ふと誰かの声に反応し、ジンは意識の淵からゆっくりと浮上した。
目を開けると、見慣れないコンクリートの天井が視界に広がる。
身体にかけられているのは、少しオイルの匂いが染みついた、分厚い毛布だった。
(……ああ、そうか。俺は、倉庫で……)
そこまで思い出して、ジンは自分の身体に、なにか温かくて柔らかいものがぴったりと寄り添っていることに気がついた。
そっと視線を下ろすと、そこには、同じ毛布にくるまって、すやすやと幸せそうな寝息を立てているスィラの姿があった。銀色の髪が、彼の胸元でさらさらと流れている。
昨夜、あの後倉庫に戻ったジンを、父のヤギュウがとんでもなく愉快そうな表情で出迎えた。
そして、「明日のレースの壮行会だ」と宣言し、どこからか持ち出してきた酒瓶と肴で、ささやかな宴会が始まったのだ。
ジンはレース前日ということもあり、酒は控えるつもりだった。
しかし、「これくらい、どうということはないだろう」と、本当に珍しく上機嫌な父親に勧められるまま、コップ一杯程度だけ付き合うことにした。
スィラは未成年なので当然飲んではいなかったはずだが、いつの間にか宴会の賑やかさの中で眠ってしまい、ヤギュウが気を利かせて、二人を同じ毛布で寝かせたのだろう。
レース前日は、ライバルチームによる妨害工作や、ブレードの盗難といったトラブルが稀に起こる。
そのため、こうしてガレージで寝ずの番をしながら夜を明かすのは、決して珍しいことではなかった。
ジンは、スィラの穏やかな寝顔を起こさないよう、慎重に毛布から抜け出した。
そして、ガレージの中央に視線を向けると、そこにはすでに先客がいた。
完成したガンマブレード『カジキ』の周りで、LPGの検査官と思われる青年期ネートが、専用の端末をかざしながら、機体の隅々までチェックを行っている。
レギュレーション違反がないか、出場基準を完全に満たしているかを確認する、レース当日の車検だ。
その横には、父のヤギュウが、腕を組んで静かに立ち会っていた。
(……もう、そんな時間か)
ジンは、壁際に置かれた自分の荷物から、黒を基調としたレーシングスーツを取り出す。
このスーツも、耐G性能や耐火性など、LPGが定めた厳格な基準をクリアしているかどうかの検査対象なのだ。
彼がスーツに着替え終わる頃には、ブレードの検査も終了したようだった。
検査官のネートは、ヤギュウに何事か報告した後、ジンの方へ歩み寄ってくる。
『ブレーダースーツの検査を行います』
淡々とした口調で、ネートはスーツの各所にセンサーを当てていく。
全ての項目が基準を満たしていることを確認すると、彼女は一つ頷き、規定の注意事項と、レースに関する最終連絡事項を伝えた。
『……以上です。チーム・エメラルド・アイのご健闘をお祈りしております』
それだけを言うと、検査官は踵を返し、出口へと向かう。
しかし、その去り際、なぜか彼女は一度だけ名残惜しそうにこちらを振り返り、小さく会釈をしてから出て行った。
「父さん、立会いありがとう。助かった」
ジンは、静かにカジキを眺めているヤギュウに声をかけた。
ヤギュウは、息子の方を振り返ると、その厳つい顔に、ほんの少しだけ心配の色を浮かべる。
「……昨夜は、少し飲ませすぎたか?」
「いや、大丈夫だ。コップ一杯も飲んでないし……むしろ、調子はいい」
ジンの答えは、力強く、迷いがなかった。
その目に宿る光は、昨日までの彼とは明らかに違う、澄み切った輝きを放っている。
(あれ……そういや“熟睡”できたのは、いつぶりだ?)
