紬の、精神療養生活が始まった。
地下に近い、ひっそりとした寮の一室。
伏黒や釘崎たちの耳に、虎杖の生存情報が漏れぬよう——
紬の部屋は、同級生たちとは完全に隔離された場所に移された。
任務はなし。
あるのは、虎杖悠仁とふたりきりの生活。
映画を見たり、教科書を広げて高校の勉強をしたり。
それだけの、淡々とした日々。
授業は存在しない。だが——
家入硝子の計らいで、"映画見すぎ防止策”として、
毎日ちいさなテストが課された。
映画の知識を得ながらも、学業をサボらせないためのささやかな締め付け。
虎杖に比べて、紬の処遇は厳しかった。
——理由は、ひとつ。
彼女が「呪霊と会っていた過去を持つ、“元・敵側”」だったから。
事実上の軟禁だった。
外出許可は出ない。
接触する人間も限られていた。
虎杖悠仁、そしてたまに顔を出す家入硝子。
あとは、定期的に稽古をつけにくる、五条悟——
……五条。
紬のトラウマスイッチにして,
最も深く刻まれた“敵”の顔。
尋問、転校強制、家庭崩壊、実戦投入。
すべての地獄の入り口に立っていたのは、あの男だった。
(——会いたくなんか、ない)
(でも、“担任”で“最強”なら、逆らえば即終了)
従順を演じるしかなかった。
そして、虎杖。
彼は敵ではない。
……はずだった。
だが、五条と親しげに話す姿を見たその瞬間から、
紬の中で「敵」のレッテルはバッチリ貼られた。
紬は、必要最小限の言葉でしか虎杖と会話を交わさなかった。
無視はしない。でも、距離を詰めることもない。
虎杖も、次第に察したのだろう。
やがて彼のほうからも、何も話しかけてこなくなった。
——こうしてふたりは、同じ空間にいながら、ほぼ言葉を交わさない生活を送ることになった。
家入は、敵ではなかった。
けれど忙しく、彼女と関わる機会はほとんどない。
呪術高専における紬の現在地は、はっきりしていた。
“居場所”も、“未来”も、存在しない。
そして、このまま時間が経ち、精神が「回復した」と判断されたなら——
また、呪霊との実戦に出される。
(……また、“あの感触”を……)
呪霊を,刃物で斬りつけた時の。
“グジャッ”と潰れる、肉の手応え。
温度と湿度と……何より、「生の重み」を含んだ、あの、吐き気を呼ぶ手応え。
(無理だ、もう一度なんて…あんなの,二度と)
だが、紬には希望があった。
ひとつだけ——いや、“ひとり”だけ。
——真人。
最後の味方。
師匠にして悪友にして彼氏のような,
紬に,夢のような"居場所"をくれた存在。
社会的立場も,何もかも捨てて,
真人のところに行く。
それが、今の紬に残された,唯一の「生き延びる道」
可能か?——答えは、イエス。
紬の術式《瞬間移動》は、
最大1.4km。
そして、万全の状態でなら、単独で2回使用できる。
合計、2.8km。
呪術高専から“外”へ出るには、十分な距離だった。
——ただし。
(逃げたら、即、指名手配)
紬は,呪霊と関わっていた過去をもつ,"罪人"
本来なら秘匿死刑のところを,
呪術高専に転校し,呪術師として働くことで,
それを免除されている立場だ。
だから。“高専から逃亡”の文字がついた瞬間に,
正式に"敵"とみなされ,
逃亡生活のゴングが強制的に鳴る。
それで捕まったら,今度こそ死刑だ。
そして,真人のところに行く以上———
どうしても、面倒を見てもらうことになる。
真人に対して,"家無くしたから置いてくれ"が通るか,
匿ってくれるかどうかは賭けだが,
ここはもう,信じるしかない。
ただし,できるだけ迷惑はかけたくない。
まして、自分のせいで真人まで見つかって殺されるのは,
絶対に避けなければならない。
(……だから、今じゃない)
逃げる準備を整える時間は、まだある。
実力を蓄え、資金を調達し、逃走ルートを確保する——
それからだ。
(どうせ逃げたら、何をしても“罪人……死刑囚”。
なら、高専の金を持ち出そうが、どうせ同じだ。)
紬は、規則の網をすり抜けるように、
許される範囲ギリギリで、敷地内をうろつき始めた。
——金庫の位置、備品の保管室、脱出口になりそうな構造。
必要なものを、少しずつ、脳内地図に刻んでいく。
そして——
稽古に来る五条の言葉を、
睨むような目で受け止めながらも、技術は学ぶ。
癪だ。
……でも、逃亡生活の成功率を1%でも上げるためなら、
この時間も、無駄にはできない。
(ここは、仮面だ。
私は従順なふりをしているだけ。)
紬は、心の中に固く刻む。
——これは、脱獄準備。
——これは、真人のもとへ還るための戦い。
紬の目に映る呪術高専は、
もう、ただの“監獄”でしかなかった。