※本作は「pixiv」にも投稿しています。
LOVE LETTER
磯波という艦娘がいる。書類上の類別は吹雪型駆逐艦九番艦。
彼女にはたくさんの「姉妹」がいる。だが、彼女たちは血のつながった存在ではない。少なくとも三年前までは、彼女たちは顔すら知らない他人だったのだから。
それは当然だった。艦娘とは――艤装を運用できるよう、適正のある人間を改造した存在なのだ。
磯波の名は磯波である。艦娘である彼女はそう呼ばれる。
だが、彼女を誰もがそう呼んでいるわけではない。
例えば、彼女の家族。
*
雪に半分埋もれたような一件の家。その前に一人の少女が佇んでいた。素朴そうな顔に大きな瞳。少しだけ茶色がかった黒髪は、いささか野暮ったい二つの三つ編みに結われている。鎮守府から支給された男物の黒い
鎮守府で磯波と呼ばれているその少女は、家を見上げて白い息を吐いた。どこか、その家に入ることをためらっているようにも見えた。
「……ただいま」
古めかしい玄関の引き戸を開けて、磯波はそう声をかけた。
深海棲艦との戦争は継続されていたが、太平洋での戦況が落ち着き、一部の艦娘は帰省が許された。その一部の艦娘には磯波も含まれており、彼女は雪国にある実家へ戻った。たった四日間だけだが、故郷の、家族の待つ実家にいることができる。
「ああ、お帰り、美香!」
待ち構えていたように、そこには笑顔の母親がいた。磯波が「お母さん」と呼びかけるまもなく抱きしめられる。
美香。それが、磯波の本名だった。美香――磯波の母親は娘が着ていた外套に気付くと少しだけ眉根を寄せた。
「どうしたの、こんな可愛くないコート」
「これ、一応制服なの。鎮守府の外にいるときも」
磯波は少しだけ外套を脱いでみせた。その下には、白と
「制服は着ていないといけない決まりで」
「そう……厳しいんだね」
磯波が脱いだ外套を受け取り、母親は娘を家の中に招き入れた。
「お父さんにただいまって言ってやって」
「うん」
暖房の効いた日本間に、磯波は足を踏み入れた。そこには誰の姿もない。ただ、仏壇があった。
仏壇の前に正座し、磯波は線香を手に取った。火をともして線香立てに置き、両手を合わせる。
「ただいま、お父さん」
しばらくして瞳を開けた磯波は位牌と写真を見つめた。紺色のスーツを着た、どこか人の良さそうな父親の姿。
彼女の父親は深海戦争が勃発する前年、大病を患い、亡くなった。写真撮影が趣味で、優しかった父親。美香と呼ばれた少女が艦娘の道を選んだのは、適性があったからであり、父親の死から逃げるためでもあった。
艦娘となり、海原を駆け抜け、生と死が隣り合わせの戦闘を何度もくぐり抜けるうちに、彼女はようやく父親の死と向き合うことができた。
夜、ただ一人のきょうだいである兄が戻り、家族三人の夕食が始まった。兄は終始笑顔だったが、三年前と背丈が変わっていない妹を見て、少しだけ悲しそうな表情を何度か浮かべた。それは母親も同じだった。
――艦娘となった者は歳を重ねない。死ぬときまで、その姿のままでありつづける。そんな現実を、家族は知っていたのだ。
*
翌日。
磯波は一台のカメラを手に出かけた。父から譲られた、小柄な磯波に似合わないその大きなカメラは彼女の宝物だった。鎮守府にまで持ち込んで、艦娘やそこで働く人々、身近な風景を撮り続けたカメラ。
一月の、雪に覆われた故郷の風景。最初にそれを撮った。白い雪と灰色の空。陰鬱と言っていいその景色を彼女は好んでいた。
大きく息を吐き出す。白い吐息。
そして磯波は除雪された道を歩き始めた。ある人に会うため、今日は家を出てきていた。
「きゃっ……!」
そして、薄く積もった雪の下に隠れていた氷を踏みつけ、足を滑らせた。転ぶ。お父さんのカメラが壊れちゃう。そう意識したとき、小柄な彼女の身体を誰かが支えてくれた。
「セーフ、危なかった」
声が聞こえた。磯波は顔をあげ、自分を助けてくれた人の顔を見た。少し苦く笑う青年の顔があった。
「ちょっと早いけど迎えに来たよ、美香ちゃん」
*
磯波が実家に戻ったとき、母親から幼なじみも帰省していると聞かされた。彼の名前を聞いて、磯波は少し胸を高鳴らせた。
艦娘になる前、お兄ちゃんと呼んでいた幼なじみ。数え切れないほど一緒に遊び、勉強を教えられ、笑い合った。好き、という素直な感情があった。
