そうなるだろうな、という予感はあった。
それは、つい数ヶ月前の光景。
直近まで所属していたベータリーグの中堅チーム「ブルー・ゲイル」のガレージで、ジンはチーム代表と向き合っていた。
周囲には、解体途中のベータブレードや、オイルの匂いが漂っている。
『……というわけで、ジン。残念だが、今期限りで契約は打ち切りだ』
チーム代表の言葉は、非情なほどに淡々としていた。
ジンは、特に驚きもせず、ただ黙ってその言葉を受け止める。
『お前の腕は確かだ。それは誰もが認めている。だがな……』
チーム代表は、苛立たしげにテーブルを指で叩いた。
『お前には、勝利への意欲が感じられん。レースは、ただ速く走ればいいというものじゃない。勝つことへの渇望、トップを奪い取るという執念。それがあって初めて、チームも、スポンサーも、ファンも熱狂するんだ』
チーム代表の言葉は、正論だった。
レースは、ビジネスだ。
そして、ビジネスには結果が求められる。
魅了する走りが、そして勝利という、最も分かりやすい結果が。
『俺たちは、お前に何度もチャンスを与えた。エースとして走る機会も、自由に攻める許可も出した。だが、お前は結局、あと一歩のところで勝ちきれない。いや、勝ちにいこうとしない。そんなブレーダーは、うちのチームには必要ない』
その言葉は、本心ではなかったのかもしれない。
ただ、彼の不甲斐なさに業を煮やし、発破をかけようとしただけだったのかもしれない。
もっと食い下がってこい、と。お前の本気を見せてみろ、と。
『俺たちは今期もラビリンスパレードに参加する。わかってるようでわかってないんだろうが、薄皮一枚の覚悟が生死を分ける危険な場所だ。そこにお前みたいなのを連れて行ける余裕はない。訓練所を出たてのブレーダーの方がまだ覚悟がある。いくら“調整”に優れてるからといっても、そんな奴を置いておく余裕はうちには無い』
ジンにはそれが、チーム代表なりに自分のことを気遣っての言葉だとわかった。
悪いチームじゃなかった。
スタッフや同僚のブレーダーたちともそれなりにうまくやれてたと思う。
『どうした、なにか言い返してみろ?』
だが、ジンは、なにも言わなかった。
ただ、静かに頷き、こう答えただけだった。
『いえ、その通りかもしれません』
心には、怒りも、憤りも、悲しみさえもなかった。
ただ、どうしようもない虚しさが、凪いだ水面のように広がっているだけ。
そして、その虚しさは、自分自身に向けられたものだということを、彼はどこかで理解していた。
勝利への意欲。
どうしても自分には、それを持つことができなかった。
勝利というものに、命を賭けなければならないほどの価値を、見いだせなかった。
あのブレーダーの幻影のせい……いや。
もしかしたら生まれる前に、ラビリンス領域の深淵にでも置いてきたのかもしれない。
『お世話になりました』
チーム代表に一礼し、ジンは静かに部屋を出た。
ドアが閉まる音だけが、やけに重く響く。
慣れ親しんだガレージを抜け、出口へ向かって歩き出した、その時だった。
背後から、硬質な床を叩くブーツの音と、鋭い声が飛んでくる。
『待ちやがれ、ジン!』
振り返ると、そこには腕を組んで仁王立ちする同僚の姿があった。
チームのエースを張るサラだ。
汗で濡れたブロンドのポニーテールが、彼女の気の強さを象徴するように、ぴんと跳ねている。
『……なんの話か、聞こえてたぞ』
サラは吐き捨てるように言った。
その視線は、獲物を射抜くように鋭い。
『あっさり認めんな、腑抜けが。アンタが抜けたら、誰が私のブレードを磨くんだ?』
いつもの、素直じゃない物言いだった。
だが、ジンはなにも答えず、ただ彼女を見つめた。
その沈黙に苛立ったように、サラは一歩踏み出す。
『……いまならまだ間に合う。私が一緒に頭を下げてやる。チーム代表に考え直せって言ってやるから!』
『サラ』
ジンは静かに彼女の名前を呼んだ。
『次に入ってくるブレーダーが、お前の素直じゃないところを理解してくれる、懐の深いやつとは限らんから気をつけろよ。お前の方が先輩になるんだからな、なるべくやさしくしてやれ』
『ッ!? ふざけんな!!』
ジンの軽口にカッとなって詰め寄るサラをなだめるように、落ち着いた声で話を続けるジン。
『そのカッとなるところも直した方がいいかもな。いや、それが持ち味でもあるか……まあどんな相手が入ってこようと、サラがいれば来年もリーグ優勝できるだろ』
