アドミラル・アーカイブ 作:3タナカモナカ
朝焼けに照らされたウトナピシュティム行政区──通称〈D.U.〉。蒼穹に向かって屹立する高層建築群は、淡い橙色の光を受けて、無機質な外壁を静かに浮かび上がらせていた。
この都市に流れる空気は、常に冷たく整然としており、眠りから覚めたばかりの街路にもすでに人影があった。
目覚ましのアラームが室内に響く。カーテンの隙間から差し込む光に目を細めながら、男は手を伸ばして端末を止め、静かにベッドから身を起こす。
寝癖を片手で押さえ、乱雑に置かれたスーツへと手を伸ばした。手早くシャツに袖を通し、ネクタイを締める頃には、ようやく意識もまともになってきていた。
──「先生」としてこのキヴォトスへ赴任したのも、わずか数日前のこと。
自身のような人間が適任かどうかは、未だにはかりかねていたが、連邦捜査部シャーレの顧問として、それでも日々の業務に慣れていくしかなかった。
シャーレの執務室に入ると、まずは簡単な朝のルーティンをこなす。備え付けの電気ポットに水を入れ、湯を沸かす。カップにはインスタントの粉末。
湯が沸き、コーヒーの香りが室内に広がる。曇った窓ガラスの向こうには、すでに動き出した都市の輪郭がぼんやりと映っていた。
そのとき、ポケットの端末が短く震える。
画面に表示された送信者の名前は「七神リン」。現在、消息不明となっている連邦生徒会長に代わり、暫定的に指揮を執っている連邦生徒会幹部の一人だった。
通信に応じると、すぐに彼女の整った声音が再生される。
『おはようございます、先生。朝早くに申し訳ありません。本日、そちらに伺わせていただきたいのですが、よろしいですか?』
「え? ああ……うん、大丈夫だよ。待ってるね」
通話が終了したのは、わずか十数秒後のことだった。
あまりに短い会話に、先生はその場に立ち尽くし、手にしていたカップをそっと机に戻す。寝起きで、まだ頭が完全に覚醒しきっていない。
連邦生徒会長代行を務めるリンは、多忙を極める立場だ。まだキヴォトスの内情をよく知らぬとはいえ、それくらいのことは、先生にも分かっている。
そんな彼女がこの朝の時間帯に訪れるというのは、何かしらの事態を示している可能性が高い。
ただ、それと同じくらい気になるのが、現在の部屋の有様だった。
机の上は書類の山で埋まり、資料と文具が混在したまま放置されている。端には使い終わった弁当の容器、シュレッダー屑の溢れたゴミ箱。ラベルを剥がしきれていないペットボトルも無造作に転がっていた。
このまま来客を通すには、さすがにまずい。
先生は重い腰を上げ、引き出しからキヴォトス指定のゴミ袋を取り出す。分別は後回しでもいいかと考えた、そのとき──
デスク端に置かれた“シッテムの箱”が微かに振動し、画面に見慣れた少女の顔が表示された。
『先生、ゴミはちゃんと分けてくださいね。分別しないと、めっ!ですよ?』
アロナ──連邦生徒会長が遺した“シッテムの箱”のメインOSを自称する、幼げな少女が明るい口調で注意する。その声音は機械的ではなく、どこか人間味すら感じさせるものだった。
「ごめん……」
先生は軽く肩を落としながらも、渋々手を動かし始める。
空き容器、紙類、プラスチック、書類のミスコピー……気がつけば、部屋の隅にはぎゅうぎゅうに詰められたゴミ袋がいくつも積み上がっていた。
「誰だ、こんなに散らかしたのは……」
ぼやきが漏れるたびに、アロナから小さな溜息混じりの指摘が入る。
そもそも部屋を散らかしたのは他でもない彼自身なのだと自覚しながらも、寝起きで億劫な片付けを強いられる状況に、多少の鬱屈も感じていた。
しかし、アロナとのやり取りを繰り返しているうちに、いつの間にか三十分が経っていた。
室内はようやく、人を迎え入れられる程度に整った。
ゴミ袋は隣の空き部屋に押し込み、先生はコートの裾を整えて椅子に腰を下ろす。
その直後──執務室のチャイムが鳴る。
扉の外には、サンクトゥムタワーから訪れたリンの姿があった。随分と早い到着だな、と感じつつ呼び声に応じると、部屋の扉が開く。
「おはようございます、先生」
「おはよう」
長く艶のある髪をたなびかせ、リンは静かに室内へと足を踏み入れた。徹夜明けなのか、メイクでも隠しきれない目元の隈が気になったが、先生はあえてそれに触れず、備品のソファへの着席を促す。
