ラビリンスパレード~追放令嬢と挑む惑星横断レース   作:源治

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18話:グローリー・ライド

 

 ベータやガンマのブレードレースには、いくつかの定石が存在する。

 

 まず、観客の盛り上がりを考慮し、スタート地点とゴール地点は同じ場所に設定されることが多い。

 そして、レースのクライマックスを演出する「グローリー・ライド」の存在から、コースの最後には、観客席から見通せる長い直線が設けられるのが常だ。

 つまり、レースは必然的に、遮るもののない長い直線から幕を開けることになる。

 

 ならば、思うだろう。誰もが、一度は。

 スタート直後、この有利な直線で、いきなりグローリー・ライドに匹敵するほどの全力加速を敢行すれば、他の選手を大きく引き離し、序盤で圧倒的なアドバンテージを築けるのではないか、と。

 

 だが、それは悪手中の悪手とされる。

 

 なぜなら、序盤でプラーナ結晶を大量に消費してしまえば、レース中盤以降に起こりうる、不測の事態に対応できなくなるからだ。

 レースとは、ただ速く走るだけではない。

 ライバル機との激しい競り合い、ブレードの損傷、予期せぬトラブル、天候の急変。

 予定通りのコースを走れなくなることなど、日常茶飯事だ。

 そうした状況を乗り切るための、予備のエネルギーは、必ず残しておかねばならない。

 ましてや、最後のグローリー・ライドで使用すべきプラーナ結晶が枯渇してしまえば、勝利は絶望的となる。

 

 LPGが定めるレギュレーションは、その定石をさらに強固なものにしていた。

 レースブレードに搭載される心臓部――『フロート磁力コイル』と『ベクトル推進コイル』、そして『D機関』――は、厳格な基準によって、その性能とエネルギー効率(燃費)が、どの機体もほぼ一定になるよう調整されている。

 一回のレースで使用できるプラーナ結晶の総量も、厳密に定められているのだ。

 圧倒的な性能差で他をねじ伏せる、といった戦法は、基本的に成り立たない。

 

 それらの理由を総合し、導き出される最適解。

 レース開始直後というのは、各機が程々の速度を保ち、互いに無用な競り合いを避け、最初のカーブポイントへ向けての、静かな位置取り争いに終始する。

 それが、この世界のレースにおける、揺るぎない常識であり、定石だった。

 

 ――しかし。

 

 グリーンシグナルの閃光と共に、ジン・カミシロが取った選択は、その定石を、常識を、そしてレースに関わる全ての者の予測を、根底から覆すものだった。

 

『なっ……!?』

 

 解説者のトニーが、絶句する。

 観客席から、どよめきが上がる。

 そして、作戦室でモニターを見つめていたスィラとヤギュウが、目を見開いた。

 

 スタートラインに並んでいた他のブレードが、互いの出方を窺うように、水平方向へと滑らかに加速を始めた、まさにその瞬間。

 一機だけ、明らかに異質な動きを見せた機体があった。

 

 銀色に輝く、チーム「エメラルド・アイ」の『カジキ』。

 

 ジンは、ベクトル推進コイルの出力を最大にするのとほぼ同時に、フロート磁力コイルのパワーを、瞬間的に上昇方向へと振り向けたのだ。

 

 カジキは、まるで迎撃ミサイルのような軌道を描いて急上昇した。

 

 それは、もはやロケットスタートという生易しいものではない。

 レース序盤では、絶対にあり得ないはずの、全力疾走。

 グローリー・ライドと見紛うほどの、狂気の沙汰とも言える、超絶的な急加速だった。

 

 カジキは、一筋の銀色の流星となって、後続をあっという間に置き去りにしていく。

 常識からの、完全なる逸脱。

 

 やがて規定高度ギリギリまで到達した、その刹那。

 ジンは、何のためらいもなく、フロート磁力コイルのスイッチを切った。

 

 機体を宙に留めるための力が、完全に失われる。

 

