野郎リンカネーション~スケベ淫魔の転生冒険者学園日記~ 作:風見ひなた(TS団大首領)
昔の思い出話をしたり、宅配サービスで届いたリンネアの分のご飯を受け取ったり、そのご飯にまたしてもキラキラした視線を送る春夢に一口分けてあげたり、おいしいねーと笑い合ったり、そんなことをしている間に時間は瞬くように過ぎていった。
やがて夜もとっぷりと遅い時間になり、学生寮の門限時間が過ぎる。
「今日は泊まっていってね。空いてる客間もあるから。誰も泊まったことないから、お布団も新品よ」
「おう。世話になるぜ」
「というか……貴方、ここに住んじゃう?」
リンネアは耳の先を赤くしながら、もじもじと人差し指をテーブルの上で踊らせる。
「学院は全寮制だけど、やむを得ない事情があって通学範囲内に自宅があれば自宅通学してもいいことになっているから……貴方が良ければ、だけど」
再会した喜びでテンションがぶち上がったリンネアは、めちゃめちゃ勇気を出した。あの日これが言えていれば……という積年の想いがあってこその、乾坤一擲の勝負。さりげない口調を装うのに、内心では大変苦労している。
ちなみに通常適用される『やむを得ない事情』とは金銭的な事情のことを指すのだが、生活に他者の補助が必要な記憶喪失の留学生で、そして自分が唯一の国内での保護者となれば、まず通るはずだ。
というか、何が何でも通す。リンネアは理事長を除けば学内での最高権力者であり、学内の最終的な決定権を握っているも同然。ここで権力を使わねばいつ使うのか。
しかし、リンネアは忘れている。
自分が家事万能のスーパーレディというド級の嘘を吐いてしまっていることを……!
いいのか、嘘がばれるぞ!?
「ここに住む? リンネアと暮らすのか、それもいいな」
「そうそう、入寮するとなると女子寮に入ることになるし。年頃の女の子とルームシェアすることになるのは、ちょっと気が引けるんじゃない?」
「女の子とルームシェアか。それは確かに困るなぁ」
春夢は形の良い眉をしかめて、リンネアの言葉に頷いた。
グレンは女の子の扱いが苦手なのだ。生前は親友の剣になることを誓い、妻帯や女遊びをしては迷いが生じると断じて、そのまま命尽きる日まで生涯童貞を貫いた男である。
もちろんパーティーメンバーのリンネアやシルヴィアとは友人付き合いをしていたし、必要とあれば他パーティーの女性メンバーとも連携した。
なんかリンネアが知らないうちに人間の街に潜入した大魔導と密かに会っていたりもした。そのことはいずれ問い詰めるとして。
しかしそれ以外の私生活では、必要以上に女性と接さず、酒場女の酌すら断るような日々を過ごしていたのである。
そんな誇り高き童貞であるグレンが、若い女の子の巣窟に放り込まれ、しかもルームシェアまでするなど受け入れられるわけがないとリンネアは読んだのだった。
「貴方の意識が男だとバレたらとんでもなく肩身が狭い思いをすることになるわよ。だから、ここに住むのがいいの」
「そうか……じゃあお言葉に甘えようかな」
勝った! リンネアルート確定! ハッピーエンドに一直線!!
グッと拳を握ったリンネアは、密かに喜びに打ち震えた。
「うんうん、そうしなさいそうしなさい。明日手続きしておくからね。ご実家からの荷物はもう入寮先に運び込まれているはずだから、こちらに移しておくわ」
「おう? 何か手間を取らせてすまねえな」
「いいのよ。私とグレンの仲じゃない、全然気にしないで」
実のところ、春夢は今日入寮先に向かうはずだった。
空港経由で入国してからホテルで一泊して、そこから鉄道とバスを乗り継いで冒険者学院に行く途中だったのである。
春夢がルームシェアする予定の相手を調べたリンネアは、グレンの記憶を取り戻す前に入寮していなくてよかったと胸を撫で下ろしたものだ。
偶然にもリンネアの知人だったが、絶対ややこしいことになっただろう。
このまま毎日グレンと過ごす、夢のような日々が始まる……!
