そして——
紬が呪術高専での生活を始めてから、一ヶ月が経過していた。
その日、地下の一室では、虎杖はソファに寝そべりながら映画を見ており。
一方その横で、紬は床に正座し、目を閉じたまま、ゆっくりと全身に呪力を巡らせていた。
——右腕、左腕、右脚、腹部、指先、首、そして背中へ。
それは真人から教わった、たった一つの呪力訓練。
五条からは別の呪力操作法も教えられたが、紬は一貫してこの“真人式”に固執していた。
あの時間を、思い出すために。
“あの人”と過ごした記憶が、自分の中で消えてしまわないように。
敵ばかりのこの“監獄”で、正気を保つ唯一の手段だった。
最初は,タイムは三分以上かかっていた。
だが今は——50秒を切るところまで来ていた。
呪力量も着実に増えてきた。
紬の体感で言うならば,
"紬ひとり"なら《瞬間移動》は4回は使えるはず。
金庫の位置も、備品の保管場所も、頭に入っている。
逃亡計画の準備は、着実に進んでいた。
実際、この一ヶ月、何度も“もう逃げ出そう”と思ったことがある。
けれど、紬が求めたのは——確実性だった。
ギリギリまで,逃走成功の確率をあげるために。
もう少しだけ、実力と知識と体力を蓄える。
———そう思って,耐え続けた。
その時だった。
バタンと扉が開き、五条悟が入ってくる。
相変わらずの軽い調子で口を開く。
五条「悠仁ー。これから任務だよ」
ソファで寝転んでいた虎杖が、ぴょんと跳ね起きる。
虎杖「え、マジで? 了解〜!」
五条「僕は今回は別件があって引率できなくてね。だから、頼れる後輩呼んだからさー」
紬「——!!」
紬の心臓が跳ねる。
虎杖が任務に出て、五条は不在。
紬(……今日、逃げられる……!?)
かすかな希望が胸に灯った、その時——
五条「で、紬には、別の任務に行ってもらうよ」
紬「………え」
小さく漏れた声は、驚きとも絶望ともつかない。
紬の中で、ようやく形になりかけた“逃走の確信”が、音もなく崩れ去っていく。
五条「まあ安心して。紬のはリハビリ任務みたいなもんだから。呪霊祓いじゃなくて、あくまで“調査”だけのやつね。
ま、でももしかしたら戦うことになるかもだから、一応の準備はしといてねー?」
五条「じゃ、準備してついてきてー」
軽快に踵を返す五条。
その背中を追って、虎杖が拳をパンッと打ち鳴らす。
虎杖「おっし、行くか!」
紬は,うなだれながら。
棚に立てかけてある呪具のナイフを掴み,その後に続いた。
紬が虎杖と並んで、五条の後ろについて歩いていると。
??「五条さん、その子っすか?」
軽やかで明るい声が、廊下に響く。
振り向くと、金髪プリンの髪に黒いスーツを着た、元気そうな女性が立っていた。
五条「ああ、そう。よろしくね、新田」
そう応じると、今度は紬の方に向き直る。
五条「彼女は補助監督の新田明。今日の任務は、彼女と一緒にやってもらうから」
「悠仁は別の後輩に任せるから、まだ僕についてきてね。じゃ、そういうことでよろしく」
五条は軽く手を振ると、そのまま虎杖と共に、スタスタと歩き去っていった。
残されたのは、紬と——新田。
新田「桐生紬さんっすよね?新田明っす、よろしく!」
明るくそう名乗った新田は、迷いなく手を差し出してくる。
紬「あ……よろしく」
紬も、とりあえず返すが、その声は力なかった。
まだ、ショックから頭が切り替わらない。
今日こそは。そう思ったタイミングで、任務。
新田「……? 元気ないっすね? ……やっぱり、まだ……」
新田は首を傾げる。
紬の“呪霊との戦闘のトラウマで療養中”という情報を事前に知っていたからだ。
だが——
新田「でも大丈夫っす!今回の任務は調査だけっすから!」
新田は屈託のない笑顔でそう言い切った。
(……調査だけ)
その言葉に、五条への不信で固まっていた紬の心に、わずかな緩みが生まれる。
(……あの“グシャッ”とした感触を、また味わわずに済むなら……)
新田は続ける。
新田「今回は、ここから車で二時間くらいの、長野の小さな村っす。
内容は、そこにある“信仰対象”の調査って感じっす。
放っておくと土地神っていう、1級クラスのやばい呪霊になっちゃうんで、
その前に、信仰の実態とか儀式内容を把握しておくっていう任務っすね。
3日くらい滞在して、聞き込み中心で調べる予定っす」
「宿はもう押さえてあるんで、
……すみませんが、泊まりの荷物まとめて、車のとこ集合で!」
紬「——えっ」
思わず、声が漏れた。
泊まり、だ。
部屋に戻るチャンスもある。
(部屋に行くフリして、今から金庫に向かって金を持ち出して,瞬間移動で逃げる……?)
