風のはじまり   作:松田義和

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はじまり

僕が通う高校に噂が流れていた。この町の古書店にものすごい美人がいると。

僕も思春期真っ盛り。そりゃ見に行かないと!というわけで一人こっそりと見に行くことにした。

 

小さな町の駅前に、ひっそりと佇む古書店があった。

 

外観は年季の入った木造のまま。入口の横には、開きっぱなしのガラス戸。風が吹くたび、吊るされた風鈴が高く澄んだ音を立てる。

 

「いらっしゃいませ」

 

店の奥から、やわらかな声がした。

 

振り返ると、そこにいたのは──年上の女性。

黒髪を後ろでゆるく束ねて、エプロン姿で本を抱えている。

肌は白く何気ない姿なのに息を呑むほど美しい。

固まってしまった。噂は本当以上だった。

 

だけど。

 

不思議だった。

初めて来たはずなのに、まるで子供のころから知っていたような安心感が胸に広がる。

 

僕は声も出せず、ただその人を見つめていた。

 

「どうかした?」

 

ふと見上げられたその目には、どこか懐かしさを帯びた光があった。

 

……いや、そんなはずはない。

僕は高校に通うようになって初めてこの町に降りたし、この書店のことも、今日初めて知ったばかりだった。

 

それでも──なぜだろう。

胸の奥で、ふわりと風が吹いたような感覚がした。

 

「……あ、すみません。なんでもないです」

 

「ふふ、よかった。じゃあ、ゆっくり見ていってね」

 

言葉も、笑顔も、空気さえも、どこか“知っている”気がする。

 

僕はふと、本棚の一番下──埃をかぶった絵本を手に取った。

その表紙には、こんな文字が描かれていた。

 

──『また、あえる』

 

ページをめくると、風の中に立つ母と子の絵があった。

その構図は、記憶にはないはずなのに、僕の奥深くを震わせた。

 

「……これ、買います」

 

そう言った僕に、彼女──書店の女性はやさしく微笑んだ。

 

「それ、私も大好きな絵本なのよ。不思議ね、なんだかあなたにも似合いそう」

 

店の外では、また風が吹いた。

 

──出会った。

この世界で、まるで偶然のように。

けれどきっと、それは“必然”だった。

 

言葉にはできない。

記憶にも残っていない。

でも、魂のどこかが知っている。

 

あの人は。僕の──

 

そして、僕はそのことをまだ知らないまま、静かに本を抱えて歩き出した。

 

 

古書店で出会った数日後。

今度は、図書館の前だった。

 

秋の始まりを告げる風が吹いていた。

ベンチに座って本を読んでいた僕は、ふと視線の先に見覚えのある横顔を見つけた。

 

あのときの人だ──古書店の。

 

けれど今日はエプロンではなく、落ち着いたグレーのニットにベージュのスカート。髪を一つにまとめて、手には紙袋を提げていた。

その姿にまた見惚れてしまう。なんてことはない普通の姿なのに。

 

気づかれないように目をそらそうとした瞬間──

 

「……あら?」

 

視線が合った。

 

「また会ったわね」

「……はい。なんだか、すごい偶然ですね」

 

彼女は目元をゆるめて笑った。

それは、古書店で見たあのときと同じ、どこか懐かしい笑みだった。

 

「あなた、本が好きなの?」

「……昔はあまり。でも最近、読むようになりました」

「ふふ、なんとなく、そんな気がしてたの。じゃあ……この本、よかったら」

 

彼女は紙袋から一冊の文庫本を取り出して、僕に手渡した。

タイトルは──『風の記憶』。

 

「このあいだ、あなたが見ていた絵本と同じ作者なの。偶然ね、わたしも好きだったのよ」

 

偶然──そう、また偶然。

でも、こんな風に何度も会うなんてことがあるのだろうか。

 

「あの……」

「うん?」

「……前にも、どこかで会ったことが、あるような気がするんです」

 

思わず口に出していた。

彼女は、少しだけ驚いたような顔をして──やがて、頷いた。

 

「……わたしも。そんな気がするの。ずっと昔……」

 

その言葉のあと、ふたりのあいだに風が通り抜けた。

図書館の前の大きな銀杏の木が揺れ、はらはらと葉が落ちる。

 

「また、どこかで会いそうね」

「……そうですね」

 

別れ際に交わしたその一言が、なぜだかとても確かな予感に感じられた。

 

──たぶん、また出会う。

この町のどこかで、風が吹くたびに。

 

 

その日、僕は傘を忘れていた。

 

昼過ぎから降り始めた雨は、次第に本降りになり、アーケードを抜けるころには靴下まで湿ってしまっていた。

近道しようと住宅街の細い道に入ったとき──

 

「……あれ?」

 

細い交差点の向こう、向かいから歩いてくるひとりの女性。

小ぶりの白い傘をさして、薄いグレーのカーディガン。

その傘のふちに、しずくがやさしく跳ねていた。

 

僕は、息をのんだ。

 

──また、彼女だった。

 

書店で出会い、図書館で本を手渡してくれたあの人。

僕は雨に濡れながら、ただ立ち尽くしていた。

 

そして彼女も、すぐに僕に気づいたようだった。

 

「……こんなところで?」

 

そう言って近づいてくる。

彼女の声が、雨音の中でも不思議と澄んで届いた。

 

「傘……持ってないのね」

「……はい。油断しました」

 

ふふっと彼女が笑い、小さく傘を傾けてくれた。

ふたりの肩先に、静かな空間ができる。

 

「あのときも雨だった気がする……いつだったかしら」

 

ぼんやりと呟くその声が、僕の胸にやけに深く沁みた。

 

──いつだったか。

そう、きっと何かを、僕たちは思い出せないだけなんだ。

 

「家、近い?」

「いえ、駅から電車で」

「じゃあ、途中まで送るわ。私もそっちの方だから」

 

彼女の傘の下、ふたりはゆっくりと歩き出した。

 

雨が、静かに降り続いていた。

彼女の肩先から漂う、どこか懐かしい石けんの香り。

その香りに、なぜか心がふるえた。

 

──まるで、子どものころ、

雨の日に誰かに迎えにきてもらった記憶のような──

 

「ねえ、不思議なことってあるわよね」

「……はい」

「たとえば、初めてじゃない人と何度も会うときとか」

「まさに今、その真っ只中です」

 

思わず口にすると、彼女は優しく笑った。

 

「きっと、意味があるのよ」

 

雨は、ふたりを静かに包んでいた。

まるで、遠い前世の話をそっと聞かせてくれるように。

 

 

なんでだろう、僕は知らないうちに涙を流していた。

 

 

 

 

 

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