頼縁の鎖-Chains of Reliance- 作:依篭 塗吏
――それは、弱くて未熟に映るだろうか。
『違うさ。ただ、傷を埋めるのに必要だっただけだ』
――それは、重すぎると思われるだろうか。
『違うさ。ほんの少し、心を預けられる場所が欲しかっただけなんだ』
――それは、誰かに振り回されているように見えるだろうか。
『違うさ。これは、自分で選んだ”つもり”なんだよ』
――じゃあ、それは良いものだろうか。
『それは……使い方次第さ。ナイフのように自分や誰かを傷つける人もいれば、杖のように支えにする人もいる。けど――ナイフも、杖も……』
『最初は、
「これから、入学番号03
瓦礫の屋内フィールドに、三体の虎型
それぞれが全長二メートルを超える巨体。
盛り上がった肩の筋肉、鋭利な牙、爪、地響きを伴う咆哮。
そのすべてが、無言の殺意を訴えていた。
楓馬は、一歩も動かず、ただ静かに鎖付きの双短剣《
「開始ッ!」
一体目の咆呑が、低い体勢で突っ込んでくる。
瓦礫を砕き、牙を剥き出しにして喉元を狙う動きは、一見して直線的。
──違う、これは囮。
楓馬の視線が左右へと鋭く走る。
右と左。
死角から二体の咆呑が跳び上がり、空中から斜めに楓馬を挟み込む軌道を描く。
三方向からの同時攻撃。
──囲まれた。
楓馬は静かに左手を引いた。
次の瞬間、庇綴の鎖が唸りを上げて跳ね上がる。
カシュッ、と鋼線が走るような音。
右側から飛びかかった咆呑の前脚に鎖が絡みつき、反射のように地面へとねじ伏せる。
重たい音とともに巨体が床を滑った瞬間、鎖が反転し、巻き付いたまま楓馬の腰越しに振り戻される。
左の咆呑の首へ、鎖が蛇のように走る。
空中で逃げ場を失った獣の軌道を、真横から引き崩す。
──二体、制圧完了。
直後、真正面の咆呑が懐へ飛び込んでくる。
開かれた顎、踏み込んだ前脚。
殺意に満ちた一撃が、目の前まで迫る。
「──そこだ」
楓馬は腰を落とし、滑り込むように低くステップを踏む。
右手の短剣が鋭く振るわれ、顎下を斬り裂く。
返す左手が逆手に振るわれ、前脚の腱を断ち切るように一閃。
咆哮が喉奥で詰まり、巨体が前のめりに崩れかける。
その背後──
右の咆呑が再び立ち上がり、跳躍。
だが、すでに仕込み済みだった。
鎖は天井の梁へと伸び、ピンと張った状態で待機していた。
楓馬は足場を蹴り、梁へと跳躍。
身体を回転させながら落下し、剣先を咆呑の背中へ突き立てる。
刃が深く喰い込み、肉と骨を断ち割る手応え。
息を呑むような静寂の中、二体目の咆呑が沈黙する。
地に落ちるその一瞬前、楓馬は身体を捻って回転、空中から三体目へ向けて鎖を投げつける。
鎖が空中で巻き付き、胴を締め上げたまま地面へと引き倒す。
楓馬は着地と同時にそのまま鎖を引き寄せ、敵を自分の間合いへと強制的に連れてくる。
「──終わりだ」
クロスに構えた双刃が、一直線に咆呑の胸元へ突き刺さる。
深紅と黒のグラデーションの刃が肉を貫き、骨を伝って手に重たい振動が返る。
最後の一体が、息も絶え絶えに這い寄ろうとする。
だが楓馬の表情に、一切の揺れはない。
冷静に、感情なく、左手の鎖を握り直す。
鎖が音を立てて絞まり、刃のように鋭利な節が咆呑の首を切り裂いた。
──沈黙。
瓦礫の地に、静かに霧が漂う。
焼けた鉄と血の匂いだけが、そこに残った。
楓馬は一度も息を乱すことなく、鎖をたぐり、短剣を納める。
「制圧確認。タイム、00:22:15」
ギャラリーからどよめきが広がる。
「今の試験、SNSあげたらバズるかも!楓馬ぁ、こっち向いてピースして~!」
「ちょ…
ざわつく声。
笑い声、歓声、興奮した観察者たちの熱が、フィールドの外から押し寄せる。
だが、その中心にいる御堂楓馬は、何ひとつ反応を返さなかった。
声も、視線も、まるで彼の耳には届いていない。
──静かだった。
熱気のただ中にいるはずなのに、不思議と、音が遠かった。
そして、ふと。
