【TS転生】気づいたら、大好きだったカードゲームのディストピアアニメの世界で幼女になっていた件 作:銀層
天界――そこは、地上の喧騒とは無縁の、静謐な空の世界。
モンスターの襲撃もあまりなく、日々がゆったりと流れる平穏の地。
青く澄んだ空の下で、整備された町並みが白く輝いていた。
その一角、薄桃色の花が咲く庭園を見渡すバルコニー付きの屋敷。
その家に、かつて龍華も住んでいた。
「姉さん、今日も学校行きたくないよ……」
眠たそうな声で、頬杖をつきながらぐったりと呟く少女。
妹の名は、あやか。
まだ制服に袖を通していないまま、朝の光を浴びてソファに沈んでいる。
「もー、また? あやか、学校に行きなさい」
キッチンから顔をのぞかせたのは、龍華。
エプロン姿に優しい笑みを浮かべ、まるで日課のようにその言葉を繰り返している。
「あーい……」
渋々と返事しながらも、あやかはしっかり制服に手を伸ばしていた。
そう、これは“あたりまえ”の一日だった。
モンスターの影も、争いの火種もない、ほんの少し退屈で、だけど心から穏やかな日常。
龍華はそんな日々を、確かにそこに過ごしていた。
妹の寝癖を直しながら、笑いあい、背中を押して送り出す朝。
その時の自分が、この先どれだけの戦いと悲しみを見ることになるかなど、想像すらしていなかった。
朝の空はどこまでも青く、風は優しかった。
「姉さん、がんばってくるからね」
「うん。帰りには迎えに行くから」
そう言って、あやかは小さな手を振った。
龍華も、いつものように微笑んで、見送った。
それは、なんでもない――本当に、よくある朝の光景だった。
制服の裾を揺らして、あやかは通学路の角を曲がっていく。
その背中が見えなくなるまで、龍華は見送っていた。
ほんの数分。たった数十メートルの距離。
それが、ふたりの永遠の“最後”になるとは、思いもしなかった。
当たり前に思っていた時間が、唐突に、理不尽に断ち切られる。
日常の終わりとは、いつもこんなにも静かで、あっけない。
「じゃあね、またあとで」
その言葉が、最後の約束になってしまった。
もう二度と、あの手を引くことも、声をかけることも叶わないまま――。
妹と別れ、1時間後――。
それは本当に、いつもと変わらない朝のはずだった。
なのに。
「……煙?」
龍華は立ち止まる。遠く、学校の方向から黒い煙が空を裂いていた。
目を凝らすまでもない。あれは火事なんかじゃない。爆発だ。
そして、その直後――。
『警報発令。全住民に通達します。第七地区、魔物襲来。繰り返します、第七地区にモンスターの出現を確認』
甲高い警報音が空に響き、街じゅうに張り巡らされたスピーカーから、冷たい声が鳴り響いた。
「モンスター……?天界に、モンスター……?」
ありえない。ここは“天界”だ。
モンスターなんて地上にしか現れないはずだった。
天界人は安全だと、ずっと信じていた。
足が震えた。
周囲の人々もざわついている。誰もが状況を飲み込めていない。
だが、次のアナウンスが決定的だった。
『非戦闘者は、直ちに指定された避難所へ向かってください。第六避難区が最寄りです。各自、落ち着いて行動を』
「……っ」
目の奥が、じんと熱くなる。
行かなきゃ。わかってる。私は、ただの一般人。
今は、どうしようもできない。
でも――
「あやか……!」
あの子の顔が浮かぶ。
手を振って、学校へ向かっていった、あの笑顔。
迎えに行くって言ったのに。
一緒に帰るって、約束したのに。
それでも――それでも。
私は、避難しなければならなかった。
私は、選ばれてなんかいない。ただの市民。
ここで向かえば、何もできずに、死ぬだけだ。
拳を握る。唇をかむ。
無力さと、悔しさと、そして恐怖。
「……ごめん……ごめん……っ」
泣く暇すらなく、龍華は避難指示に従って走り出した。
警報の鳴り響く中、心の奥で小さな何かが――確かに壊れた音がした。
避難所の空気は重かった。
