場を支配していたのは、重く沈んだ沈黙。
そして——母の嗚咽だけ。
父は、拳を握りしめたまま荒い息をつき、
視線すら紬に向けようとしない。
——その背中からは、明確な“絶望”の色が滲んでいた。
対して、紬は氷のような瞳で、
そんな父を睨みつけている。
涙はもう、出なかった。
失望と、割り切れない諦めだけが、胸に沈殿していた。
伊地知は、必死にポーカーフェイスを保っていたが、内心では
(やばい、これ……完全に家庭崩壊の空気……!)
と、心の中で何度も叫び声をあげていた。
——その、張り詰めた空気を破ったのは、やはり五条だった。
五条「……じゃあ、紬。そろそろ行こっか。高専に。荷物、まとめてきて」
それは、感情を挟まぬフラットな声。
紬は黙って立ち上がると、
無言のまま階段を上がって自室へと向かう。
その背を、五条も静かについていく。
階下、リビングでは、伊地知が事務的な説明を始めていた。
伊地知「……呪術高専は、呪術師を育成するための全寮制の学校です。
表向きは、私立の宗教系学校という建前になっています。
しばらくの間は外出制限などもありますが、卒業後であれば、一般社会への復帰も可能です」
それは“希望”のように聞こえたが、
実際には“条件付きの恩赦”だった。
一方、二階では——
紬が、学校のカバンに必要最低限の衣類や私物を詰め込んでいる。
紬(……全部、終わったんだ)
そう思いながらも、手は動く。
もう、ここには戻ってこない——
そんな覚悟が、すでに出来ていた。
やがて荷造りが終わり、紬は階段を下りる。
玄関へと向かい、靴を履く。
その後ろに、五条と伊地知が続く。
——父は、最後まで一言も発さなかった。
怒りも、嘆きも、既に言い尽くしていたのだろう。
そして——
玄関を出る直前。
母が、泣き腫らした顔で、絞り出すように声をかけた。
母「紬……ちゃんと……帰ってきてね……」
その言葉に、紬の胸がかすかに揺れた。
視界が、にじみかけた。
けれど、紬は何も言わず、ただドアを開けて外へ出た。
伊地知の黒い車が停まっている。
後部座席のドアが開き、紬は迷いなくその中へ滑り込んだ。
——バタン、とドアが閉まり。
五条が助手席に,伊地知が運転席に乗り込み。
そのまま、車はゆっくりと動き出す。
紬の家が、少しずつ遠ざかり——やがて,見えなくなった。
車が高専の敷地に到着したのは,深夜近い時間。
案内されたのは、学生寮。
伊地知が,鍵を片手に,必要事項を事務的に説明した。
伊地知「呪術師には、学生でも給料が支給されます。その中から、寮費・食費などの生活費が天引きされる仕組みです。
紬さんの場合,当面は…任務以外での外出は禁止となりますが……ネットショッピングなどは自由ですので、ご安心ください」
五条も、いつもの軽い口調で付け加える。
五条「今はもう遅いし、みんな寝てるからね。挨拶は明日で。静かにしてあげて」
そして、少しだけ真面目なトーンで続ける。
五条「……あと、高専敷地内は常時“天元様の結界”で保護されてるから。この中で術式を使うと、警報が鳴るよ。バレないなんて思わないほうがいい」
「静かに」などと言われるまでもなく。
紬にはもう、言葉を発する気力すらなかった。
そのまま,部屋の中へと案内される。
小さなワンルーム。窓と机、ベッド、クローゼット。
荷物を置いたのを確認すると、五条は「じゃ」とだけ言い残し、ドアを閉めて去っていく。
——そして,紬はようやく“ひとり”になった。
頭に浮かぶのは、術式《瞬間移動》のこと。
今なら、至近距離に五条はいない。
発動前に潰されることはない。
最大飛距離,1.4km。
ここから、逃げられる。
けれど。
(……使った瞬間、警報。バレる)
瞬間移動で逃げれば、高専から即指名手配。
思い出すのは、木曜日の出来事。
紬がうっかり,単独の上空転移で左足首を骨折したとき。
(真人が飛んできて,治してくれた)
1km先で迷子になった紬の位置を,
真人は,呪力感知で探り当てたと言っていた。
(五条悟なら、1.4km先でも余裕で探知するんだろうな)
とはいえ,紬は単独の瞬間移動なら2回できる。
合計,2.8km先まで飛べる。
それなら,ワンチャン振り切れる…かも,しれない。
———ただ。
逃げたところでどこに行く?
もう、あの家には帰れない。
真人のところに転がり込む?
事情を説明すれば,
——もしかしたら,匿ってくれるかもしれない。
"関わる人間が全員敵"の今の紬にとって,
真人だけが唯一の味方。
助けてくれる、そう、思いたい。
でも。
(家なくしたから置いてくれ,って,普通に迷惑だよね…)
真人とはあくまで,師弟っぽい悪友,それか共犯者。
面倒をみるとか,養うとか…そういう関係じゃない。
(真人のとこ行って……もし,嫌がられたら,もう……)
"最後の味方"にまで拒絶されたら。
それが、どうしようもなく恐ろしかった。
でも,もう,紬にとって頼れるのは真人しかいなくて。
「受け入れてもらえるかも」
という,希望的思考が浮かんでは消える。
———瞬間移動で役に立てば。
真人は,瞬間移動を"とびきり強力"と評価していた。
それを,真人のためだけに使う,と言えば。
喜んで置いてくれるかもしれない。
しかし。瞬間移動は,一回ごとに大きな呪力消費。
発動後の大きな倦怠感がある。
連発できない。
紬ひとりでも一日二回。
真人ごと飛べるのは一日一回だけ。
(それ以外では,役に立てない……
一日一回の移動要員,あとの時間はほぼ置き物……
"便利"より"邪魔"が勝つかも…どうしよう……)
———お金さえあれば。
真人のところに転がり込んでも,
迷惑にならない程度に,
ある程度,物資は自分で調達できるかもしれない。
しかし。今の紬の手持ちのお金は4万円分。
机の引き出しの中からしか持ち出せなかった。
(こんなんじゃ,すぐなくなる……到底無理。使い道ないからって,お年玉を母親に預けてなければ……
いや、それでも稼げない以上は……ダメか。結局は,底をつく)
つまり,これはもう。
(……詰みだ。逃げても…行き先がない)
紬はベッドへと身体を投げ出した。
そして——
それまで張り詰めていた何かが、ぷつりと切れる。
途端に、溢れ出した。
——涙が、ぶわっとこぼれ落ちる。
止まらなかった。
言葉も、声も出なかった。
ただ、静かに。
この,独房のような,寮の一室の中で。
泣き続けるしかなかった。