僕には、両親の記憶がない。
それはつまり──生まれてすぐに、両親を亡くしたということだ。
交通事故だったと聞いている。
当時まだ生後数ヶ月だった僕だけが、奇跡的に生き残ったそうだ。
車の後部座席にいた僕だけが、かろうじて。
──それは、誰も責められない運命だった。
父と母の顔を、僕は知らない。
アルバムも、遺品も、わずかしか残っていなかった。
それでも僕は、誰よりも愛されて育ったと思っている。
叔父夫婦が僕を引き取り、
実の息子のように抱きしめ、名前を呼び、手を引いてくれた。
そして──数年後、叔父と叔母には実の子どもが生まれた。
小さな弟のような存在だった。
もちろん、彼のことも大好きだった。
何度も一緒に風邪を引き、一緒に笑った。
でも……ふと気づいたとき、僕の中にひとつ、薄い膜のようなものができていた。
それは、距離でも、嫉妬でもなく──“境界”だった。
僕は「この家の子ども」ではあるけれど、
「この家から生まれた子ども」ではない。
だから、いずれ僕はこの家を出るべきだと思っていた。
それが寂しさではなく、礼儀のように思えていた。
遠い高校を選んだのも、実家から離れた一人暮らしをするため、
最初は通うけどやはり遠いから一人暮らしをしたいという風に持っていくため。
家族というものを、心のどこかで羨ましがっていた。
名前を呼ばれるたびに感じる、ほんのかすかな空虚。
なにか足りないものが、胸の奥に、ずっと。
だけど──
彼女と出会ってから、その感覚が少しずつ変わり始めている。
彼女の言葉に、どこか“懐かしさ”を感じるのはなぜだろう。
目が合うとき、胸がぎゅっとなるのはどうしてだろう。
昨日、僕が涙を流したのは──
記憶ではなく、魂が反応していたのかもしれない。
思い出せない記憶の向こうに、
もしかしたら、僕はもう一度“帰る場所”を見つけかけているのかもしれない。
そんな僕の境遇を彼女に話した。
すると彼女も自分のことを話してくれた。
彼女がこの町に越してきたのは、1年前の春だった。
それまでどこに住んでいたのか。何をしていたのか。
あまり多くを語る人ではなかった。
町の人たちは、やがてそれを「彼女らしい」と受け入れた。
物静かで、柔らかで、でも芯のある人。
そういう空気をまとった人だった。
そしてとんでもなく美しい人。
彼女が働く古本屋は、商店街のはずれにある小さな店。
古くて低い天井、きしむ床、風が吹くとガラス戸が鳴る。
でもどこか、時間がゆっくり流れていく空間だった。
最初は週に数日だけ店番に入っていた。
でも、いつの間にか彼女の居場所になっていた。
◆
「あなたは、どうしてこの町に?」
と、以前ある常連の老婆が尋ねたとき、
彼女は笑って、こう答えた。
「……わたし、忘れものをしてきたような気がするんです。
たぶん、それを探しに来たんだと思います」
老婆は笑って、
「なんだい、恋の病かい」と言った。
でも彼女は、ふいに目を伏せて、こう付け足した。
「……恋かどうかは、まだわかりません。
ただ、どこかにいるはずの“だれか”を、
わたしはずっと探していた気がするんです──」
◆
彼女は両親を若くして亡くし、
親戚を転々として育ったという。
結婚はしていない。
恋をしなかったわけではない。
でも誰かを待っている気がする。
名前も、顔も、記憶もない。
けれど夢を見る。
夜、静かな雨の中で、縁側に座って笑いかけてくれる“だれか”の夢。
彼女はその人に、いつもこう言う。
「……おかえり」
そして、目が覚めたとき、
胸の奥に“どうしようもない寂しさ”が残る。
それでもまた目を閉じる。
その“声”に会いたくて。
その“まなざし”にもう一度触れたくて。
──そして、それが誰なのか。
最近になってようやく、答えに近づきはじめている。
一人の高校生が、店に現れてからだ。
記憶じゃない。感情でもない。
もっと深い、もっと古いところで──知っていた。
「あなたを……知っている」
言葉にはできなかった。
二人でそんな話をしながら歩いている。
それが当たり前のような気がする。
いつの間にか二人は並んで歩くことが当然のようになっていた。