セル3の港湾エリアは、夕暮れの喧騒に包まれていた。
仕事を終えた労働者たちの喧噪、帰港する船が鳴らす低い汽笛、そして潮風に乗って運ばれてくる、様々な匂い。
ジンは、その人の波をかき分けるように、あてもなく歩く。
彼の心の中には、昨日からずっと、黒い靄のようなものが立ち込めていた。
勝利という言葉が、重い鎖のように彼に絡みついて離れない。
「ジン様!」
不意に、背後から息を切らした声が聞こえた。
振り返るまでもない。
こんなひたむきで、真っ直ぐな声の主は一人しかいない。
ジンが足を止めると、案の定、スィラが駆け寄ってきて、彼の腕を、ぎゅっと掴んだ。
その小さな手には、彼の迷いを決して見逃さないという、強い意志が込められている。
「……お話し、しましょう」
スィラは、有無を言わさぬ力でジンの腕を引き、近くにあった公園のベンチへと彼を導いた。
錆びついた手すりの向こうには、夕日に染まって黄金色に輝く海が広がっている。
二人は、並んでベンチに腰を下ろした。
しばらくの間、どちらも口を開かなかった。
ただ、遠くでカモメの鳴く声と、寄せては返す波の音だけが、二人の間の沈黙を埋めている。
ジンは、ぼんやりと水平線の彼方を眺めていた。
スィラは、そんな彼の横顔を、ただニコニコと、ひたすらに見つめ続ける。
その純粋で、どこか全てを見透かすような視線に、ジンは次第に居心地の悪さを感じ始めた。
まるで、心の奥底まで裸にされているような感覚。
気まずさに耐えきれなくなった彼は、自ら沈黙を破ることにした。
「……嬢ちゃんに、一つ聞いておきたいことがあったんだ」
ジンは、視線を海に向けたまま、努めて平静な声で切り出した。
「いまさらだが、なんでそんなに、ラビリンスパレードを制覇したいんだ? まともな奴がめざすような夢じゃないだろ。嬢ちゃんは、まだ若い。他にいくらでも、やりたいことがあるだろうに」
それは、ずっと心のどこかで抱いていた、純粋な疑問だった。
しかし、スィラはその問いに直接は答えなかった。
彼女は、楽しそうに、そして少しだけ悪戯っぽく微笑む。
「ジン様になら、わたくしの全てをお話しすることもやぶさかではありませんわ。ですが……」
彼女は、人差し指をそっと自分の唇に当てた。
「乙女の秘密を知りたいのでしたら、まずはジン様のお悩みを聞かせていただくのが、紳士の嗜みというものではございませんか?」
その言葉に、ジンはぐっと息を詰まらせた。完全に、彼女のペースだ。
「わたくしは、聞きたいのです」
スィラの声から、ふざけたような響きが消え、真摯な光が宿る。
「あなたのチーム代表として。あなたのパートナーとして。そして……あなたに、心から惚れ込んでいる一人の者として。あなたが抱えているものを、教えてくださいまし」
その言葉は、紛れもない彼女の本心だろう。
だが、同時に、悩みを打ち明けさせようとする、ジンへの深い気遣いが込められていることにも、彼は気づいていた。
自分のことを話させることで、彼の心の負担を軽くしようとしているのだ。
「……お前、ほんとに十四歳かよ」
ジンは、心底呆れたように、そして感心したように、ため息をついた。
その年齢では考えられないほどの洞察力と、精神的な成熟度。
彼女は、一体どんな人生を歩んできたのだろうか。
「精神年齢はわかりかねますが、肉体年齢は間違いなく十四歳ですわ」
スィラは、胸を張って答える。
その無邪気な反応に、ジンはふっと口元を緩めた。
もう、降参だった。
この少女の前では、どんな強がりも、見栄も、通用しない。
おのれの全てを賭けて、自分を信じてくれている、この小さな代表に。
せめてもの敬意として、全てを話そう。