 銀色のカジキは、重力に引かれるまま、緩やかな放物線を描きながら、滑空状態へと移行した。

 だが、後部に搭載されたベクトル推進コイルは、依然として最大出力で咆哮を上げ続けている。

 高度を徐々に落としながら、その位置エネルギーを前方への推進力へと変換し、さらなる加速を得る。

 それは、ブレーダーとして卓越した技術と、機体の挙動を完璧に把握していなければ不可能な、神業的なエネルギーマネジメントだった。

 

 ジンの常軌を逸したロケットスタートを目の当たりにして、他の選手たちの反応は、二つに分かれた。

 

 テツ・ハナヤマのような、百戦錬磨のベテランほど、冷静だった。

 彼らは、ジンの暴挙を「序盤の悪目立ち」と判断し、自らのペースを乱すことなく、淡々と定石通りのレース運びを選択する。

 いずれ、あの銀色の機体はエネルギー切れで失速する。そう、確信していたからだ。

 

 だが、その冷静な判断ができない者、そしてあえてそうしない者もいた。

 

 まるで、ジンの放つ圧倒的な存在感に引きずられるように、その後を追って、一機のブレードが、同じく限界加速状態へとシフトした。

 燃えるような真紅の機体。レッド・ドッグだ。

 

 そして、そのレッドの動きに続くように、ミカゲ重工のロゴを纏ったワークスマシンのブレーダーもまた、定石を大きく超えた加速を開始した。

 

 後続のブレーダーたちは、混乱に陥った。

 なぜだ? なぜ、あの三機は、セオリーを無視した無謀な賭けに出る?

 その問いに、答えられる者はいなかった。

 

 レッドは、その野性的な直感で感じ取っていた。

 あの銀色の走りは、ただの無謀ではない。

 その奥に、何か得体の知れない、規格外の何かが潜んでいる、と。

 

 そして、ワークスマシンのブレーダーは、冷静な計算によって、一つの結論に達していた。

 この後のレース展開、起こりうる全てのパターンを予測した結果、導き出された答え。

 

 このレースは、おそらく、いや、確実に。

 あのジン・カミシロという男が支配するレースになる。

 そんな、恐ろしいほどの直感と、冷徹な予測が、彼らを突き動かしていた。

 

 確かに、ジン・カミシロのロケットスタートは、たとえフロートコイルを切っていたとしても、プラーナ結晶の消費量は尋常ではないはずだ。

 にもかかわらず、その選択を取ったということは、彼には、それでもこのレースに勝つだけの、確かな算段があるということ。

 

 かつての「調整役」としての彼ならば、この動きは、エースを勝たせるために、レース全体の順位を攪乱することを狙った陽動だと、誰もが思っただろう。

 だが、いまのジン・カミシロは違う。

 

 勝つつもりだ。

 

 そのブレードの背中から、その走りから、疑いようのない気迫が、後続のブレーダーたちの肌をピリピリと刺すように伝わってくる。

 

 いや、勝つつもり、という単純な言葉では、もはや表現できない。

 もっと根源的な、まるでレースという概念そのものを、掌の上で転がしているかのような。

 そんな、格の違うなにかが、彼の走りには宿っていた。

 

 結果として、島の外周を回るための出口、最初のカーブポイントに、他のブレードを大きく引き離して到達したのは、その三機だった。

 トップでコーナーに進入したのは、ジン・カミシロ。

 数秒遅れて、食らいつくようにレッド・ドッグ。

 そして、冷静な距離を保ちながら、三番手につける、ワークスチームのブレーダー。

 

 最初のカーブポイントを、トップで駆け抜けたジン。

 その瞬間、コックピット内の無線から、スィラの声が弾けるように響いた。

 

『ジン様! さすがですわ! なんてスタート……! ですが、油断は禁物です!』

 

 その声には、驚きと興奮が冷めやらない、熱っぽい響きが混じっていた。

 彼女は、すぐにナビゲーターとしての冷静さを取り戻すと、次のチェックポイントの情報を、的確に伝達する。

 

『次のチェックポイントまで、距離およそ八キロ! 高度百五十メートルに設置された、直径五十メートルのリングを通過する必要があります!』

 

 バルーンで作られた、巨大な浮遊リング。ガンマリーグではお馴染みの障害物だ。

 