「突然のご訪問、申し訳ありません。昨日お渡しした書類に関してなのですが、不備があったことが分かりまして……改めて修正版をお持ちいたしました」
「え、そんなの私が取りに行くのに……」
「いえ、こちらの不手際ですので、お気になさらず」
「……うん、分かった。ありがとうね、わざわざ」
その書類は、連邦捜査部シャーレの始動に関する事務手続きをまとめたものだった。
活動の法的根拠や予算について記されており、顧問である先生のサインがなければ提出できない。すなわち、それがなければシャーレは動き出せないのだ。
というわけで、先生は昨日からずっとその書類と睨めっこしていたのだが──肝心の原本に不備があったとあっては、単に時間を浪費する羽目になってしまった。
その謝罪の意も込めて、リン自ら訪れたのだろう。
人間誰しもミスはある。先生は彼女を責めることなく、差し出された書類を丁寧に受け取った。
「……ああ、そうだ。たぶん、まだ朝ごはん食べてないよね。コンビニで買ったもので良ければ、弁当が余ってるけど、食べる?」
「い、いえ、私は──」
断ろうとしたリンの返答を待たずに、先生は立ち上がり、冷蔵庫の方へ足を向けた。忙しいのは当然だ。なにせ、彼女は現在キヴォトスの暫定的な中枢を担う立場にある。徹夜も珍しくないのだろう。
もちろん、彼は連邦生徒会の実務に直接関わっているわけではない。だが、それでも目の前にいる若い生徒の顔色が悪く、疲労の色が隠せていないのは明白だった。
︎︎まだ深い信頼関係を築けているわけでもなく、大人として何か気の利いた言葉をかけられるわけでもない。だからせめて、朝食だけでも――そんな思いがあった。
「はい、どうぞ」
レンジで温められた弁当を手渡す。受け取ったリンは少しだけ戸惑いを見せたが、それでも丁寧に会釈し、しっかりと手を合わせた。
「ありがとうございます……ハンバーグ弁当、ですか」
「うん。もしかして苦手だった?」
「いえ、好きです。いただきますね」
箸を割り、そっとプラスチックの蓋を開けるリンを、先生は机越しに見守るように座った。自身はまだ腹が減っていなかったため、渡された新しい書類の確認に目を落とす。
︎︎二人の間には会話がなかったが、それを不自然に感じることはなかった。ただ静かに、落ち着いた空気が流れていた。
レンジで加熱された弁当の湯気が、まだわずかに立ち上っている。机の端にはコーヒーの残りが入ったカップ。
︎︎窓の外では都市の喧騒が始まりかけているが、この執務室だけは少しだけ時間の流れが緩やかだった。
そして五分ほど経った頃、リンはきれいに食べ終えたパックを手元で整えながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「ああ、そうだ……先生、ひとつ伝え忘れておりました」
「ん? 何かあった?」
先生の問いに、リンは姿勢を正し、書類に目をやったあと静かに口を開いた。
「先程お渡ししたそちらの書類の提出をもって、連邦捜査部シャーレは正式に稼働します。ただ、今後の活動の中で、“ある生徒”の名前を耳にすることがあるかもしれません。その際は、少しだけでも気に留めておいていただければと思います」
「ある生徒……?」
柔らかく語られた言葉の裏に、微かな緊張があった。言いづらさを含んだその口調に、彼は無意識のうちに表情を引き締める。
「えっと、その子はどういう生徒なの?」
先生の問いかけに、リンは短く息をつき、わずかに視線を落とす。そしてためらいがちに口を開いた。
「現在、広域指名手配中の生徒です。容疑は複数の重犯罪──主に反乱とテロ行為ですね。ヴァルキューレ警察学校による捜査が進行中です」
「……指名手配って、」
「彼女は“オデュッセイア海洋高等学校”の生徒です。キヴォトスの海上物流の多くを担っており、地上に拠点を持たず、艦艇によって独自の学園自治区を運営している特殊な学校です」
「へえ……そんな学園もあるんだ」
先生の驚きは率直だった。キヴォトスの常識や慣習には、まだ慣れ切れていない。海に浮かぶ学校――その時点で、彼にとっては想像の範囲を越えていた。