それを伝えられないまま、磯波は艦娘としての適性を見いだされ、故郷を離れることになった。
いてもたってもいられず、磯波は幼なじみの家に電話をかけた。慣れ親しんだ声が聞こえて、じゃあこっちにおいでと言われた。
――生きて彼に会えるのは、幸運だった。
「三年ぶりかな、美香ちゃんと会うのは」
「うん。お兄ちゃん、元気だった?」
「息災ってとこかな」
暖かい幼なじみの部屋に迎え入れられ、磯波は表情を緩ませた。以前はここで、いつも勉強を教わっていた。どうにも算数が苦手だった彼女。幼なじみが懇切丁寧に教えてくれたことを思い出す。
幼なじみは四つ年上の少年だった。今は青年と言っていい年齢になり、東京の大学に通っているとのことだった。磯波と同じ日に帰省していたのは、全くの偶然だった。
「変わってないね、美香ちゃんは。どう、海軍でも勉強しなきゃならないことはたくさんあるんだろ?」
「たくさんあるよ。数学もあるし。……この前、成績がよくなくて香取先生にちょっと叱られちゃったけど」
やっぱり数学は苦手なんだ。算数も苦手だったし。そう言って幼なじみは穏やかに笑った。彼の中の美香はずっと美香なのだろう。家族と同じように。
それから、二人はお互いのことをずっと話していた。防衛上の秘密に関わらない限り、磯波は海軍での、艦娘としての生活を話した。少しだけ真面目な顔をしながら、幼なじみは磯波の話に耳を傾けていた。
「それでね、この前新しい子が来たの。フレッチャーちゃんっていうんだけど、すごく美人で――」
その時、磯波は気付いた。幼なじみの顔が、真剣な表情になっていたことに。
「お兄ちゃん?」
「……黙っていようと思ったけど、やっぱり話すことにする」
立ち上がり、幼なじみはクローゼットの中から何かを取り出した。それを磯波に見せる。軍帽だった。磯波は大きな瞳を丸くした。鎮守府で見慣れている、海軍の軍帽だった。
「大学は休学することになったんだ。この前、海軍の人が来てね、熱心に説得された」
士官候補生待遇で、彼は海軍に入隊することになった。彼には素質がある。それがどうしても必要だ。そう説得されて。
「僕に何ができるか、何日も考えたよ。美香ちゃんのことも思い出した。あの子が戦っているのなら、僕も戦えないのかって」
「お兄ちゃん……」
「もちろん、戦死するかもしれないってことはわかってる。でも、変な言い方だけど、美香ちゃんを放っておけなかった」
座って、そっと軍帽を磯波に被らせる幼なじみ。ぶかぶかで、大きかった。
「そんなの、そんなの、お兄ちゃん」
海軍に来て欲しくなかった。好きな人には穏やかに暮らしていてほしかった。自分は大丈夫だとわかってほしかった。
「お兄ちゃん、そんなのイヤだよ……!」
「美香ちゃん」
幼なじみは磯波の両肩に手を置いた。セーラー服越しに伝わる彼の体温。温かい手だった。
「もう決まったことなんだ。明日、僕はここを発つ。しばらく勉強と訓練があって、僕も海へ出る。……さっき、話してくれただろ? 美香ちゃんのお姉さんや妹さんたちのこと、鎮守府の人たちのこと」
肩に置いた手を離し、磯波の両手を握る彼。本当に、温かい手だった。
「そんな人たちがいるなら、僕の決断は間違っちゃいない。美香ちゃんを護ることだってできるかもしれない。だから、僕は海軍に入隊するよ」
涙をおさえきれなくなった磯波は、幼なじみの胸に飛び込んでいた。必死に抱きつき、彼をここにとどまらせようとした。
幼なじみは磯波の髪を優しく撫でてきた。子供の頃、何か悲しいことがあるたびに磯波は彼の胸に飛び込んだ。そして、髪を優しく撫でられた。
「ダメだよ、海はつらいんだよ?」
「わかってる」
「たくさん人が死んじゃってるんだよ?」
「わかってる」
「わたしだって、いつ沈んじゃうかわからないんだよ?」
「……わかってる」
全然わかってないよ。磯波のそんな声は、自分の泣き声にかき消された。
*
その日の夜。
自分の部屋にそのまま残されていた学習机に向かって、磯波は手紙を書いていた。
彼女より早く、幼なじみは明日の午後、出発するのだという。それまでに、彼に渡すための手紙を書いていた。
深夜になるまで、彼女は何度も何度も手紙を書き直した。伝えたいことがうまくまとまらない。素直に好きという気持ちを伝えられない。
そう、それはラブレターだった。自分に何かがある前に、彼に何かがある前に、どうしても伝えたい気持ち。便箋に書き込まれた、磯波の気持ち。