ここ十年、幻覚に悩まされてずっと睡眠不足だったはずだが、昨日は久々にぐっすり眠ることが出来た。
ヤギュウは、その変化を敏感に感じ取ったのか、珍しくさらに問いを重ねた。
「どれくらいだ?」
その追及に、ジンは「ん?」と、少しだけ訝しげな表情を浮かべた。
だが、すぐに父の意図を察したのか、悪戯っぽく、にやりと笑ってみせる。
そして、少しだけ考える素振りを見せた後、こう言い放った。
「……過去最強、かもな」
その言葉に、ヤギュウの口元が、満足げに、ふふん、と緩んだ。
彼は、それ以上なにも言わなかった。
ただ、息子のその一言だけで、全てを理解したようだった。
「父さん最近よく笑うよな」
「……ここのところ、愉快なことが多い」
「それはまあ、確かに」
そんな親子のやりとりをしていると、後ろの方で毛布がもぞもぞと動き、スィラがゆっくりと身を起こした。
「……んぅ……」
目をこすりながら、きょろきょろと辺りを見回す。
そして、ブレーダースーツ姿で出発の準備を整えているジンの姿を見つけると、その顔に、安心しきった笑みが浮かんだ。
彼女は、まだどこか寝ぼけたままの、ふらふらとした足取りでジンに歩み寄ると、その胸に顔をうずめるように、ぎゅっと抱きついた。
「おはようございます、ジン様……」
甘えるような、少し舌足らずな声。
ジンは、そんな彼女の無防備な姿に表情を和らげる。
そして大きな手で、スィラの銀色の髪を、優しく、ポンポンと撫でた。
その目には、昨日までの迷いは、もうどこにもない。
「ああ、おはよう、スィラ」
彼は、胸に抱きついたままの小さな代表に向かって、まるで冒険に出かける前の、子供のような笑みを浮かべて、こう告げた。
「顔洗ってこい、今日は忙しくなるぞ」
セル3、中央庁舎前広場に特設されたレース会場は、すでにお祭り騒ぎのような熱気に包まれていた。
横幅五十メートルを超える中央道に設けられたスタートラインには、色とりどりの塗装が施された四十数機のガンマブレードが、静かにその時を待っている。
その様は、さながら獲物を狙う猛禽の群れのようだ。
会場に設置された超巨大ディスプレイには、これから始まる壮絶なドッグファイトを、余すところなく捉えるための準備が整っていた。
出場するブレードを追う、高性能なカメラを搭載した撮影用ドローンが複数台、上空でホバリングしている。
コースの各所に設置された定点カメラの映像と併せて、レースの様子はリアルタイムで観客の元へ届けられるのだ。
ディスプレイには、コースの全体図も表示されており、各マシンが今どの位置を走行しているのか、一目で分かるようになっていた。
『さあ、いよいよ始まります! ガンマリーグ、第七セクター・セル3カップ! 本日の解説は、わたくし、LPG公認アナウンサーのトニーがお送りします!』
軽快な音楽と共に、解説役の威勢のいい声がスピーカーから響き渡る。
彼は、巧みな話術でコースの概要や、注目選手を紹介し、観客たちの期待を巧みに煽っていた。
このセル……いや、この惑星の住民にとって、レースはどれも一大イベントだ。
会場を埋め尽くした大勢の観客たちは、いまかいまかとスタートの合図を待ちわび、その興奮はすでに最高潮に達しようとしていた。
その喧騒から少し離れた、チームごとに割り当てられた待機スペース。
エメラルド・アイの区画には、大型の地図が広げられたテーブルと、ジンと常時通信するための無線機が設置されていた。
スィラは、ヘッドセットを装着すると、テストを兼ねて、スタートラインにいるジンに呼びかけた。
「ジン様、聞こえますか? こちら、チーム・エメラルド・アイ作戦室。わたくし、スィラですわ」
数秒の間を置いて、スピーカーからノイズと共に、ジンの声が返ってくる。
『ああ、聞こえてる。感度は良好だ。そっちはどうだ?』
その声は、これから初レースに挑むとは思えないほど、驚くほどに落ち着いていた。
まるで、散歩にでも出かけるかのような、あまりにもライトな返答。
スィラは、その声に思わず笑みをこぼした。
彼が、最高のコンディションにあることが、その声色だけで伝わってくる。
「こちらも、全て順調ですわ。ジン様、わたくし、あなたの目となり、耳となります。全力でサポートいたしますので、思う存分、走ってきてくださいまし」
そして、彼女は悪戯っぽく、こう付け加えた。
「それと……これは、チーム代表からのお知らせです。わたくしたちの記念すべき初レース、もし勝てたら、賞金とは別に、わたくしから特別なボーナスを差し上げますわ。どうぞ、お楽しみに」
『へえ。そりゃ、楽しみだ』
ジンの声には、明らかに期待していない響きが混じっていた。
その素っ気ない反応に、スィラは「もう!」と、可愛らしく頬を膨らませる。
『じゃあ、一旦無線を切るぞ。レースが始まったらナビよろしくな』
