その日、紬が家の玄関を開けたのは、20時前だった。
紬の母「おかえり、紬!!」
母親が弾けるような笑顔で出迎える。
声のトーンが一段高い。
紬の母「今日も友達と遊んで来たのね?」
紬「……そうだよ」
笑顔を崩さず、母親は立て続けに質問を投げる。
紬の母「よかったわね…!どこで遊んでたの?」
紬「……アニメイト。学校のそばの」
紬の母「アニメイト…そっか!趣味が合うって言ってたものね……あ!そういえば聞いてなかった…なんて名前の子?」
紬「ま……まお、くん」
紬の母「へえ!同じクラスなの?」
紬「……うん」
紬の母「その“まおくん”さ、写真とかないの?」
紬「……ないよ。そういうの好きじゃなさそうだし」
もはや事実を言う気にもならない。
脳をほとんど回さず、ほぼ反射で,全てテキトーに答えていた。
母親の笑顔に合わせて口角だけを動かしながら。
紬の母「そう、残念…。あ、紬! 今日はちゃんと晩御飯食べるわよね?」
紬「……うん、食べるよ」
湯気の立つ食卓に座り、箸を動かす。
味わうこともなく、喉へ流し込むように。
母親との会話は背景のように遠く。
紬には,ただ「早く終わらせたい」という思いだけだった。
父親は対面で黙って食事を取りながら、
ちらちらと紬を見ていた。
何か言いかける気配があったが、
昨日の事前申告と、今日はそこまで遅くなかったこともあり、言葉を飲み込んだようだった。
ただ、紬が食器を片付け、階段へ向かうとき——
紬の父「…紬。もし何かあったら、すぐに言うんだぞ。
危ないことだけは、しちゃダメだからな」
その声に足を止め、振り返らずに答える。
紬「わかってるよ。……おやすみ」
部屋に戻り、制服を脱ぐ。
湯船に身を沈め,温かい水面の下で、まぶたを閉じれば——
耳に蘇るのは、風車の回る音と、あの声。
「もちろん」
「待ってるよ」
胸の奥を撫でるようなあの声音と、非日常の空気。
それが,湯気の中でも色褪せず、紬の心を掴んで離さなかった。
———
次の日。木曜日。学校にて。
朝から、紬はもう友達と話す気になれなかった。
もともと紬は、自分を含めた四人グループにいたが——
実のところ、紬以外の三人が仲良くて、
紬は“友達ではあるけれど、少し外様”という立ち位置だった。
だから、今回、紬がいよいよ話さなくなったことで——
最初は心配していた三人も、すぐに別の空気に変わっていった。
友達A「ねぇ紬…昨日から変じゃない?」
友達B「だよね…上の空だし、心ここにあらずって感じ」
友達C「授業中も、寝てないのに全然ノートとってないしね〜」
Bが小さくため息をつく。
友達B「ねぇ…なんかもう、良くない?三人でも……」
友達A「確かに…紬、前からズレてる感じはあったもんね…」
友達C「さっきだって、話しかけたのに無視されたしさー」
友達B「うわー、それはナシでしょ。…じゃあ、もういっか」
軽く肩をすくめ合い、三人はそのまま、紬を置いて談笑を続けた。
こうして、紬は“ぼっち”になったわけだが——
当の本人は全く気にしていなかった。
いや、正確には、気にも留めていなかった。
上の空? 違う。
紬は、学校にいる間ずっと——
真人から教わった呪力操作の復習をしていた。
今の紬は、もう強い恐怖や嫌悪感といった“きっかけ”がなくても呪力を練れるようになっていた。
それを昨日、呪力操作の特訓で,
真人がガイドしてくれた通り,
右腕、左腕、右脚、腹、指先、首、背中へと順番に流していく。
最初は、全身を一周させるのに三分ほどかかっていた。
だが二分五十秒、二分四十五秒……と、
繰り返すうちに呪力の流れが滑らかになり、タイムはじわじわと縮まっていく。
ペンを持つ手は、ただノートに走り書きをしているように見える。
実際には、その手先に呪力を送り込み、次は腹、次は背中——と意識を集中し,巡らせているのだ。
そして、これはあくまで,
ただ自分の中で呪力を循環させているだけ。
つまり,呪力消費はない。
そのため,いざ放課後,真人と会った時に,
特訓で呪力使っちゃって瞬間移動できない!
なんていう事態にはならない。
その意味でも,これは合理的な訓練法だ。
学校という拘束時間において。
もはや、耳に入ってこない授業を聞くよりも——
友達とどうでもいい話をするよりも——
この方が、紬にとっては、
よほど有意義な時間の使い方だった。