けたたましい警報は止み、モンスターは「鎮圧された」と告げられた。
けれど、それが本当に終わりだったとは、とても思えなかった。
龍華は、ただ待っていた。
あの子が、あやかが帰ってくるのを。
ひたすらに――何時間も。
やがて、家族が避難所へたどり着いた。
泣きじゃくる母。疲弊した父。
でも、そこに――あの子の姿はなかった。
「……あやかは?」
誰に聞いても、返事はなかった。
時間が過ぎていく。夜になって、朝になって、また夜になった。
それでも、妹は帰ってこなかった。
やがて、騎士団から報告が入った。
「モンスターはすでに撃退されました」
「現地は制圧済みです」
「犠牲者の確認を進めています」
それは、言い換えれば「希望はもう薄い」という意味だった。
それでも龍華は信じた。
どんなに遅くても、あの子は戻ってくると。
あの笑顔で「迎えにきた?」と笑ってくれると。
だが――
何日経っても、何週間経っても。
あの子の姿はどこにもなかった。
遺体すらも、見つからなかった。
――「モンスターたちは、“殺す”ために来たのではなく、“さらう”ために来た」
そんな情報が流れたのは、ずっと後だった。
理由は?目的は?
誰にもわからない。ただの推測。
高位魔術の実験材料。取引の材料。洗脳のため。ありもしない憶測が、情報の海を漂っていた。
だが、龍華にとってはどうでもよかった。
理由なんて、どうでもよかった。
あの子が、どこにいるのか。
生きているのか。苦しんでいるのか。
それだけが――それだけが知りたかった。
胸にぽっかり空いた穴は、何を流し込んでも埋まらなかった。
~~
静かな夜だった。
はずなのに、彼女の寝息は乱れていた。
――「姉さん、行ってくるね!」
――「迎えにくるからね」
夢の中で、あの笑顔がまた現れた。
遠ざかる背中。校門に消える姿。
そして、視界を覆う黒煙。響く警報。人の悲鳴。
「……っは、はっ……!」
龍華は目を覚ました。
汗が額からこめかみに伝い、枕元のシーツを濡らしていた。
胸が苦しい。息が吸えない。過去の光景が頭から離れない。
何度も見た夢だった。
でも、何度見ても慣れることなんてなかった。
彼女はゆっくりと上体を起こした。
窓の外には静かな星の海が広がっている。
それが、どこか無性に冷たく感じられた。
「……情けないな、私」
小さく漏れたその声は、自分を責めるように震えていた。
守れなかった。
手を伸ばせば届いたはずの未来を、無力な自分は見送った。
――逃げることしかできなかった。
どれだけ強くなっても、どれだけ多くの仲間を救っても、
“あの時”に戻って、あの子を守ることはもうできない。
それが、彼女にとっての“原罪”だった。
どこかでずっと思っている。
「私はまだ、あの時の自分から進めていないんじゃないか」と。
理想を語っていても、力を手に入れていても。
心の奥底にいる“あの日の龍華”は――
泣きながら、立ちすくんでいるのだ。
しかしながら――
前へと、龍華は確実に歩んでいる。
それだけは、誰よりも自分が知っていた。
涙を流す夜も、夢にうなされる朝も、何度も繰り返してきた。
それでも今、彼女の手には剣がある。
守るべき仲間がいて、信じてくれる後輩たちがいる。
そして、自分の言葉に耳を傾けてくれる人たちがいる。
あの頃の自分とは違う。
たとえ心に消えない傷が残っていても、
それでも歩みを止めなかった。
止まらなかった。
「……ふぅ……」
呼吸を整え、カーテンをわずかに開ける。
静かな夜風が、熱を帯びた頬を撫でていく。
星々はただ、黙って空に瞬いていた。
龍華は小さく微笑んだ。
――この世界が少しでも、優しくありますように。
願いは、今も胸にある。
そしてその願いは、かつての自分が絶望の底で誓った、
「もう誰も、ひとりにしない」という約束でもあった。
朝が来る。
また戦いが始まる。
だけど、心は揺るがない。
彼女は確かに、未来へと進んでいる。