リンネアはもう内心ウッキウキである。
「じゃあグレン、お風呂炊けてるから先に入っちゃって」
「風呂? いや、入らなくていいだろ? まだ全然汚れてないし」
「……いえ、汚れてるでしょ。髪もちょっとボサついてるし」
「これくらい普通じゃね?」
春夢は腕を持ち上げてクンクンと自分の脇の臭いを確かめる。
「うん、別に臭いもしないしよゆーよゆー。あと一か月くらいは入らなくていいんじゃないか?」
ピシッ、と音を立ててリンネアが固まる。
「……それ、冗談よね? まさか一か月先まで本当にお風呂入らないつもり?」
「ん? もちろん本気だが。だって風呂に入ったら毛穴の脂が抜けて、そこから病気のもとが入ってくるだろ。それくらい俺だって知ってるんだぜ」
「おバカーーーーーーーッ!!!」
スパーン!とリンネアのスリッパが、中世から来た美少女野蛮人の頭にヒットした。
「迷信だから! お風呂入らない方が病気になるから! 絶対に毎日入りなさい!!」
「ええ……?」
中世人の常識を否定された春夢が、激痛に額を押さえながら涙目になる。
「俺、水浴び嫌いなんだよぉ……」
「あったかいお湯だから大丈夫。気持ちいいから入りなさい」
「いやだ。絶対入らない」
「入れ!!!」
「入らない!!!」
入る入らないの押し問答になって数分。
ムキになった春夢は、ソファーの上でプイと顔を背け、クッションを抱きかかえたまま丸くなってしまう。
……グレンなら絶対やらないような仕草だけど、これはきっと春夢ちゃんの癖が無意識に出てるんだろうなあ。
そんなことを考えたリンネアの頭に、ピンと閃きが走る。
「春夢が記憶を取り戻したとき、体がドロドロに汚れてたらどう思うのかしらね?」
「うっ」
「はー、薄汚い中世人のおっさんなんかに体を奪われたばかりに、せっかくの美少女を台無しにされちゃうなんてなー。あーショックだなー、残念だなー」
「ううっ」
「綺麗なままの体を返してあげるためには、その美貌を維持しないといけないわよね。そのためにも、きちんと毎日お風呂に入らないと。それが貴方の義務だとは思わない?」
「……ぃ」
「声が小さい! わかったら返事!」
「はい! 入ります!」
「よし! じゃあこれから毎日の入浴と歯磨き、スキンケア、ヘアトリートメント! 最低限それくらいはしっかりやること!」
「増えた!?」
ここぞとばかりにリンネアは押しにかかる。教え子から鬼教官として恐れられる彼女にとっては、これくらいの押し引きは慣れたものだ。
「もちろん、その美貌を維持するなら必須でしょ。毎日絶対やってもらうから」
そう言いながら、リンネアはうるうると上目遣いになる春夢を見下ろした。
透き通るようなくすみのなさとモチモチの柔らかさを両立した肌。電灯の光を浴びてうっすらとキューティクルが碧に輝く、烏の濡羽色のストレートロングヘア。形良く整えられた眉、歯並びの良い白い歯、プルプルの小さな唇、ニキビひとつなくスッと通った鼻。
これらが損なわれるのをみすみす見過ごすなど、許せるものではない。
えへへ、と春夢は機嫌を取るように小さく笑った。
「で、でも……サキュバスだろ? 生まれつき美人揃いのドスケベ種族なんだから、そこまで頑張らなくても……風呂に入るくらいでなんとか」
「ふざけんなぁぁぁぁーーーーーーーッッ!!!」
リンネア、キレた!!
思わず力いっぱいスリッパを脳天に叩き付けてから、リンネアはガシッと春夢の肩を掴んで瞳を覗き込んだ。
「私が『エルフはいいわよねー、生まれつき可愛いし、体も汚れないし、お手入れしなくても美人でさー』って何百何千回言われたと思う!? しとるわッ! 死ぬほど頑張ってお手入れしとるわッッ!!
高い乳液取り寄せて、毎日運動して、ムダ毛処理してるの!! エルフもサキュバスも同じ! 何も努力しなくても美人なんてチートがあってたまるか! 『可愛いは作るもの』なの!! 作る努力もせずに美人でたまるか!!」
「ヒェ……」
「可愛い女の子は可愛くなる努力をしてるから可愛いの!! 男はそういうの全然気づかないけど! 女に生まれたその瞬間から、可愛くなる義務を背負って生きているのよ!
エルフの集落なんて、ブス認定されたが最後ガン無視されるのよ!? 森に暮らす神秘的な美貌の種族なんて言われるけど、あいつらバリバリのルッキズム信者で、他種族には何も努力してません生まれつきこの美貌ですーみたいな顔しながら男女問わず死ぬほどファッションに貪欲だし!