一瞬、そんな案が頭をよぎる。
だが——
(……無理だ。金庫は、部屋と反対方向。
カギが置いてある部屋までも距離がある。
この人をまいてまで今やるのはリスクが高すぎる……。
五条だって,まだ遠くまで歩いてないだろうし,
それをやって鉢合わせたら"詰み"だ。
ここは、大人しく行くしかない)
その決断は、諦めではなく“選択”だった。
(でも——“任務に出された”ってことは、
もう潮時ってことだ。
五条は今回のを“リハビリ”って言ってた。
……なら、次は確実に戦わされる)
(この任務が終わったら——速攻でやる。
金庫の金を持ち出して、物資を詰めて、
今度こそ瞬間移動で真人のところに還る。
一気に高専を脱出する)
冷たく決意を固めた紬は、無言で頷き、新田に一礼した。
紬「……じゃあ、荷物、まとめてきます」
そう言って、背を向け,部屋へと向かう。
数十分後、荷物をまとめた紬は、指定された場所へと向かう。
そして,新田の車へと乗り込み。
車は,任務の村へと向かって行った。
◼︎
紬が長野の村へと向かう任務に出発したその頃。
真人は、例の実験場にいた。
重たく澱んだ空気の中、彼の隣に立っているのは、
最近拾ったばかりの少年——吉野順平。
少年の目には呪いが見える。
そして今、その周囲には、ふわふわと浮かぶクラゲのような式神たちが漂っていた。
真人は、それらを眺めながら言う。
真人「順平の術式は、“毒”だね。
呪力から生成した毒を、式神の触手から分泌する。毒の種類も応用も、使い方次第でいくらでも化けるよ」
言葉通り、式神の一本一本の触手には、うっすらと紫がかった毒の気配が滲んでいた。
順平は、それを興味深そうに、じっと見つめている。
真人「普通の術師が時間をかけて掴む感覚は、俺が教えてやるから。
すぐ戦えるようになる。順平,才能あるよ」
その一言に、順平の瞳がぱっと明るくなる。
誰かに認められた経験の少ない彼にとって、
それは初めての“承認”だった。
だが、真人の笑みの奥——その内心は、どこか冷めていた。
真人(……順平は、悪くないけどさ)
(やっぱり……紬のほうが、面白かったな)
(瞬間移動って,アトラクションみたいだったよな。俺と連携もできたし)
(それに比べて、順平は……うーん、なんか想像の範疇っていうか。
反応とか、言動とか、予測がつくんだよな……)
その評価が決定的な違いだった。
吉野順平は、桐生紬とは違う。
紬は、真人にとって唯一無二の“共犯者”だった。
突拍子もない言動も、価値観も、常識の外側にあって——
だからこそ、特別だった。
けれど、順平は違う。
この少年は——
“宿儺の器”である虎杖悠仁と接触させるための、ただの“駒”に過ぎない。
(はぁ。紬が生きてればな……
……まあ,死んだものはしょうがないけど)
真人の瞳に、どこか飽きたような色が浮かんでいた。