真人と別れたあと、
紬は近くのショッピングモールに立ち寄り、
トイレへ滑り込んだ。
やることは,全身鏡の前での入念な確認。
ブラウス,スカート、袖、襟元——
どこかに血が飛んでいないか、くまなく目を走らせる。
幸い、血痕はなかった。
紬(よし、問題なし……。木曜日は“まおくんが転んだ”で誤魔化せたけど、さすがに今回も、だったらやばいからね〜)
それから電車に揺られ、夕方のうちに帰宅。
紬の母「おかえり!今日は早かったわね!」
玄関先では、母親がにこやかに迎えてくれた。
紬「まあね。……今日はカラオケ行ってきたんだ。ほら、成寺駅の近くのとこ」
どうせ聞かれるとわかっていた質問を、先んじてかわす。
——あの廃ビルの殺人現場が発見されるのは時間の問題。
そのためにも、動線として正反対のカラオケに行っていたという設定だ。
母親は頷きながら、にやにやと笑みを浮かべた。
紬の母「ふふ、二人きりでカラオケなんて……もう、完全にデートじゃない。好きなんじゃないの、“まおくん”のこと」
——ああ、これはもう“ただのオタク友達”設定、限界かも。
そう思った紬は——
紬「どう……なんだろ。そうなのかも……しれない。
でも正直、自分でもよくわかってないんだよね」
曖昧に答える。肯定でも否定でもなく、煙に巻くように。
紬の母「まあ!!……ふふ、応援してるわよ」
そんなやりとりをしていると、リビングの方から父の低い声が飛んできた。
紬の父「……紬。もしその“まおくん”と付き合うなら、一度、家に呼んでからにしなさい」
紬「——え?」
不意の言葉に、思わず声が詰まる。
紬の父「別に、正式に挨拶させろって言ってるわけじゃない。ただ、その“まおくん”の顔を、一目見ればそれでいいんだ。……それは、わかるだろ?」
——まずい。
真人には会わせられない。
それ以前に、両親にとって真人は“視えない存在”なのだ。
どう誤魔化すか、頭を巡らせた紬は、
少し強い口調で言い返す。
紬「別に、付き合うとかそういうんじゃないから!
さすがに話が早すぎだよ。“好きかもしれない”ってだけで!
……まだ全然、友達だし!」
早口で捲し立てると、母親がやんわりと助け舟を出す。
紬の母「まあまあ、お父さん。そこは紬のペースでやっていけばいいじゃないの」
場の空気が和らぎ、会話もそこで途切れた。
そして紬は、そのまま自室へと引っ込み。
ドアを閉め,部屋の明かりをつけた。
紬は、そのまま椅子に腰を下ろし,
——-"まおくん”設定の限界を感じ始めていた。
("真人に会わせる"なんて,そもそも無理だし……
どうしよ。今後も友達設定で通していくしかないかな……
でもそれは無理がある.....かといって,
"付き合ってる"なんて言ったら,"じゃあ一回家に呼べ"だし……)
悩みが堂々巡りを始めた、そのとき。
ふと、視界の隅に映ったのは、
机の上に立てかけてあった日本史の教科書。
……あ。
電撃のように、金曜日の授業風景が頭をよぎる。
(——今日の授業で平安時代は終わりだ。
というわけで、桓武天皇による平安京遷都から鎌倉幕府設立まで、まとめテストをやるぞ。
テストは来週の月曜日、1時間目だな。週末によく復習しておくように)
…………
(やっっっば!!!!!)
教科書のページをめくる指が震えた。
そうだ。金曜日の放課後までは確かに復習していた。
だがその後、土曜の真人とのデート、呪力切れによる爆睡、
そして今日の事件——
すべてが重なり、日本史のテストの存在は見事に頭から吹き飛んでいた。
しかも。
(このテスト……60点いかないと、放課後補修じゃん……!!)
放課後補修に呼び出されたら、真人に会いに行けなくなる。
それは死活問題。心のライフラインを断ち切られるも同然。
さらに、追い打ちはもう一つ。
(お父さん、絶対言ってくる……「まおくんと遊びすぎて、成績下がってるんじゃないのか」って……!)
思い出すのは、飛鳥時代のテストで45点を取って放課後補修になったときのこと。
そのときも、父から「アニメの見過ぎじゃないのか」と皮肉を飛ばされた。
今回は“アニメ”じゃなく、“まおくん”。
疑いの目は、もはや間違いなく“真人”に向けられるだろう。
(ダメだ……!補修なんて絶対行けない……!真人に会えない……お父さんに責められる……無理!!死ぬ!!精神的に殺される!!!)
もはや、冷静な思考などなかった。
とにかく補修だけは避けなければならない。
真人との明日も、明後日も——会うためには。
(現在時刻……18時ジャスト!!
ここから一夜漬けで詰め込むしかないっ!!)
紬は日本史の教科書を手に取り、
ノートと筆記用具を机に並べる。
呪力も、瞬間移動もいらない。
今、必要なのは“人間としての努力”だけ。
「っしゃぁぁ……戦じゃあああああ!!!!」
心の中で気合いを入れ、紬は地獄の詰め込み勉強を開始した。