ジンは、そう覚悟を決めた。
「……少し、長くなるぞ」
前置きをして、ジンは、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
それは、彼がいままで誰にも明かすことのなかった、心の奥底にしまい込んでいた独白だった。
自分がどういう人間で、ブレーダーとしてどんな才能を持ち、そして、その才能とは裏腹に、勝利への渇望という最も重要な感情が欠落していること。
ガンマリーグで勝利した時に感じた虚無感。
ベータリーグで「調整役」という役割に安住し、エースとして勝つことを求められるたびに、チームを転々としてきたこと。
期待と失望の繰り返し。
自分自身でも持て余している、ちぐはぐな感情と才能。
そして、ブルー・ゲイルでの最後のレース。
もう二度とこの世界には戻らないと決めた……いや、逃げたこと。
ジンの言葉は、たんたんとしていた。
時折、言葉に詰まり、遠い目をして、海を見つめる。
スィラは、そんな彼の話を、ただじっと、黙って聞いていた。
相槌を打つでもなく、質問を挟むでもなく。
ただ、彼の言葉の全てを、その小さな身体で、全身全霊で受け止めるように。
彼女のグリーンの瞳は、夕暮れの海のように、どこまでも深く、そして穏やかだった。
その静かな眼差しに、ジンは、まるで懺悔をする罪人のように、自分の弱さも、情けなさも、全てを洗いざらい、さらけ出していた。
夕日が水平線に沈み、空が深い藍色に染まり始める頃。
ジンの長い話は、ようやく終わりを告げた。
港には、ぽつり、ぽつりと明かりが灯り始めている。
潮風が、少しだけ肌寒く感じられた。
ジンの長い告白が終わっても、スィラはしばらくの間、なにも言わなかった。
やがて、彼女はすっと立ち上がると、ベンチの前に立ち、錆びついた手すりに軽く手をかける。
その視線は、夜の帳が下り始めた水平線の彼方に向けられていた。
「ジン様」
静寂を破ったのは、彼女の涼やかな声だった。
「わたくしが、汐凪島で初めてジン様をお誘いしたときの言葉を、覚えていらっしゃいますか?」
不意の問いに、ジンは記憶を探るように、わずかに眉を寄せた。
「あー……ラビリンスパレードを制覇しましょう、とかだったか?」
「ふふ、その一つ前の言葉ですわ」
スィラは、悪戯っぽく微笑みながら振り返る。
彼女のグリーンの瞳が、港の明かりを反射して、星のようにきらめいた。
――『あなた様の走りを見た瞬間、わたくしは確信したのです。この方となら、きっと辿り着ける。あの、誰もが夢見る場所“ティールタ”へ……!』
ジンの脳裏に、あの時の彼女の真剣な眼差しと、力強い声が、鮮やかに蘇った。
「……ティールタ」
ジンは、思わずその名を、ぽつりと零した。
ネートリトヴァにとっての聖地。高次元の存在へと至るための、約束の場所。
スィラは、静かに頷いた。
そして、衝撃的な事実を、まるで天気の話でもするかのように、あっさりと告げた。
「じつのところ、わたくしは、ラビリンスパレードを制覇したいわけではないのです。わたくしの本当の目的は、ティールタへ行くこと、ただそれだけですの」
その言葉の意味を、ジンはすぐには理解できなかった。
「レースを制覇することが、ティールタへ行くための唯一の道なんだろ?」
「いいえ、違いますわ」
スィラは、きっぱりと首を横に振った。
「それは、人類側の勝手な思い込みに過ぎません。ラビリンスパレードが始まって数百年、七つの航路を全て完走した者が、結果的にティールタへ至った唯一の人類だった。ただ、それだけのこと。もし、レース制覇が絶対条件なら、それに参加すらしていなかった大昔のヴィーラたちが、幾度もネートの方々をティールタへ導けたことの説明がつきませんわ」
