五郎の父は農家、五郎が生まれてすぐに事故で亡くなった。
「なにぃ?カナヲちゃんに勝てないって?」
「そうなんです…どうしても速さが追い付かないんです…」
仕事を終え、どこへ行く宛てもなくふらついていた五郎は結局胡蝶屋敷に戻ってきてしまっていた。弟弟子が心配だから…なんて見え透いた言い訳を並べ、お土産片手に病室を訪れた彼は、ずぶ濡れになった炭治郎を見て最初「お前また虐められてんのか?ホットラインに電話しろよ」と後輩を心配した。
「かぁ~…そこの君たちもか?」
「「……」」
部屋の隅で善逸と伊之助は、なにも言い返すことができずに顔を背けている。彼らはカナヲに勝つことができず半ばこの機能回復訓練を諦めかけていたのだ。
「ンまあシノブントコの継子故…簡単には勝てんわな」
お土産に買ってきた煎餅をバリバリをほおばりながら呟く五郎。炭治郎は「今、全集中常中を試みているのですが…体得するのにあと僅かに時間がかかりそうで…」と少し悔しそうに声を漏らした。
ごくん、と部屋に嚥下の音を鳴らしつつ五郎は軽く炭治郎の肩を叩く。
「しゃーない、俺がカナウォウに勝てる方法を教えちゃるわ」
「…っ…」
「…なに…ッ!?」
「ほ、ホントですか!?」
「やり方は2つある」
五郎は3人の前で指を2本立てて見せた。
「1つ、これは簡単だ、常中を完成させろ。お前らの雰囲気をみたところ全員見込みあり。やろうと思えばわりかし簡単にできるはずだ」
「うぅ…男に言われても嬉しくない…」
「地味オトコそれは本当かァ!?」
「ああ、ほんとだ。その呼び方次したら殺す」
五郎は懐から取り出したハンカチで軽く口元を拭うとその場に立ち上がった。軽く咳ばらいをした彼は、あー、あー、と軽く声を出して全集中常中を解除する。
「もう1つの方法は今から見せてやるよ」と言って炭治郎の正面に立つ。「いいか炭ちゃんよ、今から俺はお前の右手を掴むから、どんな手を使ってもいいから掴まれないようにしろよ」と言葉を続け、真っすぐに炭治郎の目を見つめた。
「…?は、はい…!」
炭治郎はごくり、と小さく喉を鳴らしながらも五郎の腕をしっかりと見つめた。
「…」
「…?」
数秒立っても五郎はなにもしようとしない…炭治郎は不思議そうに彼を見上げた。
しかし、善逸と伊之助はそれを見て奇妙な現象でも起きているような目で炭治郎を見つめる。
「お、おい炭治郎…」
「…お前、掴まれてるぞ…?」
「……え?」
炭治郎が視線を下ろすと、自分の右手がしっかりと彼の左手に握られていた。
思わずぞくり、と血の気が退いたのを感じた。今に至るまでまるで自分が触れられたことも、掴まれたことも感じなかったのだ。
彼は昔の記憶を思い出した。その昔、家族と少し遠くまで歩いた日の夕方、うとうとと微睡む弟の手を掴み帰路を辿る途中、長い間握っていた手はそれを当たり前に感じ、ふと、自分がその手を握っていないような感覚を感じたのだ。しかし顔を横に向けると、やはりそこには変わらず弟がいた。
気づかぬうちに自分の懐に滑り込んできたような不思議な感触がまだ手に残っていた。
「どんな手を使ってもいいって言ったんだから跳んでり跳ねたり…なんならこの部屋から飛び出してもよかったんだぞ?」
「あっ…そ、そうか…」
「まあ、正直に話すと今のはイジワルだ。最初、この話をした時、お前の進路を遮るように目の前に出てきただろ?あの状況じゃ、まるで『ここから出るな』と言っているようなもんだし、ここは修練場じゃない、暴れれば周りに迷惑がかかる…無意識的にお前はそう感じたはずだ」
炭治郎は思わず、ごくり、と喉を鳴らした。