リンの言葉に耳を傾けながら、先生は不意に、ある少女の姿を思い出す。
狐面をつけた、謎めいた少女──狐坂ワカモ。
サンクトゥムタワーからシャーレへ向かう道すがら、あの混乱の中、現れてはすぐに姿を消したその存在は、彼にとってまだ記憶に新しい。
︎︎後に彼女も指名手配犯だと聞いたのもあって、今リンの口から語られている「敷島アリア」という名前に、彼はどこか同じ匂いを感じ、関心を向けた。
「実は、先生が着任される数日前のことになりますが、 彼女はオデュッセイア内部で複数の戦闘艦を掌握し、母校に対する武力による離反行動を開始しました。中核商港“トレードハーバー”を奇襲し、その後、連邦生徒会とオデュッセイア双方に対し、明確な敵対の意思を公式に表明しています」
「えっ……と、テロ?」
口に出してから、先生は自分の言葉に息を呑んだ。あまりにも馴染みのない出来事がつい最近起きたと聞いて、少なくない混乱を抱く。
︎︎思わず椅子に深く背を預け、額に手を当てた。
︎︎彼女たちにとっても突拍子のない出来事のはずなのに、リンの語る口調は冷静そのものだ。しかしその裏に、疲労と緊張が滲んでいるのを彼は見逃さなかった。
「つまり、宣戦布告? ……というか、今リンたちは……」
言葉を続けかねていると、リンが小さく頷く。
「いいえ、先生。“宣戦布告”という概念はキヴォトスの連邦法には存在しません。そのため、現段階では武装反乱……あるいは高度なテロ事案として分類しております。ただ、実質的には反乱部隊との継続的な武力衝突が現在進行形で発展しており、各学園や輸送ルートへの影響は無視できない状況です」
室内に一瞬、重たい沈黙が落ちた。
窓の外で喧騒を始めた都市の音が、まるで遠い別世界の出来事のように思える。目の前で話されているのは、紛れもなく“この世界”の現実だというのに。
「──なので今後、シャーレにも何らかの形で関与を求めることになるかもしれません」
「……なるほど」
先生は小さく息をついた。冷静を装ってはいたが、頭の中ではまだ情報を必死に整理していた。顔も知らぬ、話したことすらない一人の生徒を考える。なぜこんなことを起こしたのか、何を目的にしているのか、自分に出来ることはあるのか。
不安はない。ただ単に先生として、大人としての義務感に駆られていた。そんな彼の内心を察したのか、リンは目線を戻し、静かに言葉を添える。
「先生に、今すぐ動いていただく必要はありません。シャーレはまだ正式に稼働しておりませんし、きっと、他の依頼が寄せられる事があると思いますので、私共としてはそちらを優先していただきたいです。ただ──そう遠くないうちに、私たちの方からも先生へ依頼を出すことになると思います。そのときは、どうか……よろしくお願いします」
その言葉は、あまりにも静かで、どこまでも真剣だった。しかし先生への気遣いや忠告も混じった、真面目で優しげな声色だ。
「うん、わかった」
先生は頷いた。
︎︎ほんの少しだけ、唇を引き結んで。
***
──トリニティ沿岸部からおよそ六百八十海里。
︎︎広大な外洋にぽつりと浮かぶ孤島には、かつてオデュッセイア海洋高等学校が有していた停泊地が築かれていた。
︎︎周囲を取り囲む消波ブロックは、絶え間なく押し寄せる外洋のうねりを受け止め、弧状に広がる入江の水面を穏やかに保っている。浮桟橋には艦艇が次々と接岸し、任務を終えた生徒たちが帰還してくる。
︎︎堤防の上では数人の生徒たちが船の到着を見守り、舷梯を降りてくる仲間たちに「おかえり」「お疲れさま」と声をかけていた。交わされるその挨拶に、互いの表情は明るい。
︎︎だが、その笑顔が戻るまでに、どれだけの緊張と沈黙を乗り越えてきたことか。
︎︎オデュッセイアからの離脱、沿岸での強行作戦、そして連邦生徒会からの敵対認定──それぞれが、彼女たちを着実に追い詰めていた。にもかかわらず、今、桟橋に立つ彼女たちの姿には焦燥の色がない。
︎︎海とは、常に変化し続ける環境だ。
︎︎風、波、潮流……どれ一つとして同じ姿を保ち続けるものはない。感情に舵を取らせれば、いともたやすく転覆する。
︎︎あらゆる状況が流動する中で、慌てる者から先に沈む──それがこの世界の摂理であり、彼女たちはその中で生きる術を身につけていた。