遠い記憶の底から、誰かの声が微かに聞こえた気がした。
本当に、ほんの些細な、あの頃の――優しい声だった。
――八年前。
『各地で蝕依体と呼ばれる怪物が発生しています。現在、警察や軍隊が対応にあたっていますが、民間人への被害は年々増加傾向にあります。発見次第、その場から離れて警察などへの通報をお願いします。電話番号は…』
ニュースの音声が流れる中、玄関の扉が勢いよく開いた。
「ただいま、母さん!」
「おかえりなさい、楓馬。学校どうだった?」
母の声が台所からふわりと届く。
制服のまま靴を脱ぎ捨て、玄関を駆け上がりながら、楓馬は顔をぱっと輝かせた。
「見てよ、今日のテスト、100点だったんだよ!先生が、僕だけだったって!」
ランドセルを床に放り投げるように下ろして、楓馬は中からぐしゃっと少し折れた答案用紙を取り出すと、満面の笑みで母に突き出した。
「すごいじゃない!」
母は思わず声を上げて、手に取った答案用紙を見つめる。
名前の横に大きく赤で書かれた「100」の数字に、目を細めてほっと微笑んだ。
「ほんとに頑張ったのね、楓馬」
そう言って頭を撫でると、楓馬はくすぐったそうに顔をしかめながらも、嬉しそうに頷いた。
「土曜日にね、友達に勉強を教える約束したんだ!先生も”君なら大丈夫”って言ってくれたから…」
胸を張ってそう言う楓馬の目は、誇らしげに輝いていた。
母がその笑顔に頷こうとした、まさにそのとき――
ピンポーン。
チャイムの音に、母は小さく「あ」と息を呑む。
その表情に浮かんだのは、ほんの一瞬の緊張。
「ごめんね、ちょっと玄関に出てくるわね」
言葉を残して、母はそのまま廊下を進み、玄関へ向かう。
ドアを開けると、制服姿の青年が一歩下がった位置で待っていた。
細身の体に少し大きめのブレザー、白いシャツの第一ボタンまできちんと留めている。
姿勢は正しく、手は前で丁寧に組まれている。
整った中性的な顔立ちだが、目元だけが少し寂しそうだった。
「初めまして。カウンセラーの
声は柔らかく、けれど芯がある。
その雰囲気は、どこか春先の曇り空のように静かで、つかみどころがなかった。
「はい、そうです。本日はわざわざありがとうございます」
母は礼儀正しく頭を下げ、そのまま楓馬に振り返る。
「ごめんね、楓馬。少しだけ、二階で待っててくれる?」
「……うん。僕、宿題あるから、部屋でやってるね」
声のトーンは少し下がったが、楓馬は無理にでも笑って、階段を駆け上がっていった。
彼の足音が遠ざかるのを待つようにして、彫間がぽつりと口を開いた。
「賢い息子さんですね」
その目はまだ、楓馬が消えた階段の先を見ていた。
「私以上に周りを見てる子です。自分より、誰かを助けるのが楽しいって、いつも言うんです」
「……なるほど」
彫間は小さく頷きながら、ゆっくりと視線を階段から戻す。
その一瞬、彼の目の奥に揺れた光は、年相応のものではなかった。
優しい笑みの裏で、何かを測るような静けさが潜んでいた。
「では、本日のご相談内容ですが――」
階段を上がりきると、楓馬はそっとドアを閉めた。
「……よし」
小さく声に出して気合いを入れると、机の椅子を引いて座る。
ランドセルを開けて、ノートと教科書、プリントを机に並べる。
今日の宿題は算数の応用問題だった。
ちょっと難しいけど、授業中に友達に教えられるように、ちゃんとわかっておきたかった。
(隣の席の子は図を書くと分かりやすいって言ってたし、ここの説明も用意しておこう)
(後ろの席の子は式がすぐごちゃごちゃになるから、順番をはっきりさせた方がいいな)
問題を解きながら、自然と”誰かの顔”が思い浮かぶ。
自分が理解するだけじゃなくて、「どうやったら伝わるか」も一緒に考えるのが、楓馬にとっての勉強だった。
階下からは、母さんとカウンセラーの話し声がうっすら聞こえる。
でも、気にならなかった。
気にしたらきっと心がふわふわして、集中できなくなるのが分かってたから。