『そんなわけあるか! 二ヶ月前の第7セクターレースの最終戦、忘れたとは言わせないぞ! アンタのブロックがなきゃ、私は負けてた! アンタのおかげで勝てたレースだ、アンタのおかげでとれたセクター制覇だッ!!』
第7セクターにおける、ベータリーグでの優勝。
それは彼女にとって、そしてチームにとっても大きな栄光だった。
だが、彼女が言いたいのは、そんな表面的なことではない。
ジンにはそれが痛いほど分かった。
『……アンタとなら、ラビリンスパレードだって制覇できるって言ってんだよ』
声が、少しだけ震えていた。
強気な仮面が剥がれ落ち、懇願するような響きが混じる。
『だから、いなくなるなよ……』
必死な声だった。
しかし、ジンの瞳に宿る光は、凪いだ水面のように揺るがない。
彼は小さく首を横に振った。
『もう、いいんだ』
『なにがいいんだよ! なにも良くないだろ!』
『……ありがとう、サラ。世話になったな』
ジンはサラに背を向け、再び歩き出す。
サラにはもう、引き留める言葉は出てこない。
諦めと怒りがごちゃ混ぜになった表情で、ただその背中を見つめることしかできなかった。
一歩、また一歩と遠ざかっていく広い背中。
その背中に向かって、サラはありったけの声を張り上げた。
『バカヤローッ!!』
罵声は、オイルの匂いが染みついたガレージに虚しく響き渡った。
ジンは、一度も振り返らなかった。
ハッと意識が浮上する。
ジンは、自分の部屋のベッドの上で、汗びっしょりになって目を覚ました。
外は、静まり返った夜。
窓から差し込む星の明かりが、部屋の隅をぼんやりと照らしている。
壁にかけられた時計の針は、深夜の二時を指していた。
昼間の救助劇と、その後の疲労が、彼を深い眠りへと引きずり込んでいたらしい。
(生きてる……か)
暗闇の中にうっすらと浮かんでいる幻影が、変わらずこちらを見ていた。
昔はたまに現れる程度だったが、チームをやめてからは、毎日のように現れる。
「……残念だったな」
そう吐き捨てて、喉が、カラカラに渇いていることに気がつく。
ジンは、寝ているかもしれない両親を起こさないように、そっとベッドを抜け出し、音を立てないように部屋を出た。
居間を通り抜け、縁側へ向かう。
冷たい水でも一杯飲もうと思ったのだ。
しかし、その縁側に、意外な人影があった。
星空の光を浴びて、一人の男が静かに座り、夜空を見上げている。
「……父さん」
ジンが声をかけると、男はゆっくりとこちらを振り返った。
ジンの父親、ヤギュウ・カミシロ。
その姿は、この汐凪島の中でも、一際異彩を放っていた。
角ばった厳つい顔、その両目は、うっすらと向こうが透ける黒い布で覆われている。
髪型は、鮮やかなオレンジ色のモヒカン。
常に脱力の極致にあるかのような自然体で、腰には、魚を解体するためのものだという、六十センチほどの細く長い包丁を差している。
その佇まいは、まるで、人類がこの星に来る遥か昔、テラのどこかのコロニーで「侍」と呼ばれた者たちのようだった。
目に布を巻いているのは、伊達や酔狂ではない。
彼の両目は、特異体質により、常人とは比較にならないほど「良すぎる」のだという。
あまりにも多くの情報が流れ込んでくるため、普段はこうして布で視界を制限しているのだと、昔聞かされたことがあった。
ジンは、父親の隣に、どかりと腰を下ろした。
ヤギュウは、なにも言わず、ただ再び夜空へと視線を戻す。
しばらくの間、二人の間に会話はなかった。
ただ、夜光虫が放つ微かな光を反射する波の音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけが、静寂を優しく満たしている。
「……昼間は、助かったよ。ありがとう」
ジンは、ぽつりと礼を言った。
「うむ」
ヤギュウは、短い言葉で返すだけ。
だが、その一言に、労いと安堵の念が込められているのが、ジンには分かった。
ジンも、父親と同じように、ぼーっと夜空を見上げる。
プラタマの夜空には、衛星がない。
その代わり、ラビリンス領域から漏れ出す微弱なエネルギーが、まるで天の川のように、無数の光の帯となって空を彩っていた。
それは、この星でしか見ることのできない、幻想的な光景だった。
「……そういえば、嬢ちゃんは……あのチッコイ銀髪の子は、大丈夫だったのか?」
ジンは、思い出したように尋ねた。