通信が途切れ、作戦室に静寂が戻る。
スィラは、目の前のモニターに映し出された、銀色に輝く『カジキ』の機体を、じっと見つめていた。その瞳には、ジンの勝利を微塵も疑っていない、絶対的な信頼の光が宿っている。
そんな彼女の横顔を、静かに見ていたヤギュウが、ぽつりと、一言だけ呟いた。
「……感謝する」
その言葉は、誰に向けられたものか、なんに対してのものか、一切の説明がなかった。
しかし、スィラは、その言葉の奥にある、どこか複雑で深い想いを、正確に感じ取っていた。
彼女は、ヤギュウの方を振り返ることなく、モニターを見つめたまま、余裕たっぷりの笑みを浮かべて答える。
「なにに対しての感謝かは、あえてお聞きしませんわ。ですが……どういたしまして」
そのやり取りを最後に、二人は再び沈黙に戻った。
ただ、目の前のモニターに映る一機のブレードを、静かに見守るだけだった。
カジキの狭いコクピットの中、ジンはスィラとの通信が切れた後、小さく息を吐いた。
「……特別なボーナス、ねぇ」
金ではないとすれば、一体なんなのか。彼女が言っていた「乙女の秘密」とやらだろうか。
「なんでもいいか」
そんなことを考える自分の思考が、以前とは少しだけ違う色を帯びていることに、ジンは気づいていた。
彼は、ゆっくりと視線を巡らせ、スタートラインに並ぶライバル機を見渡す。
ひときわ目立つ、燃えるような真紅の塗装が施されたブレード。
おそらく、LPGの事務所で大立ち回りを演じた、あのレッド・ドッグの愛機だろう。
機体のデザインは、速さだけを追求したような、ピーキーで扱いの難しそうな形状をしている。
その隣には、テツ・ハナヤマのものと思われる、歴戦の傷跡が刻まれた無骨なブレード。
派手さはないが、安定性と耐久性に優れた、ベテラン好みの堅実な造りだ。
そして、その数機先。機体側面に、第7セクターの有力企業「ミカゲ重工」のロゴがでかでかと描かれた、一際洗練されたデザインのブレード。
テツが言っていたワークスチームのマシンだ。
他の機体とは明らかに造りが違う。
最新鋭のパーツで固められたその機体からは、性能の限界への挑戦が滲み出ていた。
ジンは、それぞれのマシンの形状から、旋回性能、加速性能、そして最高速度を冷静に予測し、そのデータを頭の中にインプットしていく。
誰かのサポートをするためではなく、ただ、自分自身のためだけに走るのは、一体いつ以来だろうか。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。だが、不思議とそこに感傷はなかった。むしろ――。
(……まあ、そのぶん、自由に動けるか)
そう思考が切り替わったことに、ジン自身が少しだけ驚いた。
だが、悪くない。この感覚は、決して悪くない。
誰のおかげかな、などと考えるまでもない。脳裏に浮かぶのは、あの銀髪の、嵐のようなチーム代表の姿だけだ。
(ここまでお膳立てしてもらったんだ。彼女のチームの、記念すべき初レースを、勝利で飾ってやる“程度”のことは、してやらないとな)
その思考は、もはや義務感や、恩返しの気持ちだけではなかった。
あのちっこいチーム代表を喜ばせてやろうという、純粋な自分自身の意志。
そんな望みが、確かに彼の心にある。
その時、コクピット内の無線に、LPGからの公式アナウンスが響いた。
『各機へ。レース開始、一分前』
ジンは、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
スタート地点の正面に設置された巨大なシグナルボードに、五つの赤いランプが、静かに灯る。
その光が、会場の熱狂を呑み込んでいく。
あれほど騒がしかった観客たちの喧騒が、まるで潮が引くように、すっと消えていった。
誰もが、これから始まる戦いの火蓋が切って落とされる瞬間。
それを見逃すまいと、固唾をのんでスタートラインを見つめている。
『カウント、ファイブ』
無機質なカウントダウンが、静まり返った会場に響き渡る。
ブレードに乗る選手たちだけでなく、レース会場全体が、張り詰めた緊張感に満ちていく。
だが、その中で、ジンだけが、不思議なほど穏やかな気持ちで、その時を待っていた。
響き渡るカウントダウンの音。
それに連動するように、五つのレッドシグナルが、一つ、また一つと、テンポよく消えてゆく。
四、三、二、一……。
そして、全ての赤い光が消えた、その瞬間。
鮮やかなグリーンシグナルが、眼前に閃光のように灯った。
「さて、行くか」
静かに呟かれたその言葉と同時に、ジンはベクトル推進コイルとフロート磁力コイルの出力を最大まで引き上げる。
瞬間、銀色のカジキは、まるで鎖から解き放たれた怪物のごとく、スタートラインから猛然と飛び出した。