自分は深層心理下で自分自身を縛り付けていたのだ。固定観念の元、自分の可能性を自ら封じていたことに気付いた。
善逸が漏らした「ず、ずっるぅ…!!」という言葉に「鬼はもっとずるいぞ、なにせ命がかかってるんだからな」と五郎は返答。伊之助は、納得とショックでおよおよと声を出し固まっていた。
「手を取る、と言った時もそうだ。お前は手の先端に集中しすぎで、そこしか見えていない…だからほんのわずかに意識が逸れた瞬間、お前の手は取られていた」
パッと手を離しながら再び煎餅を手に取った五郎は、バリバリと噛み砕き食べ始める。
「根元を見るように意識しろ、手ではなく前腕、前腕より上腕、上腕より胸、胸より鎖骨…脚ならば、足先ではなく下腿、下腿よりも大腿、大腿よりも鼠経、鼠経よりも骨盤…全ての感覚を統合させ、俊敏に反応するんだ」
炭治郎は未だに残る熱の名残を感じるように、指を動かして空を握った。
「命がかかった勝負の時はどれだけ柔軟に、全体を見渡せるかにすべてが懸かっている…環境、状況、全てを利用して勝ち取れ」
得意げに鼻を鳴らして煎餅を食べる五郎は、廊下を歩くしのぶを見るとすぐに立ち上がり「マイハニーしのぶ!これはお土産だよ、美味しく食べておくれ」と言いながら袋を渡す。「この部屋、飲食禁止です」と言われると「ははっ」と乾いた笑いを浮かべながら懐に煎餅をしまった。
「…五郎さん…すごい人、だな…でも、ちょっとだけわかったような気がするよ」
「全体を見て、統合させる…」
「…ふん、態々教えて貰わなくても分かっていたが…これでハッキリしたぜ」
今のアドバイスで最もそれを深く理解したのは、伊之助であった。
感覚を統合させる…というのは嗅覚や聴覚よりも寧ろ、皮膚感覚に近いものがあったからだ。短時間での拙い教えではあったものの、それは3人の成長により深くかかわってくる重大なピースの一部となるのだった。
「…初めてのことだ…」
無惨は薬を調合しながら小さな声で呟いた。
「元より下弦の鬼の入れ替わりは激しい…だが、この短期間に5体も倒されたのは…初めてのことだ」
調合するその指先は僅かに震えており、顔には幾本もの血管が浮き出て蠢いている。
「あの男…!!」
今になっても思い出すのは1人で4体も下弦を倒したあの隊士。
殺された鬼の最後の記憶では、いつもあの男が決まった台詞を吐いていた。『…いい勝負、だった…』圧倒的な威圧感で相手を痺れさせ、一刀に首を切断する。断末魔の言葉さえ上げさせず、まるで料理でもするように、優しくそこにある食材を切るように、苦しみも残さずに斬り捨てるその様が無惨の脳裏に強く焼き付いていた。
「…ふう…ッ…」
良い勝負なはずもない。
あの男はこれまでに1つの技しか見せておらず、どの勝負も2振り目をする前に終わっていた。
「最早下弦は補填する意味はない。弱く才能のないものに割く時間も血も、もう必要ない」
ちらり、ほんの僅か数秒ほど無惨は横をみた。
地面でのたうち回る下弦の壱を一瞥し、また作業を続ける。
「ぎ、ぃいいい…ッ…」
大量の無惨の血を注ぎ込まれて、まるで体を砕かれた蟻のように地面でのたうち回る。
「…最後の、最後の機会を与えてやろう…」
下弦を解体する最後の餞別といったところだろうか。無惨は自らの血を下弦の壱が耐えられる限界まで注ぎ込んでいた。
血反吐をはき、目から血泪を流し、指が擦り剝けて血が溢れるほど地面を毟り、それでも未だにもがき続ける。
「…五郎とかいう男と耳飾りを付けた子供を殺してこい…」
漸く、永遠とも思える地獄に慣れてきた頃、無惨からの声が下弦の壱の耳に届いた。