︎︎加えて、彼女たちは訓練を通じ、“変化に慣れる”ことを習得している。感情よりも手順を優先し、状況に適応し、仲間との呼吸を合わせる。
︎︎そうした経験の積み重ねが、彼女たちに確かな精神的安定を与えていた。
︎︎ゆえに、艦隊の指揮権を持つ者が「そうすると決めた」のであれば──彼女たちは迷わず従う。
︎︎その柔軟な適応力と上級生への服従は、船上という閉鎖的環境で日常を送るオデュッセイアの生徒たちならではの性質ともいえる。あるいはそれは、対立を避けるための、無意識の自己防衛だったのかもしれないが。
──艦橋の高所から、その様子を見下ろす影がひとつ。
︎︎制服の裾を風に靡かせながら、現在、ヴァルキューレ警察学校に指名手配が宣布された張本人たるアリアは、静かに桟橋を見つめていた。
︎︎腰に下げたカットラスの柄に指を添え、軽くなぞる。それに意味はない。ただ、心中に漂う漠然としたざわめきを払いのけるための、癖のような動作に過ぎなかった。
︎︎やがて彼女は、傍らの鞄から小型のタブレットを取り出し、画面を起動する。表示されたのはキヴォトス全体の地図。特に、トリニティ沿岸部を中心とした海岸線が拡大されていた。
︎︎その地図上には、いくつもの赤いバツ印が記されている。
︎︎それらは、この一週間で彼女の艦隊が破壊してきた港湾施設の位置だった。
︎︎アリアは指先で地図の一点を長押しし、新たなバツ印を追加する。つい三時間前に攻撃を終えたばかりのミレニアムの港湾だ。
︎︎まだ建設途中だったプラットフォームは今ごろ瓦礫と化し、海面には破片が浮かんでいることだろう。
「……これで三大主要校は、少なくとも数週間から一ヶ月は海に出られなくなったわけだ。我ながら無謀だな」
︎
︎︎吐き出された独白には、ため息も後悔も混じらない。
︎︎ただ事実を確認しただけの、静かな声音だった。
︎︎破壊対象はいずれも民間利用を前提とした港湾施設であったが、実質的には各学園傘下の物流拠点である。
︎︎ミレニアムのように科学力の高い学園はともかく、統制力に乏しいゲヘナや派閥争いに勤しむトリニティがそれらの再建を終えるまで、それなりの時間を要するだろう。
︎︎とはいえ、各校の治安維持組織が動き出すのも時間の問題だが──今、この海を制しているのは彼女が率いるこの艦隊である。
︎︎
︎︎実戦配備されたオデュッセイアの艦艇は、その大半がこの艦隊に組み込まれており、母校に残されたのは老朽艦や練習艦ばかり。火力も性能も、比べるまでもなかった。
︎︎トレードハーバーを皮切りに、各地の港湾施設を連続して破壊した影響はやがてキヴォトス全体に波及する。
︎︎物流の遮断は、そのまま経済の麻痺を意味する。
︎︎アリアは武力衝突ではなく、「供給線の遮断」によって、敵対勢力の動きを鈍らせる時間を稼いでいた。
︎︎連邦生徒会長の失踪が報じられてから、日はまだ浅い。
︎︎クロノスの報道や、各地にいる部下たちの友人からの情報によれば、各自治区は治安維持に手一杯だという。
︎︎ならば、その隙を突く──港湾を破壊し、各校の足を止めるのだ。オデュッセイアで起きた反乱の報は既に広まっているだろう。だが、治安の悪化という目の前の課題を優先すれば、物流の断絶に気づくのはさらに先だ。
︎︎そのときには、もう手遅れとなっている。
︎︎彼女たちを海に引きずり出すわけにはいかない。
︎︎ゲヘナの風紀委員長、あるいは「歩く戦略兵器」と称されるトリニティの正義実現委員会の委員長。あれらと正面からやり合うなど、狂気の沙汰でしかない。
︎︎だからこそ、補給も最小限にとどめ、継続的な破壊活動に徹してきた。全ては計画の達成と、その過程で現れる障害を事前に排除するため。
──ただ一つ、アリアにとって想定外だった存在があるとすれば。
「……シャーレ、か」
︎︎連邦生徒会の会見、そしてクロノスによる報道で突如として明かされた超法規的組織。
︎︎アリアは艦隊を蜂起させるまでに周到な準備を重ねていたが、流石にそのような存在は計算に入っていなかった。
︎︎そもそもとして、連邦生徒会長の失踪自体が完全に予想外だった。あの“超人”がそう簡単に死ぬとは思えない──だが、最後に姿を見せてから、すでに相当な時が流れている。