そういうのが性に合わないなら、村を出るしかないの!」
「……知りたくなかった、そんなの……」
一気にエルフ界の闇が噴き出したリンネアの鬼気迫る迫力に押され、春夢が弱気な声を上げる。こんなリンネア、知らない……!
「冒険者なんてやってると、むしろ街で暮らす百倍は頑張らないといけないの! 過酷な環境で髪も肌も傷つくし、キャンプで見張りすると寝不足になるし、栄養ボロボロだし! 美人のベテラン冒険者なんて見たことある? ほとんどないでしょ!?」
「はい、ないっす……」
「でしょ!? ほっとくとどんどん崩れていくのよ! だから美人の冒険者っていうのは、見えないところでめちゃめちゃ頑張ってるの! 私もシルヴィアも死ぬほど頑張ってたよ、魔法とかもフルに使って!」
「美容のための魔法ってあるんだ……」
「肌のくすみやニキビを綺麗に取る魔法は密かに女性冒険者のベストセラーだったわ。街中でマナが使えなくなったことを、死ぬほど惜しまれた……。あれは残念だった。本当に残念だった……!」
グッと拳を握りしめながら、リンネアは血の涙を流さんばかりに唇を噛みしめた。
「だからその美貌を守るためには、もう手作業しかないの。ね、頑張ろう? 大丈夫、きっとわかるから。『可愛い』って言われるの最高だから。苦労が報われて脳汁ドバドバ出るから。だからやろう? 頑張ってその美貌を維持しよう? 私がしっかり教えてあげるから」
「でも……なんか、大変じゃない? なんかそうやって気を張って生きるの、疲れない?」
「……………………」
リンネアはしばらく沈黙してから、笑顔を浮かべた。それは何かニゴッとしていた。
「……楽しいわよ!!」
「疲れないかって訊いたんだが……!?」
「それが日常の一部になれば大丈夫! 筋トレと一緒だから!」
「お、おう。筋トレと一緒か……確かに、考えようかもしれん……」
「よし」
リンネアは春夢を立たせると、その肩を抱いて歩き出した。
「じゃ、お風呂入りましょうね。大丈夫、最初は私が洗ってあげるから」
「は……!? お前も入るの!? い、いや。風呂くらい一人で入れるが!?」
「本当? 蛇口わかる? シャワー知ってる? シャンプーは? リンスは?」
「……わかりません」
「でしょ!! 安心して、大船に乗ったつもりで私に身を委ねなさい! スキンケアとヘアトリートメントもしっかりセットで教えてあげるから!!」
テンションが上がりまくった今のリンネアは無敵であった。
普段ならグレンとお風呂なんて絶対無理、という感じだが、ちょっと頭がおかしくなっているのでノリのままぐいぐい押していける。
左腕で春夢の肩を抱き、ゴーゴー♪と言いながらそのままバスルームへ導いていく。
「いざ行かん、お風呂の世界へ!」
「なんかさっきから、リンネアおかしくない……?」
スクープ! 女子生徒の肩を抱きながら風呂場へ消える教頭!
女性同士でなければ危うい字面であった。
「……待って、脱ぐ! 服くらい自分で脱げるから!! ……なんだこれ? 布の胸当てか? え? ブラっていうの? どうやって外し……あっ、待って! あーー!! パンツはわかる、さすがにわかるって! え? 何、この機械……ぎゃーーーー! 熱い! 熱いお湯が出てきた! あーーーーっ! あーーーーーーーーーーー………………」
風呂から上がった春夢は、リンネアにドライヤーをかけられながら真っ白な灰になっていた。
「……汚されちゃった……」
「綺麗になったんだけど?」
一緒の湯船に浸かりながら頑なにリンネアの方を向こうとせず、眼をぎゅっと閉じていた春夢。その姿を思い返しながら、リンネアはくすくすと笑った。
本当に、身も心も可愛くなっちゃって。
「あったかいお風呂、どうだった? 入ってみたら気持ち良かったでしょ。緑龍帝国では娯楽のひとつなんだから」
「そりゃ気持ちは良いが……次からは一人で入れるから、ついてこなくていいぞ。もう覚えたから」
「本当ー? そんなこと言って、さっきトイレでウオッシュレットに悲鳴上げてたけど。それで学校生活送れるのか心配ねー」
「ぐっ……そっちもすぐ慣れるよ。俺はガキじゃねえ」
体は思春期のガキなんだよなあ。
ついでに言えば、仕草や言動も全体的に幼くなったようだ。グレンはがさつではあったが、大人の男らしいどっしりとした落ち着きがあった。これも生まれ変わった影響か。
