紬は,夢見心地の感覚が抜けきらないまま。
倦怠感の残る身体を引きずるようにして駅まで歩き、
電車に揺られ、家の前に辿り着いたのは21時過ぎ。
紬「ただいま」
リュックのサイドポケットから鍵を取り出し、
カチャリと玄関を開ける。
その瞬間、廊下の奥から足音が飛んできた。
紬の母「紬!!」
母親が目を見開いて駆け寄ってくる。
紬の母「どうしたの、こんなに遅く…いつもは18時には帰ってくるのに!」
肩をがしっと掴まれ、揺らされる。
紬「友達と遊んでた」
さらりと答えると、母親の表情が一変した。
紬の母「まあ、友達ができたの…! そう、そう…良かった! 紬のそういう話、全く聞かなかったから…」
目を輝かせ、さらに畳みかけてくる。
紬の母「どんな子なの? 女の子? 男の子??」
——ああ、始まった。
面倒くさいな、と思いながらも、紬は肩をすくめた。
紬「……男の子だよ。ちょっと趣味が合って、話してただけ」
紬の母「男の子!? え、紬の好きな人なの??」
紬「そういうんじゃない」
割って入るように、居間から父親の低い声が飛ぶ。
紬の父「紬、男の子と遊ぶのは結構だが、連絡はしなさい。何のためにスマホを持たせてると思ってるんだ」
——うるさいな。
心の中でそう呟き、紬は表情を崩さずに答える。
紬「ごめんなさい。ちょっと夢中になっちゃって」
紬の母「お父さん、いいじゃないの。せっかく紬に友達ができたっていうんだから」
母親が庇うように言えば、
父親は眉をひそめたまま、さらに問いかけてくる。
紬の父「いいや、だとしても弁えるべきことはあるだろう。
…紬。どこで遊んでいたんだ?
夜遅くまで連れ回すような男はろくな男じゃないぞ。駅までは送ってもらったのか?」
紬「大丈夫だよ、私も子供じゃないんだから。
ちゃんとわかってるって。
……あと、明日も会う約束したから、そういうことで」
言い捨てるように背を向け、そのまま階段へ。
紬の母「ちょっと紬?? 晩ご飯は?」
紬「コンビニで買ってきたから大丈夫」
部屋のドアを閉めると、家のざわめきが遠のいていく。
ドアの向こうで、両親が何か話している声が聞こえる。
「…友達いなくて、ようやくできたっていうんだから…」
「…明日も会うなんて、心配だろ…大丈夫な男なのか…?」
けれどその言葉は、意味を持たない雑音に変わっていた。
耳の奥では、まだ,真人の声が鮮明に響いていた。
———
次の日。水曜日。
桐生(きりゅう)紬は,学校にて———
授業中。
教師「じゃあこの問題を…桐生!」
紬「……………」
教師「………桐生?おい桐生!寝てるのか!?」
紬「えっ!?あ,いや,寝てません!で,えっと…どの問題ですか?」
教師「問6だ!ちゃんと授業に集中しなさい!」
ノートの罫線が、視界の端でぼやけていく。
理由は……もう言うまでもない。
休み時間。
男子A「なあ桐生さん…今日は輪をかけて上の空じゃないか?」
男子B「だな…。顔は可愛いのに,なんかいつも冷めてる感じで,変なやつだと思ってたけどさ…」
男子A「なんかもう……ついに魂まで抜け落ちたような……」
男子B「残念美人の典型だよなぁ……」
教室の隅でひそひそ交わされる男子の会話も、
紬の耳には届かない。
昼休み。
紬の友達A「でさー!うちの妹,林先輩のこと好きみたいなんだよ〜やばくない!??」
紬の友達B「やば!!!林先輩,好きな人いるって言ってなかった??」
紬の友達C「でもAちゃんの妹ってさ,顔可愛いじゃん!?
ワンチャンあるんじゃね??」
紬の友達A「いや無理だろ〜アイツ,すぐぶりっ子するし〜」
紬の友達C「あーそっか,林先輩,ぶりっ子無理なタイプだもんねー」
紬の友達B「……ちょっと紬??…聞いてる??」
紬「え,……ああごめん,……なんだっけ?」
“ぼっち”にならないために続けてきた、他愛ない会話。
その言葉の全てが、右耳から左耳へすり抜けていく。
そして、放課後。
下駄箱を過ぎ、校門を出た瞬間——空気の色が変わった。
昼間のざわめきが遠ざかるほどに、足取りは軽くなる。
目指す先は一つ。
あのじめっとした湿気のこもる地下通路。
吊るされた裸電球が作る、ぼんやりとした光の下。
昨日、世界が音を立てて変わった場所——
紬の足は、真っ直ぐそこへ向かっていた。