アドミラル・アーカイブ 作:3タナカモナカ
──キヴォトス近海は、天気晴朗なれど波高し。
︎︎約数時間前、〈オデュッセイア海洋高等学校〉が管理する港を発った〈ベレロフォン号〉の艦橋には、静かな緊張が張り詰めていた。出航と同時に発せられたその通信は、既にオデュッセイア生徒会本部に届いている。
︎︎その報せに呼応するように、通信士、舵手、航海士、副長──誰もが黙々と持ち場に就いている。だがその顔に浮かぶ表情は、ただの規律ある面持ちではなかった。
︎︎緊張に塗れた中にも、翳りと葛藤の色が滲んでいる。
︎︎その艦橋にあってただ一人、普段と変わらぬ態度を崩さぬ者がいた。〈ベレロフォン号〉艦長、敷島アリア──オデュッセイア生徒会からこの巨大戦艦を託された指揮官である。
︎︎彼女の制服は、漆黒に限りなく近い紺青。
︎︎真冬の深海を思わせるその色合いは、波風に晒されても一切の皺を寄せぬ張りを保ち、威厳ある光沢を帯びていた。
︎︎生地はトリニティ自治区の老舗仕立屋が手がけた特注品で、折り目一つに至るまで彼女の地位を語っている。
︎︎僅かに膨らんだ胸元を貫くように並ぶ、金糸で縁取られた双列のボタン。肩には四重の金モールの肩章が配され、遠目にも一目で指揮官とわかる装飾が施されていた。
︎︎白い天蓋と黒いひさしを備えた帽には、オークと月桂樹の葉が絡み合う金刺繍のエンブレムが輝き、まるで古代の将軍の兜のような威容を示す。
︎︎それは単なる制服ではなく、オデュッセイアという海洋学園自治区が築いてきた伝統と矜持の象徴そのものであった。
︎︎腰に下げたカットラスは儀礼用とはいえ、鞘から抜けば明らかに威圧を放つ刃を宿している。艦長の意志を形にする、それは最後の抑止力でもあった。
「さて、と」
︎︎紅茶の入ったティーカップを片手に立ち上がったアリアは、それを控えていた副官に無言で渡すと、ゆるやかに艦橋中央へと歩み出た。
︎︎その一連の動作に無駄は一つもなく、姿勢は凛とし、指先に至るまで怠惰の影を許さない。
︎︎彼女の瞳は冷たく鋭い光を湛えながらも、静謐な深みを孕んでおり、それを見る者に「この人物はただの生徒ではない」という確信を抱かせるものだった。
「──全艦各員、第一種戦闘配置につけ」
︎︎短く、明瞭なその一言が艦橋の空気を変えた。
︎︎誰かが小さく息を呑み、別の誰かが戸惑いがちに応じる。
「て、提督……ほんとーに、本当によろしいのですか……?」
「──ああ。今この時を以て、我が艦隊はオデュッセイア海洋高等学校を離脱。そしてこれより“トレードハーバー”に対し艦砲射撃を実施。任務完了後は即時転進されたし」
「しかし……無関係の民間人や、他学園の生徒が巻き込まれる可能性が……」
「避難勧告は既に通達済みだ。それでもなお現地に留まるなら──それは自己責任の範疇に過ぎん」
︎︎淡々とした口調だった。
︎︎迷いも怒りも悲しみも感じさせない。
︎︎だがその静けさこそが、ベレロフォン号の艦橋に凍てつくような緊張をもたらした。
︎︎我らが母校、オデュッセイアからの離脱──それ自体が反逆である。だが彼女の命令は、それ以上に明確な武力行使だった。
︎︎キヴォトスの命脈を担う中核港湾、トレードハーバーへの艦砲射撃。それは単なる攻撃ではない。宣戦布告であり、制裁であり、警告でもあった。
︎︎とはいえ、実行に移すとなれば話は別である。
︎︎この艦橋にいるのは、皆アリアに忠誠を誓った者たちだった。だが──忠誠と倫理の狭間に揺れる感情は、決して理屈で割り切れるものではない。
︎︎キヴォトスにおける物流の重要性は言うまでもないだろう。
︎︎特に海に面した学園自治区では、海上輸送が事実上の生命線だった。陸路ではヘルメット団や不良グループを始めとした盗賊団や武装勢力による襲撃が相次いでおり、貨物トラックの強奪事件は日常茶飯事である。
︎︎この混乱を補うため、オデュッセイアは貨物船団を保有・運用し、今日も各地の港に物資を送り届けているのだ。
︎︎その中枢が“トレードハーバー”と呼ばれる、連邦生徒会直轄の大規模商港である。巨大なコンテナターミナルを擁し、戦車から乾パンに至るまであらゆる物資が取り扱われるこの港湾は、キヴォトス随一の取扱量を誇り、産業と物流の中枢として絶対的な地位を築いている。
︎︎艦橋から望めば、停泊する商船とタンカーが「キヴォトスで一番忙しい港」の名に恥じぬほど、整然と列をなしていた。
︎︎その様子を目にした生徒が、思わず感情のままに呟く。
「……連邦生徒会が泣きますね、それは」
「──そのための艦砲射撃だ」
︎︎トレードハーバーの破壊は、キヴォトス経済の根幹を打ち砕くことを意味していた。物流の遅滞が引き起こす混乱は、単なる物資不足にとどまらない。株式市場への打撃、各学園間の連携の断絶、治安のさらなる悪化──いずれも、何週間も連邦生徒会長が公の場に姿を表さなくなったことによる現在の混乱が進行する状況下では、もはや計算不能な水準に達しつつある。
︎︎それでも、アリアは迷わなかった。
「改めて命ずる──全艦各員、第一種戦闘配置につけ。目標はトレードハーバー。かの歴史ある港湾を壊滅せしむるベレロフォンの大火を以て、我が艦隊の新たな門出とする」
︎︎毅然としたその言葉に、艦橋の誰もが沈黙する。
──今日この日、否応なく、オデュッセイア海洋高等学校の歴史が大きく変わろうとしていた。