日付が変わった頃、やっと手紙が書き上がった。遠くの街へ行く幼なじみに渡す手紙。可愛らしい水色の封筒に収め、それを磯波はじっと見つめた。伝わりますように。そう祈って、封筒に小さくキスをした。
その時だった。
彼女に埋め込まれたごく小さな機械が、磯波の耳小骨を振動させた。そして伝わる、暗号化された通信。
「――えっ」
その内容に彼女は立ち上がった。艦娘ハ直チニ参集セヨ。急いで鎮守府へ戻れという。まだ、書いたばかりの手紙も渡せていないのに。彼に何も伝えられていないのに。
だが、磯波は戻らなければならなかった。
司令官が撃たれたのだ。重傷、意識不明。撃った深海の工作員は身柄を拘束された。
*
翌日の早朝、磯波の姿は駅のホームにあった。見送りに来た母親が隣にいる。母親は泣きそうな顔をしていた。
「また帰ってくるんだよ、美香」
そう何度も繰り返す母親。磯波は静かに「うん、わかった」と答え続けた。
不意に、視線がホームの上をさまよう。幼なじみの姿はなかった。本当は、彼にも見送りに来てほしかった。だが、それはかなわない。彼も、今頃家族との別れを惜しんでいるはずだった。
本当は、わたしがお兄ちゃんを見送るはずだったのに。外套のポケットには、渡せなかった手紙がそのまま入っている。それは、永遠に渡せないのかもしれない。そんな悲しい想像が、磯波の頭をよぎった。
駅の案内放送が聞こえ、やがて特急列車がホームに入ってきた。普段の磯波であれば、喜んでカメラを取り出すところだ。だが、彼女はそうしなかった。できなかった。
列車が起こす冷たい風。それに目を細めながら、磯波はまた幼なじみの姿を探した。やはり、どこにも彼の姿はなかった。彼もまた海軍に入隊する。もしかしたら、どこかで会えるかもしれない。だが、今も深海棲艦との戦争が続いている。彼が戦死するかもしれないし――磯波が沈むかもしれない。
やがて列車が止まり、ドアが開いた。磯波は母親に小さく抱きついた。
「それじゃ、行ってきます」
母親から離れて、列車に乗り込む磯波。ドアが閉まり、何度も手を振っている母親の姿が見えた。磯波は手を振り返した。そして彼女は俯いた。
――手紙は、渡せなかった。
*
鎮守府は大騒ぎだった。その可能性は示唆されていたが、深海に入り込まれていたと考えている者は多くはなかった。
撃たれた司令官は一命をとりとめ、意識も回復したが、すぐに現役復帰とはいかなかった。急遽、別の鎮守府から司令官が赴任してくることとなった。
新しい司令官は善人ではあった。だが、あくまで臨時に指揮を執っているにすぎない。その後、何度か司令官の交代があったが、元の司令官が戻ってくることはなかった。
*
あれから二年が過ぎた。
戦況は人類側が有利になりつつあったが、膠着状態と言ってよかった。まだ、戦争は終わりそうにない。
磯波は艦娘として何度目かの冬を迎えた。背は伸びていない。顔立ちも幼いまま。ただ、出撃と訓練と休息を繰り返す毎日だった。
一月十日、統合軍令本部から通達があった。新しく司令官が鎮守府に着任するとのことだった。聞けば、突然現れた戦術指揮の俊英らしい。
あの日以来、司令官には護衛の艦娘が付き添うことになっていた。また深海の工作員が鎮守府に侵入しているとも限らないからだ。
そして、新しい司令官の護衛艦には磯波が選ばれた。これからしばらく、彼女は司令官の護衛と執務補佐を続けることになる。
「……ふぅ」
一つ息を吐く。鎮守府本館の正門で彼女は司令官を待っていた。どんな人だろう。怖い人じゃないといいな。そんなことを考えながら。
やがて九時五十五分、正門前に錨のステンシルが施された黒い公用車が停まった。ドアが開けられる。第一種軍装に身を包んだ青年が姿を現した。
「美香ちゃん。いや、磯波」
不意に慣れ親しんだ声に呼ばれて、磯波は敬礼した。そして、大きな瞳を丸くした。
「これから、君は僕をお兄ちゃんと呼べなくなるぞ」
朗らかに笑って、青年は――新任司令官は答礼した。
「あ……」
「まだ力不足だとは思うけど、これからは僕が君たちを護る。努力する。だから僕を信じて、磯波」
何回も何回も書き直したあの手紙は、まだ渡せていない。
でも、それでよかった。
戦後が訪れるのなら、そのときに渡そう。そう、磯波はこころに決めた。