そんなことを思いながら春夢の髪をいじるリンネアの瞳には、慈愛の色が浮かんでいた。
(……これはこれでいいかな)
グレンは女の子に生まれ変わってしまい、自分はもはや年老いた。
頑張って見た目だけは若く保っているが、自分の中に寄る年波など、自分が一番よく知っている。
何も知らぬ少女の頃にぼんやりと思っていた、年下の兄貴分と家庭を築く夢想は、もう決して叶うことがない。
だけど、彼の記憶を持つこの少女と共に暮らせるのなら、それはそれでいいとも思うのだ。少女の冒険者としての実力を教導し、珠玉の美貌を磨き、冒険者リンネアの最後の弟子として世に送り出す。そしてその背中を見守り、人知れずキャリアに幕を下ろす。
それは老いた自分にとって、考えうる最良の結末だろう。
彼の子を産んであげるという夢は叶えられなかったが、
そう考えると、大人しく髪をいじられるに任せているこの少女が、実の孫のようにも思えてくる。リンネアの瞳に浮かぶ慈愛とは、そういう色合いであった。
「よし、これで終わり。じゃあそろそろ寝ましょうか」
「そうだな。俺もなんか眠くなってきた」
「……あ、その『俺』もやめた方がいいわ。そういう女の子もいるけど、やっぱりその容姿に『俺』は不自然よ」
「そっか……じゃあ『私』? わたし、わたし……うん」
口にしてみると、春夢にとってその言葉はすごくしっくりきた。
まるで生まれてこの方、自分をずっとそう呼んできたように口に馴染む。
「私は茜川春夢だ、みんなよろしくな。……どうだ?」
「悪くないわね。口調はもうちょっと女の子らしくした方がいいと思うけど」
「ううん……まあ、荒っぽくなりすぎないようにはするが、女の子らしい口調っていうのがよくわからん。無理しても作っても、かなり不自然になる気がする」
「それもそうね。うん、今のままでもギャップがあっていいかも」
そもそも冒険者なんて総じて荒っぽいものだ。平和になった現代といえども、暴力を以てモンスターを始末する職業なのだから。
むしろ多少のワイルドさがあった方が、他人に舐められなくていいかもしれない。この容姿で気弱な口調なんて、いじめてくださいと言ってるようなものだ。抜きん出た容姿の者が良くも悪くも人目を惹いてしまうことは、経験としてリンネアはよく知っている。
「さて……じゃ、寝ましょうか。あ、サキュバスだからって、夜這いしちゃダメよ? って、こんなおばあちゃんを襲っても面白くないか」
「誰がするか!」
悪戯っぽくウインクするリンネアにそう返してから、春夢はそっぽを向いて頬を掻いた。
「……あ、いや、今のはお前に魅力がないってわけじゃなくてだな。魅力的だからこそ、その……信頼を壊したくない……」
「ふふっ。わかってる、冗談よ」
グレンにそんなつもりがあれば、むしろ良かったんだけどな……。
そんな若い日の感情に、静かに蓋を閉じる。もう終わった、詮無いことだ。
「おやすみなさい、グレン」
「うん。おやすみ、リンネア」
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不思議な夢だった。
気付けば、春夢は荒野に一人佇んでいた。
乾いた風が静かに吹き抜けており、空は薄暗く曇っている。しばらく雨が降っていないのか、地面はひび割れ乾き切っていた。
そんな大地には、欠けた剣や弦の切れた弓など様々な武具が無造作に打ち捨てられている。どれも在りし日には光り輝くような逸品であったことが、その造りや意匠からわかる。だが今は例外なくすべてが錆付き、時の流れるままに風化しつつあった。
世界そのものが色褪せてしまったかのような光景だった。
周囲には見渡す限りの荒野が広がり、他に人造物など何も見えない。
春夢はいくつかの武具が地面に突き立てられているのを見た。それらは荒野にぽつぽつと点在していて、どこかに続いているようだ。
……墓標のようにも見えるそれらを、春夢は何故だか誰かの足跡のようだと思った。
地面に突き立てられた武具を追って、春夢はゆっくりと歩いた。
進めば進むほど、武具の意匠は豪華になり、破損の程度は大きくなった。ところどころの地面が抉れている。地割れになっている部分もあった。巨大な何かと激闘を繰り広げた跡のように。
やがて、春夢がたどり着いたのは、天を衝かんばかりの大樹だった。
