「はい」
加賀の即答に、提督は言葉失う。子猫を抱きあげたまま顔を自分に向けて固まる提督に加賀は続ける。
「提督が抱き上げていいのは、私だけです」
そっと子猫を歩道に返す。子猫が駆け去ってゆく。加賀に向き直り、提督はその華奢な肢体を胸に誘う。
提督の腕の中で、加賀は呟く。
「来週は、出撃ですね」
「無事に帰ってこい」
「はい」
加賀を抱きしめる腕に力を籠める。抱擁の中、加賀はそっと目を閉じた。
先ほどまで深海棲艦が立っていた場所には、今は黒煙が立ち上るのみ。硝煙の匂い漂う海域で、赤城は加賀に声向ける。
「作戦成功ね」
煤で汚れた顔を加賀はひとつ頷かせる。何かが燃える音が轟く海の上、加賀は久しぶりの出撃に思い馳せる。
今日も、深海棲艦を沈めた。敵を、屠った。血と硝煙の匂い漂う戦場で、幾多の命を沈めた。
自分は、これから鎮守府に帰投する。また、非日常の中の日常に還る。まるで、何もなかったかのように。戦いなど、最初からなかったかのように。
それが、許されることなのかはわからないけれど。
提督私室のベッドに座り、加賀は今夜も提督を待つ。今日は、提督の帰りは少し遅いようだ。時計の針がてっぺんを指す頃、寝室の扉が開かれる。
「加賀、こっちの部屋にいたのか。すまない、今日は遅くなった」
「いえ」
簡単な応えを返す加賀の見つめる前で、提督が寝室に入ってくる。笑みを顔に浮かべ、ボタンを緩めようと襟元に指を伸ばしながら提督は上機嫌な声を出す。
「いやしかし、誰かが迎えてくれるというのはやはりいいものだな。加賀が部屋で待ってくれているというのは……」
「私に、その資格はあるのでしょうか」
顔をこちらに向けぬままの加賀の呟きに提督の手の動きが止まる。その提督の顔は見ないまま加賀は続ける。
「私は、戦闘艦です。戦うための、存在です」
微かに加賀は顔を俯かせる。
「この間の出撃でも、深海棲艦を何隻も沈めました……敵を、屠りました。その血に汚れた手を持つ私が、あなたを待つことは許されるのでしょうか」
一拍の間が、空く。提督が加賀に歩み寄る、近づきながら、提督は応える。
「そんなこと言ったら、お前らに『戦え』と命じる俺はどうなる」
加賀の目前に立ち、提督は静かに続ける。
「人はみな、罪人なのだろう」
加賀が提督を見上げる。その瞳に提督は目線合わせる。
「だから、人は許しあうのかもしれん」
ふたりの視線が交差する。感情を表にあらわさない加賀の微かに震える瞳見つめながら提督は加賀に言葉向ける。
「いつか、この戦争も終わる。何者でもなくなった俺が、何者でもなくなった加賀のところに帰る日々がきっとやってくる」
「それは、いつのことでしょう」
「いつだって、かまわない」
ふたり、無言で見つめあう。ベッドの上に腰掛ける加賀が、提督見上げ呟く。
「私を、許してくれますか?」
「だから許すも許さないも……」
「言葉ではありません」
清浄な光瞳に湛え、加賀が言う。
「言葉で許して欲しいのでは、ありません」
提督が、加賀を見つめ返す。その腕が加賀に伸ばされる。加賀の薄い肩を抱き、提督は加賀の細い身体を押し倒してゆく。
ふたりの夜が更けてゆく。
了