真人は、湿った地下通路を足早に進みながら、
荒く息を吐いていた。
虎杖と七海との戦闘で追い込まれ、
土壇場で領域展開を会得。
七海だけを内包して逆転を狙ったが——そこへ虎杖が侵入。
宿儺の魂に触れたことで、逆に宿儺からのカウンターを受け、左肩を深く斬り裂かれた。
それでも——逃げ切れた。
あとはもう一度変形し、脇道の細い配管に潜り込めば、誰も追っては来られないはず。
そう思った、その瞬間。
――ビリッ。
——瞬間移動の気配。
真人の感知に、鮮やかな呪力が触れる。
紬の呪力だった。
真人(……え。紬……? 生きてる……?)
胸の奥から、抑えきれない歓喜がこみ上げる。
ほんの一瞬、地下通路の空気が、一カ月前のふたりの時間を呼び戻す。
——だが次の瞬間、その温度は氷のように消えた。
真人(……呪力の巡らせ方が前より繊細になってる。
……これ、誰かに稽古つけられてたな)
そして、今まさに——その紬が、ボロボロの自分に近づいてきている。
一ヶ月間、何の音沙汰もなかったというのに。
導き出される結論はひとつ。
真人(……術師側についたのか。……裏切ったな、紬)
真人の呪力感知能力は、紬のそれをはるかに凌ぐ。
紬が自分の位置を特定する前に、
この場から姿を消すことは容易い。
今の真人は深手を負い、領域展開も使い果たし、残る呪力はわずか。
もし紬が敵であるなら、
ここで交戦するのはあまりにもリスクが高い。
——逃げるべきだ。
……だが。
真人「…………」
その選択肢を、真人は捨てた。
自分を裏切った紬が、許せなかったのか。
それとも、ここで背を向ければ、自分は紬にとって——
“昔は仲良くしていたけれど、今はどうでもいい存在”に成り下がってしまうと思ったのか。
それは、本人にもわからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
——真人はここで、紬を迎え撃つと決めた。
一方,真人の実験場のすぐそばに瞬間移動した紬は。
紬(あ,しまった……資金も物資も、何ひとつ持ち出せてない)
真人の元へ飛んだあとの逃亡生活を見越して立てていた,
一ヶ月かけて積み上げた“高専からの持ち出し計画”——
金庫の現金、食料や衣服、隠し場所まで想定していた準備が、今この瞬間、すべて水の泡となっていた。
だが、それでも。
(あの状況じゃ……飛ぶしかなかった)
七海に「真人への追撃に協力しろ」と迫られたあの瞬間。
拒否すれば、即座に“裏切り者”の烙印を押されただろう。
もう,あそこで逃げるしかなかった。
身一つで来る以外に道はなかった。
それよりも、今は——。
(真人……ようやく会える。会いたい……)
この先の逃亡生活への不安より、
目の前の再会がすべてを凌駕していた。
最後の味方。師匠であり、悪友であり、恋人のような存在。
“呪術高専”という監獄の中で、ひたすら想い続けた相手。
湿った地下通路を進み、角を曲がった先——。
そこに立っていたのは、壁に片手をつき、左肩を大きく斬られた真人だった。
紬「……っっ、真人……!!」
再会の喜びと、その傷の深さに息を詰まらせ、
紬の声は裏返る。
だが、真人は,怒りとも諦めとも,哀しみともつかない,
歪んだ笑みを浮かべて言った。
真人「……そっちについたんだね、紬。俺を殺しに来たってとこか」
波打つように真人の右腕が変形を始める。
残りわずかな呪力で形は安定せず、それでも確実に“武器”として形を成そうとしていた。
紬「え……」
予想外の言葉に、紬は固まり,
思わず自分の手——袖を見て、心臓が凍りつく。
紬(あ………っっ……)
ーー自分が今着ているのは、呪術高専の制服。
そして、一カ月も音沙汰がなく、ボロボロの真人の前に、
突然現れたという事実。
"裏切り"の状況証拠は、揃っていた。
————"裏切り"の状況証拠。
それに気づいた紬は、顔が一気に青ざめ,
唇を震わせながら必死に声を絞り出す。
紬「違うの……真人! これは……!」
声は裏返り、息が上ずる。
「五条悟に捕まって、強制連行されて……“従わなきゃ死刑”だって! 拒否権なんてなかったの……!」
真人「……へぇ」
その返事は、ただの相槌にしては妙に長く、湿った笑みがにじんでいた。
真人「じゃあ今も、五条悟に言われて飛んで来たんだ?」
声音は問いではなく、揺さぶり。
まるで紬の答えより、反応そのものを観察しているように。
紬「……ちがっ……」
否定の言葉は出た。だがその先が続かない。
舌戦なら幾度も修羅場をくぐってきた紬が、
五条からの尋問では,即興で架空の呪霊を作り上げ,
真人の存在を隠し通した紬が、
今は言葉を失っていた。
あのときは——守るべきは真人だけ。
自分がどう思われるかなど二の次で、冷徹な“戦術的思考”で感情を切り離せた。
だが今は違う。
ずっと会いたかった相手に、真っ向から「裏切り者」と刺された衝撃が、
頭の中に盛大なノイズを撒き散らしている。
何を言えば信じてもらえるのか、その合理的思考が働いていなかった。
心臓の音だけが耳の中で爆ぜ、
思考は砂のように指の間から零れ落ちていく。
紬「そうじゃ、なくて………」
その懇願めいた声色に、真人の思考がわずかに揺れる。
もしかしたら“裏切り”ではなく、何か事情が——そう思いかけた瞬間。
真人(…………っ)
真人の呪力感知が捉えた,こちらに接近してくる呪力。
重く鋭い呪力の気配。七海だ。
まだ距離はあるが、この場に追いつかれるのは時間の問題。
早急に,紬から逃げるか殺すかして、この場から離脱しなければならない。
もたつく余裕は、もうない。
真人もまた,冷静ではなかった。
死んだと思っていた共犯者が、弱った自分の前に、敵の装いで現れ。
わけもわからぬまま“七海の追撃”というタイムリミットを突きつけられる。
焦燥が冷静な思考を霧散させ、
視界に映る紬の“呪術高専の制服”と、胸中に渦巻く執着だけが残った。
右腕がうねり、肉が伸び、骨が軋む。
瞬く間に、鋭利なワイヤー状の刃が形を成す。
真人「……死ねよ、裏切り者」
空気を裂く音とともに、
その刃は——紬へと振り下ろされた。