『リングの最下部をギリギリで通過するにも、最低百五十五メートルまで上昇が必要です。安全マージンを考慮するなら、百七十五メートルまで高度を上げてください!』

 

「了解」

 

 ジンの返答は、短く、そっけなかった。

 だが、ナビゲーションに対してブレーダーが返事をすること自体、本来は珍しい。

 彼らは、コンマ一秒を争う極限状態の中で、神経の全てを操縦に集中させているのだ。

 むしろ、返事をするだけの余裕があることが、彼の高い能力を物語っていた。

 

 トップ集団を追うカメラドローンが、その三つ巴の熾烈な争いを、克明に捉えている。

 会場の巨大ディスプレイの一部には、その映像がリアルタイムで映し出され、観客たちは固唾をのんで見守っていた。

 作戦室のスィラも、モニターに映るカジキの姿を、祈るように見つめている。

 

 だが、ジンの動きは、再び全ての者の予測を裏切った。

 

 後続のレッドとワークスマシンの二機が、チェックポイント通過のために、すでに機首を上げ、緩やかな上昇を開始している。

 しかし、ジンだけが、高度を上げる気配を一切見せない。

 それどころか、彼はカジキをさらに下降させ、進行方向右側の岸壁に機体を寄せながら、まるで波間を縫うように、海面スレスレの危険な低空飛行を続けていた。

 

『ジン様!? 高度が足りません! このままではリングに激突しますわ!』

 

 焦ったスィラの声が、再び無線に響く。

 会場の実況アナウンサーも、混乱したように叫んでいた。

 

『おーっと、トップを走るカミシロ! どうしたことでしょう! まったく高度を上げません! これは一体、どういう作戦なのかー!?』

 

 しかし、ジンの返答は、やはり落ち着き払っていた。

 

「まあ、見とけ」

 

 その言葉が言い終わるか、終わらないかの、まさにその瞬間だった。

 

 コース脇の切り立った岸壁に、ひときわ巨大な波が、轟音と共に叩きつけられた。

 そして、その衝撃で砕け散った波と、上に向かって吹きあげた風が、絶妙なタイミングで、海面スレスレを飛行していたカジキの機体下部を、力強く突き上げたのだ。

 

 完璧なタイミング。

 

 ジンは、その波と風の力を利用して、フロート磁力コイルの出力を、瞬間的に最大まで引き上げた。

 結果、ただでさえ軽いガンマブレードの機体は、波と風の運動エネルギーとフロートコイルの反発力を同時に受け、まるで玩具のように、面白いほど軽々と、空へと舞い上がっていった。

 

 唖然とする、満員の観客。

 なにが起きたのか、すぐには理解できない実況席。

 そして、その光景をすぐ後ろで見ていたレッドとワークスマシンのブレーダーもまた、信じられないといった表情で、その奇策に目を見開いていた。

 

 作戦室のモニターを見つめていたヤギュウだけが、その光景を、静かに、そしてどこか懐かしむように見ていた。

 波と風の力を利用して、フロートバイクを跳ね上げる。

 それは、まだジンが何者でもなかった頃、故郷の汐凪島で、父親が手慰みに教えた、ただの「遊び」の一つに過ぎなかったのだ。

 

 ジンは、プラーナ結晶をほとんど消費することなく、いとも容易く規定高度まで到達すると、悠々とリングの中心を潜り抜けていく。

 その神がかり的な機動に、後続のブレーダーたちは、ただ呆然と見送ることしかできなかった。

 

 

 

 一つ目の難所を抜け、レースは中盤に差し掛かる。

 

 トップをひた走るジン、それを必死に追うレッドとワークスマシンの二機。

 そして、少し離れて追従する後方集団。

 レースの構図は、序盤から大きく変わらないまま、こう着状態が続いていた。

 

 序盤に見せた曲芸のような走行が嘘のように、いまのジンの走りは、どこまでも堅実だった。

 だが、その堅実さこそが、彼の真骨頂であり、後続のブレーダーたちを絶望させる要因でもあった。

 無駄のないライン取り、完璧なエネルギーマネジメント、そしてコースの特性を最大限に活かした走り。

 その全てが、ナビネートが弾き出したかのような、最適解そのもの。

 