しかしその幹はボロボロに朽ち果てていて、葉など一枚も付いてはいない。表皮は刃物で傷付けられ、打撃で抉れ、焦げ跡が付いている部分もあった。乾燥した地面からはもはや一滴の雫すら吸い上げられず、春夢の腕ほどもある太い根は地上に露出している。
それは今にも朽ちようとしている、ただの巨大なだけの枯れ木だった。
見上げる春夢の瞳から、何故だか雫が零れ落ちた。
ああ、もっと早く帰ってくればよかった。待たせすぎてしまった。この樹はずっと自分を待っていてくれたのに。
自分のために身を削ってくれたのに、こんなことにしてしまった。本当に申し訳ない。どう償えばいいのかわからない。止め処のない感情の奔流が、胸の奥から奥から湧き出てくる。
それは悲しみのようで、どこか温かくて。
春夢は樹に近寄り、そっと掌で枯れ切った表皮を撫でる。
……樹がぶるりと小さく震えたような錯覚を覚えた。
それが不思議で、春夢は丁寧な手つきで同じ部分に手をなぞらせる。
するとまるでそこだけ褪せた世界に色が戻ったように、表皮がやや新鮮さを取り戻していた。春夢は目を丸くしながら、他の部分も撫でていく。
樹はほんの少しだけだが、元気になりつつあるようだった。
これはすごい。そして、嬉しい。
春夢は樹の周りをぐるぐると回り、夢中で手の届く範囲のあらゆる部分を撫で回した。樹肌も、枝も、根っこも、丁寧に丁寧に、自分にできる限りの優しい手つきで。
胸の奥から、明るい感情が満ちてくる。
どれだけ時間が経っただろうか。
ふと爽やかな香りを感じた気がして、春夢は周囲を見渡した。
……大地には青々とした草原が果てもなく広がり、空は青く澄み渡っている。どこからか小鳥の啼く声や、小動物の気配も感じられた。草原を吹き抜ける風は優しく頬を撫で、新鮮な空気を孕んでいる。
大樹は瑞々しさを取り戻しつつあった。
高く頭上を見上げれば、緑の葉が生え始めている。
しかし自分の手の届く範囲の外はまだ枯れた色で、葉もうまく生えることができていない気がした。
どうにかして、高いところも愛でてやれないだろうか。
精一杯背伸びしながら、春夢は顔を曇らせる。
――手を貸してあげようか。
聴き慣れない少女の声が、どこからか響く。
誰の声だろう。春夢はきょろきょろと周囲を見渡したが、誰の姿も見えない。
続いて、リィンと澄んだ音がどこかから聴こえる。鐘の音だ。とても近い。
音が聴こえた方を見れば、それは自分の左胸だった。心臓のあるはずの場所から、緑色の光が浮かび上がっている。
突然足元から風が吹いて、ふわりと体が浮かび上がる。
春夢は目を丸くするが、体は一向に落ちる気配もなく、それどころかある程度自分の思うままに移動することができるようだった。
これはいい。
何やら納得のいかないことが起こっているが、夢だから仕方がない。夢の中なら、どれほど都合のいいことが起こっても不思議ではない。そうでしょ?
そうだな。
ふわふわと浮いて大樹の頂上までたどり着いた春夢は、その枝の一本一本余すところなく、慈しみに満ちた手つきで撫でていった。
謝罪するように。
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「この嘘つきーーーーーーーーーーっ!!」
かつてなく清々しい気分の朝を破ったのは、リンネアの絶叫だった。
顔を長い耳の先まで真っ赤に染め、涙を浮かべながら至近距離でこちらを見ている。
「襲わないって言ったじゃん!! 襲わないって言ったじゃんっっっ!!!」
「……はへ?」
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【TIPS】
【スキンケア魔法】
一発かけるだけであら不思議、お肌のくすみもシミもホクロもイボもニキビもあばたも、なんでも消えてツルツルになっちゃうすっごい魔法。
500年前にとんでもなくバカ売れして、これ目当てで冒険者の真似事をやってみようかという一般人すら現れた。
その原型は魔族の貴族女性向けにとある大魔導士が開発したもの。
しかしこんな便利すぎるものが広まらないわけがなく、白・黒・緑とあらゆる種族の女性に爆発的に売れた。
この時代に特許という概念があれば、特許料で魔王城よりでかい城を建てられただろう。
低い身分に生まれた彼女が四天王にまで出世できたのは、実のところこうした美容魔法の開発で密かに権力者に恩を売っていたからだ、という風説が遺されている。