(今はこれ。今やるべきことをちゃんとやる)
鉛筆の音だけが、部屋に響く。
一問ずつ、ていねいに。
解き終えたページを見て、間違いがないか確認して、次の問題へ進む。
やがて、ページがすべて終わった頃――
「楓馬、終わったよ。もう降りてきて大丈夫」
下から母の声がした。
「うん、今行く!」
ノートを閉じ、ペンをキャップでとめる。
少しだけ背筋を伸ばして、大きく息を吸った。
(大丈夫。僕は、ちゃんとやってる)
そんなふうに思いながら、楓馬は階段へ向かって歩き出した。
足取りは、ゆっくりだけど、ちゃんとしっかりしていた。
階段を下りてリビングに入ると、そこにはもう誰もいなかった。
テーブルには湯呑みがふたつ。
ひとつは空になっていて、もうひとつからはまだ湯気が立っている。
カウンセラーがさっきまでそこにいた形跡は、きれいに片付いていた。
「彫間さんなら、もう帰ったわよ。まだ高校生なのに、ボランティアでカウンセリングをしてるんだって。学校の推薦で動いてるらしいのよ」
母が食卓の椅子に腰を下ろしながら、少しだけ感心したように言った。
「母さん、何を相談したの?」
楓馬は湯呑みを手に取りながら、真正面から問いかける。
母は一瞬だけ目を伏せ、そして静かに微笑んだ。
「父さんが仕事に行ってて、楓馬も学校に行ってると……私、一人でおうちにいるでしょ?」
母は少し笑いながら、湯呑みを手で包み込むようにして続けた。
「そういう時間がね、なんだか寂しく感じるときがあって。何かあったわけじゃないのよ。でも、誰とも喋らないでずっと一人でいると、不安になっちゃうの。今日は、そんな気持ちをちょっと話してただけ」
視線は楓馬から少し逸れていたけれど、その声にはちゃんとあたたかさがあった。
「そっか」
楓馬はそれ以上何も言わず、湯呑みのふちを指でなぞった。
母が自分に”言えることだけを言っている”のは、分かっていた。
でも、それを責めようとは思わなかった。
「でも、話せてスッキリした。楓馬が心配することはないのよ」
「……でも母さん。もし、ほんとに助けが必要になったら、僕にも言ってね」
その声は真剣で、少しだけ大人びていた。
母はその言葉に、ふっと目を細めて微笑んだ。
「ありがとう」
そしてそっと、楓馬の頭に手を伸ばす。
優しく撫でるその手は、少しだけ震えていたけれど、あたたかかった。
「でもね、そうやって言ってくれるだけで、もう十分助けになってるのよ」
楓馬は、ちょっと照れくさそうに頷いた。
リビングのテーブル越しにふと目に入ったのは、母の右手首で淡く光る緑色のバングルだった。
光が当たるたび、ほんのりと翡翠色にきらめいている。
「それ、なに?」
楓馬が指をさして聞くと、母は少しだけ手を持ち上げて見せながら答えた。
「これ? カウンセラーさんからもらったの。カウンセリングの記念品なんですって。緑色には”癒し”の効果があるらしくて、つけてると気持ちが落ち着くかもって。ボランティアなのに、ほんと丁寧な子だったわ」
「ふーん」
楓馬の声は淡々としていたが、母はそれを見ておどけるように肩をすくめた。
「あ〜もう、その”ふーん”の言い方! 興味ないでしょ、絶対。でもね、私が本当に大事にしてるのはこっちだからね?」
そう言って、母は左手首をすっと差し出した。
そこには黒い革紐のブレスレット――
何年か前、楓馬が自分のお小遣いで材料を買って、一生懸命編んで作ったものが、今も変わらず巻かれていた。
「毎日つけてるんだから。どんな高いアクセサリーより、これが一番大事なの」
「……知ってるよ」
楓馬は照れくさそうに目を逸らしながら、でも頬が少しだけ緩んでいた。
母もまた、くすっと笑って、湯呑みに口をつけた。
いつも通りの、何気ない午後だった。
笑って、話して、ただ一緒にいた時間。
──この日が、母さんが心から笑った最後の日になるなんて、そのときの僕は思いもしなかった。