 後続の二機は、必死に食らいつこうとするが、その差は一向に縮まらない。

 それどころか、ジワリ、ジワリと、その距離は僅かずつ引き離されていく。

 

 レッドは、焦っていた。

 彼の荒々しいドライビングスタイルでは、ジンの精密機械のような走りの前では、ただ無駄にエネルギーを消耗するだけだった。

 

 一方、ミカゲ重工のワークスマシンのブレーダーは、冷静だった。

 彼の耳には、チームの作戦室から、優秀なナビゲーターやアナリストたちの分析結果が、リアルタイムで送り続けられている。

 

『カミシロ機のプラーナ結晶残量、推定四十五パーセント。序盤のロケットスタートによる消費は甚大。このままのペースで推移すれば、最終ストレートのグローリー・ライドで、確実に逆転可能です』

 

 データは、彼らの勝利を雄弁に物語っていた。

 レッド機に至っては、序盤からジンに食らいついていた分、さらに残量が少ないはずだ。

 

 このレース、勝てる。

 

 だが、ワークスのブレーダーは、決して油断はしなかった。

 ジン・カミシロの走りは、データだけでは測りきれない、異常なまでの巧さがあった。

 まだなにか、隠し玉があるかもしれない。

 あるいは、この後、信じられないような省エネ走行を続け、最終的なエネルギー残量で並ばれる可能性も、ゼロではない。

 そうなれば、先行しているあちらが、圧倒的に有利だ。

 

 様々な思惑が交錯する中、レースは、ついに最後の難所へと差し掛かった。

 

『さあ、トップ集団は、まもなく“巨人の墓標”に突入します! このセル3レース場において最大の難所! ここで順位が大きく動く可能性も十分にあります!』

 

 実況アナウンサーの声にも、熱がこもる。

 そこは、高さ百二十メートルを超える巨大な突岩が、まるでビルのように無数に立ち並ぶ、悪名高き海域だった。

 

 この難所を突破する方法は、大きく分けて三つ。

 一つは、突岩群を大きく迂回する、最も安全なルート。

 もう一つは、突岩を避けながら、減速して慎重に進むルート。

 そして最後が、一気に高度を上げて、突岩群の上空を飛び越えるルートだ。

 

 データ上の最適解は、迂回ルートとされている。

 

 高度を上げて突破する方法は、プラーナ結晶の消費が激しすぎて、ガンマブレードのレースでは悪手中の悪手。

 そして、速度を落として突岩群を進む方法は、一見すると良さそうに見えるが、これもまた危険な罠が潜んでいた。

 似たような形状の突岩が林立するその場所は、一度足を踏み入れると、方向感覚を失いやすいのだ。

 コンパスやナビのサポートがあっても、機体の向きを何度も変えているうちに、自分がどこに向かっているのか分からなくなる。

 ブレーダーたちは、その場所を、畏怖を込めて「迷宮」と呼んでいた。

 

 ワークスチームのブレーダーは、冷静に思考を巡らせる。

 ジン・カミシロは、ここをどう抜けるのか。

 また、あの波を使った曲芸で、高度を稼ぐのか?

 いや、さすがに百二十メートルまで上昇するには、波の力を借りたとしても、エネルギー消費が大きすぎる。

 それに高度を維持したまま、あの距離を走れば、間違いなくプラーナ結晶が尽きるだろう。

 

 どう出る。

 

 ワークスチームのブレーダーは、あらかじめチームで計算し尽くした、迂回ルートと突岩群の突破を組み合わせた、最短の複合ルートへと機首を向けながら、前方を走る銀色の機体から、一瞬たりとも目を離さずにいた。

 

 だれもがジン・カミシロから目を離せない中、彼が出した答え。

 

 それは、その場にいた全ての者の理解を、そして常識を、遥かに超越するものだった。

 

 迂回でも、上昇でも、減速でもない。

 いまの高度と速度を、完全に保ったまま、真正面から“巨人の墓標”へと突入すること。

 

 その瞬間、時が止まった。

 