︎︎会長代行という役職が急ごしらえで設けられ、七神リンがその座に就いたという事実は、裏を返せば連邦生徒会ですら彼女の行方を掴めていないということに他ならない。
︎︎つまり──失踪は現実のものだ。
︎︎仮にもし彼女が今も健在であったのなら、この反乱は開始以前に潰されていた可能性すらある。
︎︎風紀委員会や正義実現委員会といった各校の組織も確かに厄介だが、アリアが最も警戒していたのは、やはりSRT特殊学園だった。
︎︎SRT特殊学園──連邦生徒会長直属の法執行機関。特殊部隊の育成と現場運用を担うエリート中のエリート。その存在を深く知る者であれば、彼女たちと正面から衝突しようなどとは到底思わない。以前に〈災厄の狐〉とSRTの特殊部隊が交えた戦いは、今でも水面下で語り草になっている。
︎︎しかしそのSRTも、連邦生徒会長の失踪とともに運用の根拠を失っていた。実際、連邦直轄地に艦隊を差し向けたにも関わらず、対応に動いたのはヴァルキューレの海警程度。SRTの部隊が姿を現したという報は、いまだ一つもない。
︎︎アリアにとって、それはまさに天恵とも呼べる状況だった。
︎︎連邦生徒会長とSRTという最も危険なカードが場から消えている今、各校の治安維持組織がメインの相手となる。
︎︎それらも主要な港湾を破壊しておけば、この島の停泊地へ到達するには空路しか残らない。だがその空も、艦隊の対空砲火や各所に設置したサイロからのミサイルで封鎖できるだろう。
︎︎仮に小型艇で海路から突破を試みる向きがあったとしても、こちらの正面火力を前にすれば烏合の衆に等しい。反乱から二週間が経ったが、今のところ、制海権の維持は極めて安定している。
︎︎まるで、神が一瞬だけ見逃してくれたかのような隙間──しかし、そのわずかな隙間に滑り込むように突如足して現れたのが、連邦捜査部シャーレだった。
︎︎先生と呼ばれる一人の大人が率いる、正体不明の組織。
︎︎公式発表の内容が事実であるならば、アレには学園間をまたいだ広範な介入権限が与えられている。その設計思想は明らかに、SRTの空白を埋めるためのものだ。創設の経緯までは明かされていないが、アリアはそう推察していた。
︎︎もちろん、その“先生”なる人物が自ら戦闘に出てくるとは考えにくい。だが──シャーレの権限を鑑みるに、明確な不安要素であることには違いない。
「連邦生徒会の傀儡か、それとも……」
︎︎呟きながら、タブレットの画面を閉じる。
︎︎思索を断ち切ろうとしたその瞬間、背後から声が飛んできた。
「──艦長。まだ下船しておられなかったのですね」
︎︎振り返ると、副官の一人が資料を抱えて立っていた。
︎︎アリアは微かに笑みを見せ、簡潔に答える。
「……ん、ああ。すまない。少し考え事をしていてね」
「ほとんど休まずに指揮を執っておられましたから。お疲れでしょう。食事の用意は済ませてあります。下へどうぞ」
「ありがとう。助かるよ」
︎︎気の利いた気遣いに短く礼を述べ、アリアは傍らの鞄を肩にかけた。中身はほとんど入っておらず、手ぶらに等しい軽さだ。
︎︎そのまま、足取り軽く艦橋をあとにする。
︎︎腹もほどよく空いていた。
︎︎今日の夕食は──たしか、カレーだったか。艦橋で誰かがそんな話をしていたのを耳にしたような気がする。
︎︎その些細な記憶と並行して、アリアの脳裏には今後の展望が浮かんでは消えていく。
︎︎この混乱のさなか、SRTが一切動かずにいるという事実は、確かに有利な条件だ。
︎︎だが、それと引き換えに現れたシャーレという不確定因子──その真価も意図も不明なままでは、気を抜くことはできない。
︎︎クロノスの報道曰く、シャーレは連邦生徒会に属しているとされる。ならば、その“先生”とやらは現行の体制の傀儡か、あるいはそれとも──。
「……全く、貧乏くじばっかりだよ。恨むぞ、生徒会長」
︎︎そこまで考えて、ぽつりと漏れた言葉は、自らの母校を今なお率いている同級生への、ささやかな皮肉交じりの愚痴だった。
︎︎現在、艦橋にいたのはアリアと、彼女の事情を深く知る副官の生徒のみ。
︎︎副官のこちらを慮るような視線に申し訳なさを感じつつも、それでもその一言を口にしただけで、アリアは幾分か胸のつかえが和らぐ気がした。