自由の旗の下に Under the banner of freedom 作:シューペア改革中
ティアマト星域外縁。
無数の恒星光を反射しながら、第一艦隊旗艦《サンティアゴ》は一定の速度で後退を続けていた。
速度は逃走にしては緩慢であり、しかし敵の射程外を維持するには十分である。
その微妙な加減は、前線指揮官レイモンド中将の計算ではなく、後方の統合作戦本部から送られた数値通りであった。ゼートゥーア少佐の設計した「餌」としての速度である。
後方スクリーンには、帝国艦隊の尖兵が鋭い三角陣形を保ちつつ迫ってくる様が映し出されている。
その中央に位置する大型艦——旗艦《アドラステア》は、帝国式の金と黒の装飾を施され、漆黒の艦体は冷たい光を返していた。
艦橋に座るカストロプ伯爵の表情は、勝利を疑わぬ者のそれである。
「敵、進路変わらず。距離、三・九光秒」
報告を受けたレイモンドは、わずかに顎を引いた。
「予想よりも速いな……」
その背後で、副官が小声で言う。
「ゼートゥーア少佐の読み通りかと」
帝国艦隊は速度を緩めない。むしろ加速していた。
第一艦隊の退路は、両翼に浮遊小惑星群を持つ狭隘宙域へと続いている。
レイモンドは戦術図を見つめた。そこには、未だ表示されていない二つの艦隊記号が、彼の脳裏では鮮明に存在していた。
第二艦隊と第三艦隊——彼らが同時に転進すれば、敵は閉じた網の中にいる。
《アドラステア》艦橋。
「愚かなものだ。あれほど堂々と退く敵艦隊を見たことがあるか」
カストロプ伯爵は笑い、参謀の進言を退けた。
「この宙域は狭すぎます。両翼からの奇襲の危険が……」
「それこそ、臆病者の妄言だ。包囲される前に包囲すればよい」
帝国艦隊の速度がさらに上がった瞬間、第一艦隊の針路がわずかに右へ傾いた。
その傾きは戦術図では些細な誤差に過ぎない。
だがゼートゥーア少佐が描いた包囲曲線において、それは「罠の口が閉じ始めた」ことを意味していた。
数分後、レイモンドは静かに命じた。
「全艦、予定通り後退を続ける。第二、第三艦隊に転進信号——時刻、ゼロ・ナイン・スリー・ゼロ」
通信士が頷き、暗号化信号を送出する。
遠く離れた二つの艦隊が、その時刻に向けて航路を修正し始めていた。
カストロプはまだ気付かない。
自らが、相手の意図を完全に読み切ったと信じて疑わぬまま、網の中央へと進み続けていた。
帝国艦隊旗艦《アドラステア》の戦術スクリーンには、後退する第一艦隊の姿が小さく映っていた。
「距離、二・七光秒まで接近」
測距士の声に、カストロプは満足げに頷く。
そのとき、通信参謀が小さく眉をひそめた。
「閣下、敵第二艦隊の反応があります。進路を——」
「無視しろ。奴らは陽動だ」
だが、カストロプの軽視とは裏腹に、銀河の一点では緻密な針の運びのごとき機動が進行していた。
ティアマト星系第三宙域の裏側、第二艦隊が鋭角的な転進を開始し、同時に第三艦隊が対称をなす曲線を描く。
ゼートゥーア少佐の描いた戦術図において、それは二本の曲線が収束し、中央の空間を覆い尽くす刃と化す瞬間だった。
第一艦隊はなお後退を続ける。速度はわずかに低下していた。
それは「逃げ切る」意志を放棄し、「敵を引き込む」決意の表れだった。
レイモンド中将の艦橋に、旗艦のAIが静かに告げる。
「敵との距離、二・五光秒——包囲点到達まで、あと四分」
副官が息を呑んだ。
「……始まりますな」
ゼートゥーア少佐は統合作戦本部の指揮スクリーン越しにその動きを見つめていた。
彼の目には戦場全域が、巨大な棋盤のように映っている。
敵の進路、その背後に生まれる退路の空白——全ては誘導殲滅のための計算された空間。
「あと三分」
彼は呟いた。
まるで敵艦隊の鼓動まで聞こえるかのような声音で。
《アドラステア》艦橋。
「敵第一艦隊、速度低下!」
測距士の報告に、カストロプの口角が上がる。
「逃げ疲れたか。今だ、全艦突撃——」
だが、その命令が艦内スピーカーに響くより早く、戦術スクリーンの左右端に二つの赤い艦影群が現れた。
第二艦隊、そして第三艦隊。
まるで舞台の緞帳が落ちるように、左右から迫り来る包囲陣形。
「包囲だと……!」
カストロプは息を呑んだ。
参謀たちの顔色が一斉に変わる。
撤退命令を出すには、すでに遅すぎた。
包囲網は閉じた。
第一艦隊が前面を押さえ、第二・第三艦隊が左右から圧迫する。
帝国艦隊の後方には小惑星群が広がり、退路を塞いでいる。
宙域は一瞬の静寂に包まれ——次の瞬間、光と爆炎が全方位に奔った。
レーザー光束が宙を裂き、陽電子砲の閃光が帝国艦の装甲を白熱させる。
第一艦隊は追撃から一転して反転、全砲門を開く。
第二艦隊は敵左翼を粉砕し、第三艦隊は右翼を削り取る。
帝国艦隊の密集陣形は、逃げ場を求めて内部衝突を始める。
ゼートゥーアは指揮卓の上で指先を軽く打った。
「包囲完成。予定通り、殲滅開始」
その声は、戦場の轟音とは無縁の冷たさを帯びていた。