 セル3の自宅や店で、テレビ中継にかじりついていた全ての住人たち。

 会場で、巨大ディスプレイに映し出されたその光景を見ていた、満員の観客、実況アナウンサー、レース運営スタッフたち。

 そして、ジンのすぐ後ろを走っていた、レッド・ドッグと、ミカゲ重工のワークスブレーダー。

 作戦室で、モニターを食い入るように見つめていた、スィラとヤギュウ。

 

 全ての人間が、絶句した。

 

 プラタマの秩序を支える、冷静沈着なネートたちですら、そのあり得ない光景に言葉を失い、ただディスプレイに釘付けになっていた。

 

 いち早く我に返ったのは、スィラだった。

 彼女は、ヘッドセットが割れんばかりの勢いで、悲鳴に近い叫びを上げた。

 

『ジン様! ダメです! 危険すぎます!』

 

「信じろ」

 

 ジンの返答は、やはり、たった一言。

 

 しかし、その短い言葉には、いままでとは比較にならないほどの、絶対的な自信と、パートナーへの信頼を求める、力強い響きが込められていた。

 

 スィラは、その言葉を聞いて、ハッと息を呑んだ。

 そして、全ての不安を振り払うように、深く、深く頷く。

 

『……はいっ! わかりました! 信じます!』

 

 その言葉に応えるように、銀色のカジキは、巨大な突岩が林立する死の海域へと、その機首を向けた。

 それは、まるで自殺行為。

 だが、次の瞬間、観る者全てが、自らの目を疑うこととなる。

 

 ジンは、恐るべき空間把握能力と、人間業とは思えない操縦テクニックを駆使し、まるで、あらかじめ全てのルートを記憶し、完璧なシミュレーションを終えていたとでも言わんばかりに、突岩と突岩の間を、最短距離で縫うように進んでいく。

 

 高高度からその様子を撮影していたカメラドローンの映像が、巨大ディスプレイに映し出される。

 

『あ、当たる! 当たる! カミシロ、無謀だーっ!』

 

 実況アナウンサーが、悲痛な叫びを上げるたび、カジキは、すい、すい、と、まるでダンスを踊るかのように、突岩の表面を舐めるようにして、華麗にかわしていく。

 右に、左に、そして時には機体を九十度近く傾けて、僅か数メートルの隙間を、最高速度を保ったまま、駆け抜けていく。

 

 もはや、誰もが、その異次元の走りに、釘付けだった。

 レースの勝敗など、どうでもいい。

 ただ、この奇跡のような光景を、一瞬でも見逃すまいと、全ての者が息を呑んでいた。

 

 ワークスマシンのブレーダーは、混乱を抑えきれなかった。

 だが、長年の訓練によって肉体に染みついた反射が、彼に、予定通りの迂回ルートを選択させていた。

 それが、プロとしての彼の矜持だった。

 

 しかし、新人のレッドは、違う。

 彼には、そんな冷静な判断を下すだけの経験も、肉体に染みついた反射もなかった。

 いや、それ以前に、彼はもはや、考えるという行為そのものを放棄していた。

 ジンの走りに、そのあまりにも美しく、そしてあまりにも冒涜的な光景に、魅了され、魂を焼かれてしまったのだ。

 

 彼は、まるで光に吸い寄せられる虫のように、ふらふらと、ジンと同じ“迷宮”へと突入していった。

 

 ジンが通ったルートを模倣するように、進み、突岩を躱しながら進む。

 四つ、五つ、六つ……。

 奇跡的にいくつかの突岩を回避した。だが、七つ目の巨大な岩塊を、彼の未熟な腕では、どうしても避けきれなかった。

 

 ガキンッ、という鈍い金属音と共に、レッドのブレードは、後部のベクトル推進コイルを、もろに岩肌に叩きつけた。

 機体は制御を失い、きりもみ状態でスピンしながら海へと落下し、減速しながら、別の突岩に軽くぶつかって、ようやく停止した。

 

 レッドは、壊れたキャノピーから這い出すと、呆然としながらも、一つの方向を見つめていた。

 ジン・カミシロのブレードが、迷宮の奥深くへと、銀色の軌跡を描きながら消えていく、その方向を。

 