あの後、ジンはあとのことを父親たちに任せ、ふらつきながら家に戻った。
そのため、スィラがどうなったのか、気になっていたのだ。
「問題ない」
ヤギュウは、静かに答えた。
「胆力のある、強き少女だ」
珍しい。
この父親が、誰かを褒めることなど、滅多にない。
あの無謀とも思えるスィラの行動は、この父親の目にすら、確かなものとして映ったらしい。
「それに面白い目をしておった……思考や受け答えも、おおよそあの年齢とは思えぬほどしっかりとしている。さぞ厳しい教育を受けてきたのであろう」
「……だよな」
ジンは、少しだけ誇らしいような、それでいて困ったような、複雑な気分で呟いた。
「あの子な、若いのに自分のレースチーム立ち上げて、俺をスカウトするために、この島に来たんだとさ。とんでもねえ嬢ちゃんだよ、まったく」
ジンは、誰に言うでもなく、そう零した。
ヤギュウは、相変わらず無言だ。
しかし、その全身で、ジンの言葉の続きを静かに待っているのが分かった。
「俺が欲しいんだってさ。俺じゃなきゃダメだって。俺しかいないって……ぐいぐいくる感じでさ」
ジンは、昼間のスィラの姿を思い出し、苦笑する。
あの真っ直ぐすぎる瞳。
自分の全てを賭けてでも、なにかを成し遂げようとする、あの危ういほどの覚悟。
「もっと他に、いいブレーダーもいるだろうしな。あんまり若い子の人生に、深く関わるつもりもねぇから……だから、断るつもりだったんだ。昨日も、今日も……」
言葉にしながら、ジンは自分の考えを整理しようとしていた。
なぜ、自分は彼女の申し出を断るのか。
過去のトラウマか。自信のなさか。それとも、ただ面倒なことに関わりたくないだけなのか。
だが、どれも違うような気がした。
本当の理由は、もっと別のところにあるような……。
考えれば考えるほど、頭の中が混乱してくる。
理論や理屈では、もう答えは出ない。
だから、ジンは、自分の感情に従って、答えを出すことにした。
「……でも、借りができちまったからさ。話くらいは聞いてやろうかと思うんだわ」
昼間の、あの光景。
荒れ狂う海の中で、自分と、そして見ず知らずの子供のために、命を賭けてくれた少女の姿。
あれは、ただのスカウトのためのパフォーマンスではない。
彼女は、本気で自分を助けようとしてくれた。
そして、自分は、彼女に助けられた。
その事実は、どんな理屈よりも重い。
ジンは、心の中でそう結論付けた。
しばしの沈黙が、二人の間に流れる。
やがて、ヤギュウの肩が、微かに震え始めた。
「……く、くくく……」
抑えきれないといった様子で、笑いが漏れ出す。
それは、ジンが今までの人生で、一度見たか、あるいは見たことすらないかもしれない、父親の心からの笑いだった。
「な、なんだよ……」
ジンは、バツが悪そうに頭を掻いた。
自分の真剣な決意が、笑いの対象にされたようで、少しだけむず痒い。
ヤギュウは、すぐに何事もなかったかのように、スッといつもの無表情に戻った。
そして、静かに口を開く。
「士は己を知る者の為に死す」
「……は?」
聞き慣れない言葉に、ジンは疑問符を浮かべた。
「遥か過去、我らがこの星に来る前……故郷の星、そのまた故郷の
ヤギュウは、夜空を見上げたまま、静かにその意味を説いた。
「自分の真の価値を理解し、全幅の信頼を置いて物事を任せてくれる人物。そういった者のためにこそ、己の
己の
その言葉が、ジンの胸に深く突き刺さった。
──『わたくしは、レースでジン様の走りを見て、確信いたしました。あなた様こそ、この星で最高のブレーダーです』
──『他の人なんて、いりません。わたくしには、あなた様がいいのです。あなた様でなければ、ダメなのです!』
ジンの脳裏に、スィラの真剣な眼差しが、鮮やかに蘇る。
彼女は、自分の真の価値を、自分以上に信じてくれているのかもしれない。
「……父さんは、俺がもしもまたレースに出るっていったら……どう思う?」
「好きにせよ」
ヤギュウは、ポンと、ジンの背中を軽く叩いた。
「必要とあらば、我も力を貸そう」
その言葉は、多くを語らずとも、ジンの決意を認め、そして応援するという、父親からの力強いメッセージだった。
ジンは、なにも言わなかった。
ただ、軽く頭を下げ、その大きな背中に、感謝の意を示した。
夜は、まだ明けない。
しかし、ジンの内側で何かが確かに瞬いていた。
それは、スィラという少女が灯した、小さな、しかし消えることのない炎だった。