「特級案件だね、間違いなく」
そして,五条は。
パン、と軽快な音を立てて両手を叩くと、再び紬のほうを向く。
五条「じゃあ、呪霊の証言も取れたわけだし……約束通り、君には呪術高専に入ってもらうよ。
名前、なんていうの?」
紬(……え、ほんとに……? いまのやり取りで……通った?)
慎重に、慎重に言葉を選んだ末の”虚構”が、どうやら五条の中で信憑性を得たらしい。
——嘘が、通った。
紬「……桐生(きりゅう)紬」
“転校”するなら戸籍が必要になる。
さすがに偽名は通じないだろう。
素直に本名を口にする。
五条は満足げに頷き、どこか軽く笑った。
五条「そう。よろしくね、紬」
その瞬間、紬の中にわずかな安堵が広がる。
紬(……なんとかなった。今のところは、だけど……)
だが——その安堵も束の間。
紬(……あ、でも……“転校”って、親にはどう説明するの?)
当たり前の疑問が頭をよぎる。
“呪術高専に強制転校"——そんな話、親にどう納得させればいい?
すると、それを見透かしたように、五条が続けた。
五条「紬ってさ、家族はいるの?親は?」
紬「………まあ、普通に。両親と暮らしてるし」
五条「で、その“あぐり”とは? 両親には内緒で会ってたわけ? 親って、非術師?」
紬「……まあ……そう、だけど……」
五条は、そこでふうっと深く、重たく息を吐いた。
五条「……まずいね、それ」
紬「……え?」
眉が動く。嫌な予感が、背筋を這う。
五条「呪術高専って、全寮制なんだよね。それ以前に——君さ、もとは“呪霊と繋がってた”わけじゃん?」
五条の目に、かすかに鋭さが宿る。
五条「そんな子を“また呪霊の元に戻しました〜”って、なるわけないでしょ」
紬「……っ」
五条「つまり君、もう帰れないの。今日で終わり。」
ガン、と音がした気がした。
それは鼓膜が反応した音ではなく、脳が“現実”にぶつかった音だった。
五条「だからさ——今から君の家、行くよ。」
紬「……は?」
五条「補助監督の伊地知にも同行してもらって、君の親に“事情”は彼から説明させる。……君が何やってたかも,ちゃんと伝えてもらうからね」
紬は何かを言おうとしたが、声が出なかった。
五条「で、君は荷物をまとめて……そのまま高専に直行。」
紬「……っ、え……え、ちょ、ちょっと待って」
五条「分かったね?」
五条の目は笑っていなかった。
——まるで、既に“決定事項”だとでも言いたげに。
そして、五条は腰を上げると、紬の背後に回り、後ろ手に縛られていた縄を外した。
それは、紬の呪力を封じていたもの。
解放された瞬間、紬の体内に流れる“呪力”の感覚が蘇る。
今なら、瞬間移動も可能だ。
最大飛距離1.4キロ。ここから消えることも——
だが。
五条「……間違っても、瞬間移動で逃げようなんて考えないようにね」
縄がほどかれると同時に,五条の声が飛んできた。
五条「それやったら、問答無用で即・指名手配。
いくら僕でも,二度目はさすがに庇い切れないしねー。
ま、そもそも僕が発動前に眠らせるけど。前みたいにさ」
紬「……っっ」
釘を刺された。
きつく、逃げ場のない言葉で。
(……そうだ。前回、それをやって捕まったんだ。次はない)
思い出す——校門前で、呪力を練った“その瞬間”に、首筋に手刀を撃たれ、何もできずに昏倒したあの記憶。
瞬間移動には,呪力を練り、方向を決め、
飛ぶイメージを作る"タメ"がいる。
そして,その"タメ"を見せた瞬間。五条に潰される。
紬はギュッと唇を噛み、ただ無言で頷いた。
五条はそんな紬の反応を確認すると、軽く手をひらひらと振って立ち上がった。
五条「じゃ、紬。ついてきて。伊地知に車出させるから」
そしてふたりは、地下室を出て、夜風の中を並んで歩く。
やがて、止められていた黒い車の後部座席に乗り込むと、運転席には黒スーツの男がいた。
伊地知「はじめまして。私は高専補助監督の、伊地知潔高です」
律儀な口調とともに、眼鏡をかけた男が振り返って軽く頭を下げる。
紬(……あ。この人は、怖くないかも)
五条による心臓バクバクの尋問を経て、今から“親バレ”という修羅場に突入する紬にとって、
この落ち着いた態度の男は、ほんの一瞬だけ心を緩ませる存在だった。
紬「……あ、はじめまして。桐生紬です」
小さく答えると、伊地知は真面目な調子で言った。
紬「では桐生さん。今から、君のご自宅へ向かいます。ご住所を教えてください」
———ああ、もう本当に逃げられないんだな。
呪力は戻った。けれど、それが何になる。
紬は観念したように、静かに住所を告げた。
前を向いた伊地知が、ナビにその住所を入力する。
エンジンの駆動音が響き、車がゆっくりと走り出す。
……もう、戻れない。
今の生活も、両親との日常も、真人との時間も。
すべてこの日を境に、終わろうとしていた。