「ですから」と、スィラは続けた。
「ジン様が、どうしても気が乗らないというのでしたら、レースで勝つ必要などありません。それどころか、レースに出る必要すらないのです」
その言葉は、ジンの心を縛り付けていた鎖を、いとも容易く断ち切るかのような響きを持っていた。
勝利への渇望がないのなら、勝たなくてもいい。
レースが苦しいのなら、走らなくてもいい。
それは、ジンにとって、あまりにも甘美な、そして一種の毒を含む、救いの言葉だった。
「ですが」
スィラは、くるりとジンの方へ向き直る。
その顔には、先ほどまでの理知的な表情とは違う、ただ純粋な願いを込めた、少女の笑みが浮かんでいた。
「叶うのであれば、わたくしをティールタへ連れて行ってくださいまし」
その言葉に、ジンは一瞬あっけにとらわれる。
なぜならその“お願い”は、どんな権力があろうと、どれだけ資産があろうと、叶えることが出来ないものだったから。
ラビリンスパレードの制覇の方が、まだ現実的に可能な願い。
だが彼女は、そんな途方もないことを、自分に本気で望んでいる。
純粋に、ジン・カミシロならそれができるんだと、確信しているように微笑んでいる。
彼女の目的は、莫大な賞金でも、人類の栄光でも、チームの名誉でもない。
ただ、個人の、あまりにも壮大で、そして謎に満ちた願い。
ジンは、自嘲気味に、そしてどこか面白そうに呟いた。
「……だとしても、どのみちアルファブレードは必要になるな」
「はい」
スィラは、楽しそうに頷く。
「それにはたくさんの、たくさんの、たーくさんのお金と、強力なコネや伝手、そして誰もが認めざるを得ないような実績も必要になるかもですわ。もちろん、優秀なナビネートの方も。あっ、ブレーダーはジン様がいらっしゃるので、必要ありませんね♪」
彼女は、まるで夢の計画を語るように、指を折りながら続けた。
「なんなら、地道に『採掘屋』になって資金を貯めたり、航路調査隊に参加して、少しずつティールタへの道を探すというのも、楽しそうですわね!」
その途方もない計画を、彼女は心から楽しんでいるようだった。
ジンは、そんな彼女の姿に、なぜかレースに挑むよりも遥かに現実的な未来が見えた気がして、少しだけ残念そうに言った。
「……そうなると、エメラルド・アイはレースチームから、一般法人に登記変更しなきゃならんな」
「ふふ、ジン様とご一緒なら、わたくしはなんだって構いませんわ」
スィラは、幸せそうに微笑む。
「ティールタへ行きたい。それは、わたくしの本気です。ですが、それはそれとして、あなたに一目惚れしたのも、本当のこと。ジン様と、いつまでも一緒にいたい……わたくし、欲張りなんですの。どちらも、叶えたいのです」
その真っ直ぐな瞳。
一点の曇りもなく、ただ純粋に自分を慕ってくれている少女。
ジンは、少しだけバツが悪そうに、視線を逸らしながら、ずっと気になっていた最後の疑問を口にした。
「……人の身で、ティールタなんぞに行って、どうするつもりだ?」
その問いに、スィラは、悪戯っぽく小首を傾げた。
「……笑いませんか?」
「内容次第だな」
ジンのそっけない返事に、スィラは「あら、酷い」と、くすくすと楽しそうに笑った。
そして、夜の海を見つめながら、まるで世界の真理を告げるかのように、静かに、そしてはっきりと、その一言を紡いだ。
「わたくしは――神に、なりたいのです」
神に、なりたい。
その、あまりにも突拍子のない言葉に、ジンの思考は完全に停止した。
この少女は、今、何を言った? 神? どういう意味だ?