 一秒でも長く、あの走りを見ていたかった。

 ただ、それだけを願って。

 

 

 

 “巨人の墓標”と呼ばれた迷宮を、まるで散歩でもするかのように、悠々と駆け抜けていく銀色の閃光。

 最後のチェックポイントに、最初にたどり着いたのが誰であったかなど、もはや言うまでもなかった。

 

 ジン・カミシロ。

 

 その男だけが、他の全てのブレーダーを遥か後方へと置き去りにしていた。

 

 眼前に広がるのは、ゴールラインまで続く、遮るもののない十キロメートルの直線。

 勝利への、最後のウイニングラン。

 

『カジキ、最終チェックポイントをトップで通過! 後続との差は、もはや絶望的! ジン・カミシロ、これが、これが伝説の始まりなのかーっ!』

 

 実況アナウンサーの興奮した声が、会場に響き渡る。

 しかし、ジンの心は、驚くほど静かだった。

 彼は、コックピット内の計器に表示された、プラーナ結晶の残量を確認すると、作戦室のスィラに、短く、しかし確かな信頼を込めて、通信を入れた。

 

『嬢ちゃん、残量、十二パーセント。タイミングは、任せたぞ』

 

 その言葉に、作戦室のスィラは、ハッと息を呑んだ。

 彼女は、反射的に、隣で静かにモニターを見つめるヤギュウへと視線を向ける。

 ヤギュウは、何も言わなかった。ただ、すっと、テーブルに広げられた地図の一点を、その無骨な指で指し示した。

 最終ストレートに突入してから、八百メートル地点。

 そこが――。

 

 全てを理解したスィラの胸に、抑えきれないほどの歓喜が、熱い奔流となってこみ上げてくる。

 彼女は、その喜びを、勝利の宣言に変えて、ヘッドセットが震えるほどの声で、叫んだ。

 

「ジン様! いまです! いま!!」

 

 そして、全ての想いを込めて、その名を高らかに告げる。

 

「グローリー・ライドッ!!」

 

 その宣言を聞いて、ジンは、ほんの少しだけ、口の端を上げた。

 

『了解だ、我が麗しのお嬢様(マイ・フェア・レディ)

 

 返答と同時に、ジンは残り全てのプラーナ結晶を燃焼させるためのボタンを押し込む。

 一拍置いて、D機関が大きく振動し、カジキは最後の咆哮を上げた。

 

 機体は、今までの速度がまるで止まっているかのように感じられるほどの、凄まじいGと共に、限界に近い速度へと加速していく。

 

 一瞬、記憶の底から滲み出すように、あのブレーダーの幻が視界の片隅に像を結ぶ。

 

 呼吸が浅くなる。

 

 だが、ジンは歯を食いしばり、その幻影ごとねじ伏せるように、さらに加速した。

 自分を信じてくれた少女の声が、頭の中でこだまする。

 

 亡霊は、圧倒的な速度の前に引き裂かれ、風に溶けて消えた。

 

 後ろからは、誰も来ない。

 二番手を走っているであろう、迂回ルートを選択したワークスマシンの姿すら、もはやミラーには映らない。

 

 たった一機だけの、栄光への滑走。

 たった一機だけの、グローリー・ライド。

 

 それは、あまりにも異例の光景だった。

 このセル3レース場の歴史、その数百年の中で、これほどまでに圧倒的な独走劇は、数えるほどしか存在しなかった。

 

 中央道に建ち並ぶビル群。その窓という窓から、オフィスで働く人々が、身を乗り出すようにして、その光景を見つめている。

 歩道を歩いていた人々は、足を止め、空を見上げ、目の前を音速に迫りそうな速度で駆け抜けていく、銀色の流星に、ただただ、圧倒されていた。

 

 そして、誰もが、叫んだ。

 叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。

 理屈ではない。本能の赴くままに、その、あまりにも美しく、あまりにも絶対的な走りを目撃してしまった者の、魂からの雄叫び。

 

 やがて、銀の閃光が、ゴールラインを通過した、その瞬間。

 

 セル3という島全体が、割れんばかりの喝采と、大地を揺るがすほどの熱狂の渦に、完全に包み込まれた。

 

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