いや、言葉の意味はわかる。だが、それは……。
「……そりゃまた」
ジンは、ようやく絞り出すように、その一言を呟いた。
なんというか、でかい夢だ。
スケールが、違いすぎる。
勝利への渇望がない。
自分の人生に熱中できない。
いままで自分が抱えてきた悩みが、途端にひどくちっぽけなものに感じられた。
もちろん、自身の苦悩や葛藤に意味がないわけではない。
それは、ジンにとって紛れもない重い現実であり、乗り越えるべき強大な敵だった。
だが、なんというか、これはずるい。
自分が路地裏でチンピラと必死に戦っているのに、平然と宇宙怪獣を相手に大空で殴り合っているやつがいたら、そりゃそっちを見てしまうだろう。
いま、まさにそんな気分だった。
「……人がティールタへ行ったところで、神にはなれんだろ」
ジンは、なんとか現実的な反論を試みた。
「あれは、神の一歩手前まで進化したネートだからこそ、成し遂げられる奇跡だ。人間の身体じゃ、ティールタのエネルギーに耐えきれず、消滅するのがオチだ」
なぜジンが、ティールタに至った際に発動する儀式を知っているのか。
それは簡単だ、そう伝わっていて、誰もが知っているからだ。
四十年以上前、伝説のブレーダーがペアのネートをティールタへと導いたとき。
ラビリンス領域は消え、惑星の六ヶ所から宇宙へと伸びた巨大な光が観測された。
ラビリンス領域が消えたのは、ほんの三日ほど。
が、そのエネルギーがなにに使われたのかは、誰もが察した。
かのネートリトヴァが高次元の存在になるために、使われたのだと。
「あら。そんなの、試してみなければわかりませんわ」
だというのにスィラは、なんの根拠もないくせに、自信満々に胸を張って言い放った。
そのあまりの堂々とした態度に、ジンはもはや、返す言葉も見つからない。
完敗だった。
勝ち負けの話ではない。
だが、このスィラという少女の、途方もない夢と、それを信じて疑わない純粋さに比べ、自分はなんというみみっちいことで悩んでいたのだろうか。
そう思った瞬間、ジンの口元から、自然と笑みがこぼれた。
そして、それはやがて、抑えきれない大きな笑い声となって、夜の港に響き渡った。
「は、はは……っ、ははははは!」
「も、もう! なにがおかしいのですか、ジン様!」
自分の壮大な夢を笑われたと思ったのか、スィラはぷくりと頬を膨らませ、拗ねたようにジンを睨みつけた。
「わ、悪い悪い……。違う、違うんだ」
ジンは、涙を拭いながら、必死で弁解する。
「お前の夢を笑ったんじゃない。いや、むしろ、逆だ。すげぇなって。参ったなって……そう思ったんだ」
彼は、ようやく笑いを収めると、どこか吹っ切れたような、晴れやかな顔でスィラを見つめた。
「そうか……。神に、なりたいのか」
ジンは、改めてその言葉を噛みしめるように呟く。
そして、純粋な好奇心から、もう一つ、問いかけた。
「……なんでまた、そんな大層なもんに、なりたいんだ?」
その問いに、スィラは、にっこりと微笑んだ。
それは、先ほどと少しだけ違う、なにかを隠すような、秘密めいた笑みだった。
「ふふ、ジン様になら、いつか、わたくしの全てを知っていただきたいと思っておりますわ。ですが……」
彼女は、ジンの胸を人差し指で、とん、と軽く突いた。
「乙女の、それもとびっきりの秘密を知りたいのでしたら、それ相応の覚悟を見せていただかなくては。……そうですね、わたくしをティールタへ連れて行ってくださる、くらいのことは」
その挑発的な言葉に、ジンは、今度こそ満ち足りた表情で、短く答えた。
「……そうかい」
勝利の意味も、自身が抱える葛藤の解決法も、いまはまだわからない。
視界の端では、いまもあのブレーダーの幻覚がちらついている。
だが、それでいい。
この、とんでもない夢を抱いた少女の行く末を、一番近くで見てみたい。
ただ、それだけで、すくなくとも明日のレースに挑むには、十分すぎるほどの理由になる。
「まあ、その辺の話は、おいおいだな」
ジンは、すっとベンチから立ち上がった。
そして、夜の闇に包まれた倉庫の方へと視線を向ける。
「まずは、明日のレースに“勝って”からだ。……帰るか」
彼は、スィラに手を差し伸べるでもなく、ただ、ガレージに向かって歩き出した。
その背中には、もう迷いの影はなかった。
「はーい」
スィラは、どこか気の抜けた、しかし満足そうな返事をすると、軽やかな足取りで立ち上がり、ジンの隣へと並んだ。
港の明かりに照らされて、二つの影が一つに重なりながら、ゆっくりと夜の中に消えていく。
二人の行き着く先がどこになるのかは、まだわからない。